「先生、夜が明けるまで僕を拐ってくれませんか」
高校二年の七月。
僕は担任である家見胡亜を呼び止めて、そんな突飛なお願いをした。
先生は生徒の要求を無条件に突っぱねるような人ではないとわかっていたから。
「詳しく聴かせてくれますか、月島くん」
「心酔する作家が昨晩自殺して、僕まで首を吊ってしまいそうなんです」
「それは担任として見過ごせませんね」
昼休みの廊下は、中庭から聞こえてくる陽気な声のせいで、人通りの多さに関係なく騒がしかった。それなのに、僕と先生が向かい合って立つわずか数メートルの空間だけは、雑音を寄せ付けない神聖な場所であるかのような雰囲気に包まれている。
「ただ残念ながら、生徒からの頼み事と言ってもすべてを叶えることはできません」
「……そうですよね。呼び止めてしまってすみませ——」
「それに夜明けまでなんて、親御さんが心配されるでしょう」
僕の謝罪を遮るように、先生は思ってもいないことを言う。
「母親が家に帰ってくることはありません、僕が実質的な一人暮らしをしていることは先生もご存知ですよね」
「はい、僕は月島くんの担任ですからね。無神経なことを失礼しました」
窓から差し込む光が反射した丸縁眼鏡の奥で、先生の瞳はどこか含みのある微笑みをたたえている。
極端に痩せた体つきと透けるような肌の白さ、無造作に乱れた髪に気怠そうな猫背、生物学専攻らしくいつも身に纏っている白衣、挙げればキリがないほど異様な要素を持つ先生に今のような表情をされると狂気すら漂っているように感じてしまう。
「お詫びをさせてください」
「……え?」
「無神経なことを言って僕は月島くんを傷つけました。なのでそのお詫びとして、夜が明けるまで付き合います」
どうして先生はそこまでして僕の頼み事を受け入れてくれるのだろう。今日はまだ水曜日で明日も先生の朝は早いだろうに。
「放課後、私の車で待ってます。ナンバーは314、東門付近の職員駐車場に停めてあります」
それでは、とだけ言い残し、先生は猫背を丸めたまま生物準備室へと姿を消していった。ひとり取り残された僕は、昼休み終了を知らせる鐘の余韻すらも無視して立ち尽くしていた。
◆
「無免許に免じて事故を起こしても怒らないことを約束してくれますか?」
「そういう冗談はいいですよ」
「こういう冗談を受け流してくれる月島くんとなら、夜明けまで心地いい波長でいられそうですね」
不規則な街灯による気休め程度の薄明かりが、ハンドルを握る先生の骨張った手を照らす。僕にとって深夜の散歩道でもある夜の海岸沿いは今夜も暗くて静かだった。ひとりならこのまま砂浜へと下りていき浜辺に腰を下ろしている。
「溺れたくなりますよね」
「はい?」
「僕は海から死を連想するので、首を吊ってしまいそうな月島くんにも通ずる感性があるのかもしれないなと」
先生の声は決して大きいわけでも力強く張られているわけでもないのに、不思議と車の走行音に埋もれることなく耳に届いた。信号が点滅して、赤になる。先生は僕にぬるくなったココアの缶を手渡して。
「月島くんはどう感じるでしょう」
と、感性の確認を続けた。
「溺れたい、というより沈みたくなります」
「詳しく聴かせてくれますか」
「地上と水中、どっちが生きやすいかなって。溺れたらそこで終わりだけど、一度沈んだだけなら戻ってこれるような気がして」
僕が後を追ってしまいそうなほど惚れ込んでいる作家なら、きっとこう答えるだろう。先生の左頬が緩む、僕のことをわかってくれたのかもしれない。それか共感してくれたのか、僕はちょっとだけ嬉しくて、緩んでしまいそうな口角を隠すようにココアの缶に唇をつけた。
「月島くん、ちょっと車を止めてもいいですか」
「いいですけど、どうして」
先生は理由も告げずに車道の端に停車して、待っていてくださいね、とだけ言い残して車を降りた。
僕は後ろから車が来てしまわないかと不安を抱えつつも、先生の様子を目で追い続けている。猫背のその背中がさらに丸まり、やがてしゃがみ込んだ先には、先生の手のひらほどの猫がいた。怪我を負っているのか、親猫と離れ迷い込んでしまっているのか、その場を動こうとしない。先生はその猫を掬うようにして車道から離れるよう導く。
猫が車道から草むらへ駆けていくのを見届けてから先生は戻ってきた。
先生のことを薄情や無慈悲な人だと思っていたわけではないけれど、車道で丸くなっている猫に寄り添うような人だとは、それ以上に思っていなかった。
「猫、好きなんですか」
「好きというより、猫を轢くような人になりたくないだけです」
缶コーヒーを啜って軽く咳払いをすると、お待たせしました、と再び車を走らせる。
横顔は変わらず無表情で、この顔も猫の前では微笑んでいたのかな、なんてことを考えてみたけれど先生が柔らかく笑った顔なんて上手く想像できなかった。
そして不意に思う。猫があの場を動かなかったのは、近寄ってきた人間の異質さを猫ながらに感じたからなのではないかと。
そう思ったのはきっと、今の僕がそうだからだ。
先生は二ヶ月前に産休に入った担任の代わりとして、僕たちのクラスに赴任してきた。
授業中の態度は淡白で、それ以外の時間は基本的に生物準備室にこもっている。まるで生徒になんて興味がないようなのに、先生は初めて教壇に立った朝、僕たちに——
——「死んでしまいそうになったら、僕に頼ってください」
そんなことを狂気すら感じてしまうほど真剣な眼差しで言ってきた。
そして言葉はさらに続いて。
——「死にたいとは言いづらいと思います。なので、拐ってほしい、と言葉にしてください。冷やかしでない限り、僕はいくらでも付き合います」
生きてきた中で、先生ほど極端な寄り添い方に出会ったのは初めてだった。
——「拐う。は比喩ではなくそのままの意味で、僕が僕の責任で、死を望む生徒を連れ出します。他の職員や保護者にバレてしまえば僕の首は飛ぶでしょう。誘拐事件だと言われてしまっては否定もできませんからね。ただ、僕はそのリスクを負ったうえで、手を差し伸べます、そして無責任に離すことはありません」
言われた直後は、簡単に死にたいなんて言うなよ、なんて抑止力だろうと思ったけれど、結局、漠然と救われたくなった僕が縋ったのはそんな先生だった。
自分を迷い猫と重ねるなんて痛々しいけれど、不覚にも共感してしまいそうになる。
「月島くん」
「はい」
「どうして首を吊ってしまいそうなんですか」
深刻な雰囲気を漂わせることなく「晩御飯は何がいいですか」とでも言うような空気感で先生は僕にそう尋ねた。
死にたい理由を言葉にするより難しい感情表現に僕はまだ出会ったことがない。
死にたい、死んでしまった方がいい、消えたい、生きていけない、存在していた事実ごと消し去りたい、今の僕がどれに当てはまっているかすら曖昧になっている。
心酔する作家が自殺して、それは嘘だ。
僕にはその作家が生きている時も死にたさがあって、もっと言うなら死にたさなんてなければ僕はその作家に惚れていなかった。
「月島くん」
「……はい」
「夜が明けるまでに教えてくれたらいいですよ」
◆
「ここのオムライスを食べて、主人公は死んだんです」
一軒目の目的地は、その作家のデビュー作のラストシーンを飾る喫茶店。
せっかくなら月島くんに行き先は委ねましょう、という我儘に従った結果だ。
若い男性教師視点で女子生徒との恋を描いたもので、恋人である生徒が自殺した春を十度繰り返すという物語。
「毒を香辛料と勘違いしてしまったのですかね、お気の毒に」
「そんな粗末に主人公を殺めるような作者じゃないです」
一瞬、先生の口元が「ふふっ」と自然に緩んでいるように見えた。
店内は西洋風のクラシカルな装飾が施されていて、壁には小さな額縁に収められた風景画が等間隔に並んでいる。アンティーク調のシャンデリアが柔らかな灯りを落として、テーブルに置かれたキャンドルがちらちらと揺れている。
「ここを訪れるのは初めてですか」
「はい、歩くには遠くて公共機関も通ってなくて行けずにいました」
「車で二時間は一人の高校生にとって小旅行と言えるのかもしれませんね」
もし仮に僕がどこかで意識を失ってここで目が覚めたとして。僕は瞬時に、あの小説に出てくる喫茶店だと気づくことができるだろう。それくらい、作中の描写は忠実だった。
コーヒーカップを片手に文庫本を読んでいる年配の女性と奥の席で小声で話しながら笑みを交わすカップルの姿まで奇跡的に一致している。
「その小説がどのような物語か聴いてもいいですか」
「教師と生徒が惹かれあって恋に堕ちるんです」
「それはロマンチックな設定に聞こえますね」
ロマンチック、確かに。でも僕は先生の言葉に頷けなかった。
例えば街は人目についてしまうから離れて通話を繋ぎながら歩いたり、お互いの写真を一枚も撮らなかったり、恋人である教師の家に行く時にボブの彼女がロングのウィッグとマスクを必ず身につけていたり。二人でいるための日常的な束縛を、その物語では幸せとして描かれていた。
ただ、この物語をロマンチックなんて言葉で片付けることが僕にはできない。
「ヒロインである女子生徒は、物語の序盤に自殺するんです」
「序盤で、ですか」
「一章の終わり、出会って一年が経った春ごろに亡くなって、そこから十回主人公である教師が彼女との春から始める二人の時間を繰り返します」
高校一年生の彼女が入学してくるシーンから始まり、彼女のクラスに赴任するシーン、出席確認で初めて名前を呼ぶシーン、放課後の廊下で偶然すれ違うシーン。彼は、いずれ恋人になる彼女と、何度も他人、教え子、恋人、それぞれの距離感を辿っていく。起こる出来事や景色は変わり映えしないのに、彼女を好きになる瞬間は何度目だろうと新鮮で、初めて彼女を苗字ではなく下の名前で呼ぶ瞬間は何度目だろうと鼓動が速くなっていた。
その初々しさが可愛らしくて、僕は架空の二人の幸せを心から願ってしまって、もう何度読み返したかわからない。
「十回目の入学式前日、彼女が着席予定の椅子に手紙が置いてあったんです」
「それは、遺書でしょうか」
「わかりません。ただ【私はあなたと何も隠さずに出掛けてみたい】と書かれていました」
彼はその手紙の存在を隠したまま、何も知らないふりをして彼女との初めましてを交わした。教え子として親しくなって、放課後の空き教室で告白されて、恋人になって——やがてヒロインの命日前夜を迎えた彼は、彼女をある場所へ連れ出す。
それが、この喫茶店。
「制服のまま、ウィッグもマスクもせず手を繋いで二人はここまできました。そして彼女の大好きなオムライスを二人で食べるんです」
「それじゃあ、冒頭でオムライスを食べて主人公が死んだと言っていたのは?」
「彼は重度の卵アレルギーで、彼女はそれを知りませんでした。症状が出始めて赤く腫れた唇を「僕も緊張しているんだ」と誤魔化して、彼女に最期のキスをして物語は終わります」
説明のためにその物語を要約するけれど、どうも退屈に聞こえてしまう。そうさせている僕の語彙が憎い。
彼女は読者が酔ってしまいそうになるほど可愛らしくて、彼は教師という仮面を貼り付けていても彼女への想いが溢れ出てしまっていて。二人の間を漂う危うい甘さや、死という結末を知ってしまっていることの切なさ。器用にまとめることのできなかった物語の魅力で、僕の頭の中は埋め尽くされて溺れてしまいそうになる。
カウンターの奥からは、コーヒーを抽出する静かな音や、ミルクを泡立てるスチームの音がかすかに響いてくる。漂ってくるのは深煎りのコーヒーの香りに混じる甘いシナモンの香り。
入店してから、既に三十分が経過している。このまま何も頼まず僕の話を続けるのは、先生にもお店にも申し訳ない。僕がメニュー表に手を伸ばそうとすると、先生は僕の手を止め、一つ問いかけた。
「月島くんは誰かのために死にたいと思ったことはありますか?」
一瞬、心臓が強く脈打った。
言葉を詰まらせている僕を、先生は少し首を傾げたままじっと見つめている。その質問に特別な意図なんてないかのように、さも当然と答えを求めているような目をしている。
「例えば誰かを守るためとか、秘密という名の嘘を隠し通すためとか。その教師と生徒のように誰かを思って死を選ぼうとしたことはありますか?」
「僕にはそんなたいそうなこと、想像すらできないです」
その答えに情けなくなって、声が次第に弱々しくなっていく。
先生とろくに目を合わせることもできず、ずっと手元を見つめて俯いてしまう。僕は、僕のこういうところが嫌いでたまらない。ここで「愛する人のためなら命を投げ出せます」と言い切れるような強さが欲しかった。
「安心しました」
「……え?」
「先の人生、僕より遥に多くの人と出会う月島くんが相手を理由に死を考えてしまう人じゃなくてよかったです」
生徒を気遣う気持ちから出た嘘かと一瞬疑ってしまったけれど、そのわずかにほころんだ表情を見て、それが先生の紛れもない本心からの言葉だとわかった。正しい回答に辿り着いた生徒に向けるような、そんな表情をしている。
「情けないとか、薄情だって思わないんですか?」
「僕は、僕より若くして教え子に死んでほしくありません」
その一言にはっとさせられる。
死んでしまいそうになったら、僕を頼ってください。あの時、唐突にそんなことを言われた僕は言葉に込められた心なんてわかりもしていなかった。教師だから? 大人だから? 違う、きっと先生はそんなことが理由で言ったんじゃない。
「先生はあるんですか」
探るように尋ねてみる。
何も気づいていないふりをして尋ねる小賢しさへの嫌悪で押し潰されそうになる。
「六年前に、人を理由に死ななければいけないと思ったことがあります」
躊躇われることもなく、事実を事実のまま答えられた。
六年前。確か先生は二十九歳だったっけ。当時二十三歳、教員一年目の頃。「詳しく聴かせてくれますか」と言ったら、きっと教えてくれるだろうけど僕に先生の過去に深入りできるほどの度胸なんてあるわけもなく、勘づいてしまったことを隠して返答することで精一杯だった。
「今も、そう思うことはありますか」
「まったくと言ったら嘘になります、でも、踏みとどまれるようになりました」
「それは、先生が強くなったってことですか」
「僕が死んでしまったら、生徒に若くして死ぬ選択を教えてしまっているようで気が引けるんです」
死は親が子に教える最後の教えだと、どこかで聞いたことがある。自分のことを育ててきた人の死を実感することで現実を学び、生き方や命に向き合うのだと。その理論に従うのなら、将来の選択肢を示す教師の自殺を先生がよく思っていないのも理解できる。羨ましい、先生には生きなければいけない理由がある。生徒から「生きていてください」と頼まれたわけではないだろうけど、先生は教師として生きる責任があるときっと強く信じている。僕にもそう思えるものがあったなら、どれだけ救われていただろう。
「月島くん」
「はい」
「お腹空きませんか? 難しい話はどこでもできますけど、ここのご飯はここでしか食べられませんよ」
そう言ってヴィンテージ感漂うデザインのメニュー表を手に取る。ハンドルを握っている時にも感じていたけれど、学校の外で見る先生の手は薬品や教科書を握っている時とは雰囲気がまるで違う。そして違うのは雰囲気だけじゃない。
「このナポリタン、食後にプリンがついてくるらしいですよ? でもこっちのパンケーキも捨てがたい気がします」
先生は意外と甘いものに惹かれるタイプで、メニュー表を前に無邪気に迷ってしまうタイプだった。それがちょっとだけ可愛らしく思えたり。そういえば同じようなことをあの小説の彼女も言っていたような気がする。
『先生ってマカロンとか好きなんだ、なんか可愛い』
とか、そんなセリフがあった気がする。
無意識のうちに僕は先生をじっと見つめていたらしく、先生がそんな僕を不思議に見ていたところ目があってしまった。
「先生、何にしますか?」
「迷います、せっかくなので月島くんのとっておきをいただきたいところです」
「アレルギーはありますか?」
先生が黙り込む。なんとなく、次に言い出すことは予想できていた。
「卵がアレルギーです」
「それならフレンチトーストは難しいですね」
「オムライスをいただきましょうかね」
「そういう冗談はいいですよ」
◆
「先生、電話鳴ってませんか?」
「すみません、妻からです。ちょっと、出てもいいですか?」
「もちろんです」
喫茶店から車を一時間ほど走らせ、僕と先生は近くの沖に車を停めて灯りのない灯台のもとで二人並んで腰掛けている。
結局、先生はナポリタンと卵不使用のプリンを頼んだ。そして閉店時間である深夜一時まで他愛のない会話をしていた。もし地球以外の出身だったらどこの星で生まれていそうとか、お互いが同じ教室で生徒として出会っていたら友達になれていたかとか。授業中に余談など一切挟まない先生との雑談は、これまた意外に心地のよいものだった。
「失礼しました、帰りにガソリンを入れてきてと頼みの電話でした」
「先生、結婚してるんですね」
「独り身に見えますかね」
「薬指に指輪がないので」
「仕事柄薬品を取り扱うので変色したり溶けてしまったりが怖くて普段は着けていないんです」
結婚記念日のディナーには必ずつけるって決めてるんです、と頬を緩ませた。大学生の頃に出会って、卒業した次の春に籍をいれたと懐かしむように教えてくれた。
「それなら奥さんも学校の先生なんですか?」
「妻は文学部に在籍していたので学芸員になりましたよ」
「先生はどうして教師になったんですか?」
教育実習生への定番質問を先生にするなんて、ちょっと違和感がある。
「作家だけで食べていける自信がなかったからです。僕は我儘な暮らしがしたかったので安泰な資格を取ってしまえばある程度好きなものが食べられて、温かい家に住めて、一緒にいたい人といられるかなって。だから学生時代一度も授業中に眠ったことがない生物の教員免許を取ろうと思ったんです」
作家だけで食べていける自信がなかったから。予想すらしていなかった理由だけれど先生は確かにそう言った。もともと作家志望だったのだろうか、僕が先生に抱くイメージから作家はかけ離れている。強いて挙げるなら、遠回りな言葉遣いをするところから作家志望の面影を感じられるのかもしれないけど。
「今でも、作家になりたいって思うことはありますか?」
「僕が碧木命だと言ったら、月島くんは信じてくれますか」
「……え」
その言葉を耳にした直後、脳が鈍くなったような感覚に陥った。
碧木命は、昨日死んだはずの、僕が心酔している作家。
その作家が、実は僕が二ヶ月前から日々顔を合わせていた担任——嘘だ、でも、そう否定できないのは先生の声に妙な説得力があったから。
「家見胡亜をローマ字に直して反対にしてみてください。それが答えです」
【iemikoa】逆さまにすると【aokimei】。
その文字列は間違いなく意図的に組まれたもので、この後に及んで先生の言っていることが冗談だなんて思えるわけもない。
動悸が止まらない、衝撃で胃が裏返ってしまいそう。
「ね?」
「……嫌です」
「嫌、ですか?」
「碧木命は、もっと……もっとどうしようもなく弱くて、落ちぶれた人間だと思ってたから——頼れるものは小説しかなくて、綺麗事なんて書かないし、書けないのかもしれない。好きも嫌いも愛も憎みも、人の心を気味が悪いほど生々しく描く人だからきっと繊細で生きづらいんだろうなって。だから僕も大丈夫って、こうやって生きづらくても生き延びれる、生きてていいんだって、そう思ってたのに……なのにどうして? どうして先生みたいな強い人が、作家だけじゃ生きていけないって判断できちゃう常識人が、碧木命なんですか……?」
結局、みんなちゃんと生きてる。ある程度のレールに従って、手に職をつけて、愛する人と結婚して、死ねない理由とか抱えちゃって。
眩しすぎて目が眩む、目眩がする。僕の中の碧木命が崩れていく。
「碧木命の訃報をSNSで知った時、やっぱり弱い人って最後は死ぬしかないんだって絶望したんです。それが昨日の夜で。それなのに今は、そう都合のいい弱い人なんていないんだ、って。そういう絶望です」
あまりに無遠慮で、無配慮なことを言っている。それをわかっていても言葉を止められないのは、先生からのカミングアウトを受けて、碧木命に救われたと思っていた心すら弄ばれたように感じてしまっているから。
「命は元教え子の名前です、漢字は違いますけどね」
「……それがどうしたんですか?」
「校則を無視したメイクなんて日常で、愛嬌があって、不器用なせいで薬品をよく混ぜ間違えて、廊下で見かけたら駆け寄ってきて、自傷癖を抱えた繊細な女子生徒の名前です」
「だから、それを聞いた僕はなにを思えばいいんですか?」
「六年前に死んだ教え子の名前を借りて、僕は作家になりました。教師になるために折った筆を、僕は教え子が死んだという傷を癒すために執り直したんです」
大丈夫です、その生徒と恋人関係になったりなんてしてませんから。と冗談のように付け加えて、先生は沈黙を縫った。
彼女は、先生が教員一年目に担任した一年生の生徒だったらしい。父子家庭でありながら父親は半年に一度しか帰って来ず、実質の一人暮らしだったと。なんだかその境遇がすごく僕に似ていた。彼女の自傷癖が発覚したのは、放課後、生物室で備品を洗うために袖をまくった彼女の腕を先生が偶然目にしてしまったかららしい。「不器用なのに、そういう嘘は器用な子でね」と先生は寂しそうに笑った。
「僕が腕を見てしまってから彼女は心を許してくれたようで、たまに話を聴いてほしいと一緒に夜道を歩くことがあったんです。学校周辺は人目につくので、あの海岸沿いまで車で来てそこからちょっと歩いたり」
「それならデビュー作に出てくる海の見える道って、やっぱり……」
「そう紐解かれると、服を脱がされていくようで恥ずかしいですね」
先生のことだから傷だらけの腕を見ても、過剰に心配を態度として出さなかったのだろう。彼女からしたらそれが心地よくて、その延長として二人で海岸沿いを歩く。恋愛感情なんてなくても、その理由と光景を切り取るだけで十分物語になってしまう。そんな感覚的な納得を根拠に、僕の頭は少しずつ目の前にいる担任が碧木命であることを受け入れ始めている。
「歩いている時、彼女はよく言っていました。私は猫が車に轢かれそうになったら自分の命も無視して助ける、って」
「え——」
「それくらい、命の瀬戸際に立っていた子だったんです」
想像力の乏しい僕は、彼女が自ら命を絶ったのだと思っていた。彼女は轢かれそうになった五歳の男の子を庇って亡くなったらしい。その日は放課後に個別面談があって、彼女の第一志望大学が決まった日だったのだそう。
「彼女が亡くなってから、僕は教師としての力不足を感じて、せめて人としては彼女への償いの行為をするべきだと思ったんです」
「それが、小説だった」
「彼女と進路の話をした時、僕が作家志望だったことを明かしました。そうしたら『いつか私のことモデルに書いてほしいなぁ』って言ってくれて。僕は彼女が生きている間に何もしてあげられなかったから、せめても叶えてあげたくて。それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「彼女の志望大学の入学金と卒業までの学費を彼女をモデルに描いた小説で得て、お父様に渡すこと、それが僕なりの償いでした。仕事で離れて暮らしているお父様のことを彼女は大切に思っていたから、小説で得た収益はすべて彼女のお父様に」
教え子が事故で亡くなったとしても、 先生ほど尽くす教師はそういないと思う。先生は、自分が彼女の人生に教師としてではなく人として関わった自覚が強くあるからと葬儀が終わったあと、彼女の父親に償わせてほしいと頼んだそうだった。
「彼女との面談はいつも進路相談というより人生相談でしたからね」
先生が遠くを見つめながらそう呟くから、僕までつられて切なくなってしまう。僕は彼女のことを何も知らないけれど、先生が彼女を教師として、人として、大切にしていたことだけは知っている。だって碧木命が書く小説で、彼女を否定したことは一度もないから。彼女だけじゃない、彼女の親、兄弟、友人、彼女が大切にしていたものを否定したシーンやセリフはひとつもなかった。それは、紛れもない愛で、大切に想っていた証だと思う。
「それじゃあ、先生が碧木命を終わらせた理由って——」
「目に見える償いが終わった、つまり、彼女が卒業するまでの学費をお父様に渡せたのが昨日だったんです」
「でも、辞めたり、死を装う必要はないんじゃないかなって思うんです」
「ずっと自分のことを書かれていると彼女も気が休まらないと思って。それに、僕は僕で、碧木命は碧木命です。使命を果たしたらそこで終わらせるのが筋だと私は思います」
彼女への償いのために生まれた碧木命と、教師として人生をまっとうするために生きている家見胡亜は一つの肉体の中に存在する違う人たち。先生が死を装ったのではなく、生まれた意味を果たしたから碧木命は死んだ。受け入れたくないけれど、その迷いのない口調と眼差しを見てしまっては何も言い返すことはできない。
「月島くんは彼女によく似ています」
「え——」
「僕はこのまま夜明けを迎えて月島くんをひとりにするのが怖いです」
その言葉は「心を委ねていいですよ」という頼もしい優しさのように聞こえたあと「どうか心を委ねてほしい」というどこか臆病な願いのようにも聞こえた。
結果論、彼女は事故死で自ら命を絶つことはなかったけれど、いつ自分から身を投げてしまっても不思議じゃない状況だった。そんな彼女に似ているということは、今の僕は先生からそういうふうに見えているんだ。そして、僕はそれを否定できない。僕は、僕がいつか、生きることを投げ出してしまいそうで怖い。
「僕は、自分の弱さに耐えられなくなりそうで怖いです」
「……詳しく聴かせてくれますか」
「僕は今学生で、在籍している限り生きる理由がついてきていると思うんです。課題とか、部活とか、そういう学生として生きるためのレールがしっかり固まってる状態。今の僕が生きているのは、そういうよく言えば易しくて、悪く言えば生ぬるい場所なんです」
先生は相槌を打たない、僕のペースを崩さないために静かに聴いてくれている。今から僕が口にするのは、情けないと笑われてしまうような内側の感情。嬉しいとか楽しいとか、怒ってるとか悲しいとか、そんな絵文字に収まってしまいそうな外側の感情とは密度も質量もまるで違う。
「でも、僕はいずれその場所を離れないといけないじゃないですか。生きるために自分の力で職について、お金を稼いで……そのうちきっと、ただ生きているだけじゃつまらなくなって、趣味とか昇進とか結婚とか子どもとか、だんだん欲張りになっていって。そういうことが漠然と億劫になって、こんな僕にできるはずがないって怯えちゃって、全部を手放したくなる弱さに呑み込まれてしまいそうで怖いんです」
吐いた言葉が、僕の耳を通って、その惨めさに吐きそうになる。
人に伝えるための言葉にして初めて気がついた。遠回りな言い方をしているだけで、僕はただ大人になれるか不安なだけだ。
ちゃんと働いて、住む家があって、身なりが整えられていて、恋人がいて、数ヶ月に一度会う友人がいて。そういう求められる普通に当てはまる自信が今の僕にはなくて、それなのに時間だけは進んでいくことがどうしようもなく怖かったんだ。
「自分の弱さに耐えきれなくなることは、きっと何度もあると思います。不安になったり、孤独感とか焦燥感に襲われたり、今の月島くんみたいに」
先生は湿った海の空気が漂う空間にひとつずつ、僕への言葉をこぼしていく。
「大人になると確かに、そういう時に手を差し伸べてくれる人は減ってしまうものかもしれないですね。ただ、自分だけは、自分の手をずっと繋いでいてくれますから。その孤独とか絶望と、どれだけ仲良く手を繋げるか、それだけで息のしやすさは変わってくるんじゃないかなと僕は思います」
先生の薄い手のひらが俯いている僕の丸まった背に触れる。
少し冷えたその手が、今は夜明け前の夏の空気より暖かかく感じた。
視線を上へ向ける、先生と目が合う。微笑んでなんかいないのに、その瞳は優しかった。それでいい、そのままでいいと訴えかけてくれるような瞳。
「でも、先生が言ったそれって、自分を信じるとか認めるとか、そういう強さだと思うんです。自分を信じ切れていたら僕はこんなに怯えてなくて。いつか自分を信じられるなんて期待すら抱けなくて、そうなるために頑張らないとって焦るだけで、頑張る気力はなさそうで」
「そうしているうちに時間だけが過ぎていくことを、月島くんは弱さに呑み込まれると感じるのですか?」
「すごく情けないですよね」
先生の眉間に薄く皺が寄って、少しだけ難しい顔をした。
やっぱり先生には、ちゃんと生きられている大人には、今の僕の心なんてわかってもらえないのかもしれない。でも、わかってほしい。完全な共感なんていらないから、僕を見離さないでほしい。否定でも肯定でもいいからせめて、言葉が欲しい。
「先生」
静かな空間が妙に寂しく感じて、僕は咄嗟にそう呟いてしまった。
「月島くん。僕はきっと、そこらの大人より器用で、それでいて過剰に弱いところがあると自覚しているんです」
「……詳しく聴かせてくれますか」
「保険がけとして教員免許をとって、教師をしながら作家であることを隠し通して小説を書けるくらいには器用。でも、物語とか、こうやって生徒を引き留めることの動機は僕の中にある弱さですから」
そこらの大人より器用で、過剰に弱いところがある。
きっと先生のそんな性質が僕を引き寄せたんだろう。
僕は碧木命の弱さに共感して、安心して、心を寄せていた。だから最初、その正体が先生だと明かされた時は裏切られたような、置いて行かれてしまったような気がして寂しかった。でも、今は違う。
「僕はみんなより不器用で、弱さに怯えています」
「何においても自覚は必要です。月島くんは弱さへの自覚を持っています。だから、もし呑み込まれてしまいそうになったら誰かの肩に寄りかかってほしいんです。僕でも、他の誰かでも。大人になっても、一人になるわけじゃないです。これは大人になった僕が言っているので間違いないです」
今は、この人のもとで弱さを受け入れてみたいと思えている僕がいる。
言葉に詰まる僕を察して、先生はそっと手を握ってくれた。
ほんのりと青みを帯びている空の端、水平線が淡いオレンジに染まり始めている。太陽がゆっくりと姿を現して、夜を優しく溶かしていく。
先生は夜明けまで僕を拐って、そして心を掬い取るように包んでくれた。
「先生、僕はまた先生に拐ってほしいと言ってしまうかもしれないけど、それでも、ちょっとずつでも、変わろうって思ってます。だから僕のこと、見離さずにいてほしいです」
「僕から見えるところにいてくれるのなら、いくらでも付き合いますよ」
「……迷惑じゃないですか?」
「迷惑は相手に心を預けてる証拠だと思います。その人に甘えていたり、頼っていたり。そんな心の動きを生徒から向けてもらえるなんて教師として何よりの幸せなんですよ」
空から差し込む光が反射した丸縁眼鏡の奥で、先生の瞳は純粋な優しさで溢れた微笑みをたたえている。安心しているはずなのに鼓動が騒がしくなって、頬の辺りが湿っぽくなる。ぼやけていく視界を晴らすために瞬きをすると、先生は小さな子どもを宥めるような柔らかい眼差しを僕に向けながら——。
「弱いままでいいです。せっかく生まれて、わざわざ苦しんだんですよ、ちょっとでも幸せを吸ってからじゃないと手放すにはまだもったいないです」
◆
昨晩一台も通っていなかった海岸沿いの道路には通勤を急ぐ車が走っている。
僕と先生は車内で二時間程度の仮眠をとったあと車を走らせて、学校までの道を辿っている。時刻は既に六時半、僕も先生も今日は遅刻してしまうだろう。
「時間を守ることより睡眠が大切な時もありますからね」
「職員会議で肩身が狭くなりませんか?」
「そんなことより、生徒を乗せた車で事故を起こす方がよっぽど怖いです」
そう呑気に笑いながら、先生はハンドルを切る。月島くんが授業中に眠っていたら生物以外の授業でも起こしに行きますね、なんて普段なら言わない冗談まで添えて。
「そういえば公務員って副業禁止ですよね、私立高校勤務でもないですし」
「法律にも抜け穴があるんですよ」
「そういう冗談はいいですよ」
「ふふ、収益はすべて妻の口座に振り込まれるようにしていただけの話です」
よかった。触れてはいけないことを尋ねてしまったかと一瞬焦った。
これから発生する碧木命の小説の利益は、すべて受け取りを断っているのだそう。彼女はきっと必要以上に尽くされてしまうと気を遣うだろうから、と最後まで碧木命は彼女のために生きていた。
「月島くん」
「はい?」
「こんなことを教師が言うなんて変な話ですけど、ある程度決まりのある法律ですらこうして誤魔化し方があるんです。人生の誤魔化し方なんて無限にあると思いませんか? たぶん、それくらい適当でいいんですよ」
呟くように紡いがれた言葉は、まっすぐ僕に届いた。
この一晩で、僕は一つ気づいたことがある。
きっと先生も、弱さを抱えて生きているということ。
彼女への償いを果たしたから、碧木命は死んだ。それじゃあもし、先生が教師を辞めたら? 僕に生き方を、傷だらけの優しさをくれた先生はどうなってしまうだろう——きっと、想像するよりずっと先の話だけど、僕は寂しくなってしまった。
「先生」
「どうかしましたか?」
「教え子として、僕は先生より若く死なないことを約束します。だから先生も、できる限り長く生きてくれることを約束してくれませんか」
「素敵ですね、わかりました。約束ですよ、月島くん」
ハンドルを握っている先生の指で、小指だけが微かに動いていた。
その仕草は言葉よりも雄弁で、抑えきれない緊張や迷いが滲んでいるように見えた。
——約束ですよ、月島くん。
これは僕の思い違いかもしれないけれど、その言葉はどこか「置いていかないで」と引き留める意味を含んでいるように感じた。
僕に大丈夫を授けてくれた先生へ、今度は僕が大丈夫を授けたい。きっと、半分すら埋められないけど、それでも。
「約束です、僕は弱いままでも生きてみせますから」
高校二年の七月。
僕は担任である家見胡亜を呼び止めて、そんな突飛なお願いをした。
先生は生徒の要求を無条件に突っぱねるような人ではないとわかっていたから。
「詳しく聴かせてくれますか、月島くん」
「心酔する作家が昨晩自殺して、僕まで首を吊ってしまいそうなんです」
「それは担任として見過ごせませんね」
昼休みの廊下は、中庭から聞こえてくる陽気な声のせいで、人通りの多さに関係なく騒がしかった。それなのに、僕と先生が向かい合って立つわずか数メートルの空間だけは、雑音を寄せ付けない神聖な場所であるかのような雰囲気に包まれている。
「ただ残念ながら、生徒からの頼み事と言ってもすべてを叶えることはできません」
「……そうですよね。呼び止めてしまってすみませ——」
「それに夜明けまでなんて、親御さんが心配されるでしょう」
僕の謝罪を遮るように、先生は思ってもいないことを言う。
「母親が家に帰ってくることはありません、僕が実質的な一人暮らしをしていることは先生もご存知ですよね」
「はい、僕は月島くんの担任ですからね。無神経なことを失礼しました」
窓から差し込む光が反射した丸縁眼鏡の奥で、先生の瞳はどこか含みのある微笑みをたたえている。
極端に痩せた体つきと透けるような肌の白さ、無造作に乱れた髪に気怠そうな猫背、生物学専攻らしくいつも身に纏っている白衣、挙げればキリがないほど異様な要素を持つ先生に今のような表情をされると狂気すら漂っているように感じてしまう。
「お詫びをさせてください」
「……え?」
「無神経なことを言って僕は月島くんを傷つけました。なのでそのお詫びとして、夜が明けるまで付き合います」
どうして先生はそこまでして僕の頼み事を受け入れてくれるのだろう。今日はまだ水曜日で明日も先生の朝は早いだろうに。
「放課後、私の車で待ってます。ナンバーは314、東門付近の職員駐車場に停めてあります」
それでは、とだけ言い残し、先生は猫背を丸めたまま生物準備室へと姿を消していった。ひとり取り残された僕は、昼休み終了を知らせる鐘の余韻すらも無視して立ち尽くしていた。
◆
「無免許に免じて事故を起こしても怒らないことを約束してくれますか?」
「そういう冗談はいいですよ」
「こういう冗談を受け流してくれる月島くんとなら、夜明けまで心地いい波長でいられそうですね」
不規則な街灯による気休め程度の薄明かりが、ハンドルを握る先生の骨張った手を照らす。僕にとって深夜の散歩道でもある夜の海岸沿いは今夜も暗くて静かだった。ひとりならこのまま砂浜へと下りていき浜辺に腰を下ろしている。
「溺れたくなりますよね」
「はい?」
「僕は海から死を連想するので、首を吊ってしまいそうな月島くんにも通ずる感性があるのかもしれないなと」
先生の声は決して大きいわけでも力強く張られているわけでもないのに、不思議と車の走行音に埋もれることなく耳に届いた。信号が点滅して、赤になる。先生は僕にぬるくなったココアの缶を手渡して。
「月島くんはどう感じるでしょう」
と、感性の確認を続けた。
「溺れたい、というより沈みたくなります」
「詳しく聴かせてくれますか」
「地上と水中、どっちが生きやすいかなって。溺れたらそこで終わりだけど、一度沈んだだけなら戻ってこれるような気がして」
僕が後を追ってしまいそうなほど惚れ込んでいる作家なら、きっとこう答えるだろう。先生の左頬が緩む、僕のことをわかってくれたのかもしれない。それか共感してくれたのか、僕はちょっとだけ嬉しくて、緩んでしまいそうな口角を隠すようにココアの缶に唇をつけた。
「月島くん、ちょっと車を止めてもいいですか」
「いいですけど、どうして」
先生は理由も告げずに車道の端に停車して、待っていてくださいね、とだけ言い残して車を降りた。
僕は後ろから車が来てしまわないかと不安を抱えつつも、先生の様子を目で追い続けている。猫背のその背中がさらに丸まり、やがてしゃがみ込んだ先には、先生の手のひらほどの猫がいた。怪我を負っているのか、親猫と離れ迷い込んでしまっているのか、その場を動こうとしない。先生はその猫を掬うようにして車道から離れるよう導く。
猫が車道から草むらへ駆けていくのを見届けてから先生は戻ってきた。
先生のことを薄情や無慈悲な人だと思っていたわけではないけれど、車道で丸くなっている猫に寄り添うような人だとは、それ以上に思っていなかった。
「猫、好きなんですか」
「好きというより、猫を轢くような人になりたくないだけです」
缶コーヒーを啜って軽く咳払いをすると、お待たせしました、と再び車を走らせる。
横顔は変わらず無表情で、この顔も猫の前では微笑んでいたのかな、なんてことを考えてみたけれど先生が柔らかく笑った顔なんて上手く想像できなかった。
そして不意に思う。猫があの場を動かなかったのは、近寄ってきた人間の異質さを猫ながらに感じたからなのではないかと。
そう思ったのはきっと、今の僕がそうだからだ。
先生は二ヶ月前に産休に入った担任の代わりとして、僕たちのクラスに赴任してきた。
授業中の態度は淡白で、それ以外の時間は基本的に生物準備室にこもっている。まるで生徒になんて興味がないようなのに、先生は初めて教壇に立った朝、僕たちに——
——「死んでしまいそうになったら、僕に頼ってください」
そんなことを狂気すら感じてしまうほど真剣な眼差しで言ってきた。
そして言葉はさらに続いて。
——「死にたいとは言いづらいと思います。なので、拐ってほしい、と言葉にしてください。冷やかしでない限り、僕はいくらでも付き合います」
生きてきた中で、先生ほど極端な寄り添い方に出会ったのは初めてだった。
——「拐う。は比喩ではなくそのままの意味で、僕が僕の責任で、死を望む生徒を連れ出します。他の職員や保護者にバレてしまえば僕の首は飛ぶでしょう。誘拐事件だと言われてしまっては否定もできませんからね。ただ、僕はそのリスクを負ったうえで、手を差し伸べます、そして無責任に離すことはありません」
言われた直後は、簡単に死にたいなんて言うなよ、なんて抑止力だろうと思ったけれど、結局、漠然と救われたくなった僕が縋ったのはそんな先生だった。
自分を迷い猫と重ねるなんて痛々しいけれど、不覚にも共感してしまいそうになる。
「月島くん」
「はい」
「どうして首を吊ってしまいそうなんですか」
深刻な雰囲気を漂わせることなく「晩御飯は何がいいですか」とでも言うような空気感で先生は僕にそう尋ねた。
死にたい理由を言葉にするより難しい感情表現に僕はまだ出会ったことがない。
死にたい、死んでしまった方がいい、消えたい、生きていけない、存在していた事実ごと消し去りたい、今の僕がどれに当てはまっているかすら曖昧になっている。
心酔する作家が自殺して、それは嘘だ。
僕にはその作家が生きている時も死にたさがあって、もっと言うなら死にたさなんてなければ僕はその作家に惚れていなかった。
「月島くん」
「……はい」
「夜が明けるまでに教えてくれたらいいですよ」
◆
「ここのオムライスを食べて、主人公は死んだんです」
一軒目の目的地は、その作家のデビュー作のラストシーンを飾る喫茶店。
せっかくなら月島くんに行き先は委ねましょう、という我儘に従った結果だ。
若い男性教師視点で女子生徒との恋を描いたもので、恋人である生徒が自殺した春を十度繰り返すという物語。
「毒を香辛料と勘違いしてしまったのですかね、お気の毒に」
「そんな粗末に主人公を殺めるような作者じゃないです」
一瞬、先生の口元が「ふふっ」と自然に緩んでいるように見えた。
店内は西洋風のクラシカルな装飾が施されていて、壁には小さな額縁に収められた風景画が等間隔に並んでいる。アンティーク調のシャンデリアが柔らかな灯りを落として、テーブルに置かれたキャンドルがちらちらと揺れている。
「ここを訪れるのは初めてですか」
「はい、歩くには遠くて公共機関も通ってなくて行けずにいました」
「車で二時間は一人の高校生にとって小旅行と言えるのかもしれませんね」
もし仮に僕がどこかで意識を失ってここで目が覚めたとして。僕は瞬時に、あの小説に出てくる喫茶店だと気づくことができるだろう。それくらい、作中の描写は忠実だった。
コーヒーカップを片手に文庫本を読んでいる年配の女性と奥の席で小声で話しながら笑みを交わすカップルの姿まで奇跡的に一致している。
「その小説がどのような物語か聴いてもいいですか」
「教師と生徒が惹かれあって恋に堕ちるんです」
「それはロマンチックな設定に聞こえますね」
ロマンチック、確かに。でも僕は先生の言葉に頷けなかった。
例えば街は人目についてしまうから離れて通話を繋ぎながら歩いたり、お互いの写真を一枚も撮らなかったり、恋人である教師の家に行く時にボブの彼女がロングのウィッグとマスクを必ず身につけていたり。二人でいるための日常的な束縛を、その物語では幸せとして描かれていた。
ただ、この物語をロマンチックなんて言葉で片付けることが僕にはできない。
「ヒロインである女子生徒は、物語の序盤に自殺するんです」
「序盤で、ですか」
「一章の終わり、出会って一年が経った春ごろに亡くなって、そこから十回主人公である教師が彼女との春から始める二人の時間を繰り返します」
高校一年生の彼女が入学してくるシーンから始まり、彼女のクラスに赴任するシーン、出席確認で初めて名前を呼ぶシーン、放課後の廊下で偶然すれ違うシーン。彼は、いずれ恋人になる彼女と、何度も他人、教え子、恋人、それぞれの距離感を辿っていく。起こる出来事や景色は変わり映えしないのに、彼女を好きになる瞬間は何度目だろうと新鮮で、初めて彼女を苗字ではなく下の名前で呼ぶ瞬間は何度目だろうと鼓動が速くなっていた。
その初々しさが可愛らしくて、僕は架空の二人の幸せを心から願ってしまって、もう何度読み返したかわからない。
「十回目の入学式前日、彼女が着席予定の椅子に手紙が置いてあったんです」
「それは、遺書でしょうか」
「わかりません。ただ【私はあなたと何も隠さずに出掛けてみたい】と書かれていました」
彼はその手紙の存在を隠したまま、何も知らないふりをして彼女との初めましてを交わした。教え子として親しくなって、放課後の空き教室で告白されて、恋人になって——やがてヒロインの命日前夜を迎えた彼は、彼女をある場所へ連れ出す。
それが、この喫茶店。
「制服のまま、ウィッグもマスクもせず手を繋いで二人はここまできました。そして彼女の大好きなオムライスを二人で食べるんです」
「それじゃあ、冒頭でオムライスを食べて主人公が死んだと言っていたのは?」
「彼は重度の卵アレルギーで、彼女はそれを知りませんでした。症状が出始めて赤く腫れた唇を「僕も緊張しているんだ」と誤魔化して、彼女に最期のキスをして物語は終わります」
説明のためにその物語を要約するけれど、どうも退屈に聞こえてしまう。そうさせている僕の語彙が憎い。
彼女は読者が酔ってしまいそうになるほど可愛らしくて、彼は教師という仮面を貼り付けていても彼女への想いが溢れ出てしまっていて。二人の間を漂う危うい甘さや、死という結末を知ってしまっていることの切なさ。器用にまとめることのできなかった物語の魅力で、僕の頭の中は埋め尽くされて溺れてしまいそうになる。
カウンターの奥からは、コーヒーを抽出する静かな音や、ミルクを泡立てるスチームの音がかすかに響いてくる。漂ってくるのは深煎りのコーヒーの香りに混じる甘いシナモンの香り。
入店してから、既に三十分が経過している。このまま何も頼まず僕の話を続けるのは、先生にもお店にも申し訳ない。僕がメニュー表に手を伸ばそうとすると、先生は僕の手を止め、一つ問いかけた。
「月島くんは誰かのために死にたいと思ったことはありますか?」
一瞬、心臓が強く脈打った。
言葉を詰まらせている僕を、先生は少し首を傾げたままじっと見つめている。その質問に特別な意図なんてないかのように、さも当然と答えを求めているような目をしている。
「例えば誰かを守るためとか、秘密という名の嘘を隠し通すためとか。その教師と生徒のように誰かを思って死を選ぼうとしたことはありますか?」
「僕にはそんなたいそうなこと、想像すらできないです」
その答えに情けなくなって、声が次第に弱々しくなっていく。
先生とろくに目を合わせることもできず、ずっと手元を見つめて俯いてしまう。僕は、僕のこういうところが嫌いでたまらない。ここで「愛する人のためなら命を投げ出せます」と言い切れるような強さが欲しかった。
「安心しました」
「……え?」
「先の人生、僕より遥に多くの人と出会う月島くんが相手を理由に死を考えてしまう人じゃなくてよかったです」
生徒を気遣う気持ちから出た嘘かと一瞬疑ってしまったけれど、そのわずかにほころんだ表情を見て、それが先生の紛れもない本心からの言葉だとわかった。正しい回答に辿り着いた生徒に向けるような、そんな表情をしている。
「情けないとか、薄情だって思わないんですか?」
「僕は、僕より若くして教え子に死んでほしくありません」
その一言にはっとさせられる。
死んでしまいそうになったら、僕を頼ってください。あの時、唐突にそんなことを言われた僕は言葉に込められた心なんてわかりもしていなかった。教師だから? 大人だから? 違う、きっと先生はそんなことが理由で言ったんじゃない。
「先生はあるんですか」
探るように尋ねてみる。
何も気づいていないふりをして尋ねる小賢しさへの嫌悪で押し潰されそうになる。
「六年前に、人を理由に死ななければいけないと思ったことがあります」
躊躇われることもなく、事実を事実のまま答えられた。
六年前。確か先生は二十九歳だったっけ。当時二十三歳、教員一年目の頃。「詳しく聴かせてくれますか」と言ったら、きっと教えてくれるだろうけど僕に先生の過去に深入りできるほどの度胸なんてあるわけもなく、勘づいてしまったことを隠して返答することで精一杯だった。
「今も、そう思うことはありますか」
「まったくと言ったら嘘になります、でも、踏みとどまれるようになりました」
「それは、先生が強くなったってことですか」
「僕が死んでしまったら、生徒に若くして死ぬ選択を教えてしまっているようで気が引けるんです」
死は親が子に教える最後の教えだと、どこかで聞いたことがある。自分のことを育ててきた人の死を実感することで現実を学び、生き方や命に向き合うのだと。その理論に従うのなら、将来の選択肢を示す教師の自殺を先生がよく思っていないのも理解できる。羨ましい、先生には生きなければいけない理由がある。生徒から「生きていてください」と頼まれたわけではないだろうけど、先生は教師として生きる責任があるときっと強く信じている。僕にもそう思えるものがあったなら、どれだけ救われていただろう。
「月島くん」
「はい」
「お腹空きませんか? 難しい話はどこでもできますけど、ここのご飯はここでしか食べられませんよ」
そう言ってヴィンテージ感漂うデザインのメニュー表を手に取る。ハンドルを握っている時にも感じていたけれど、学校の外で見る先生の手は薬品や教科書を握っている時とは雰囲気がまるで違う。そして違うのは雰囲気だけじゃない。
「このナポリタン、食後にプリンがついてくるらしいですよ? でもこっちのパンケーキも捨てがたい気がします」
先生は意外と甘いものに惹かれるタイプで、メニュー表を前に無邪気に迷ってしまうタイプだった。それがちょっとだけ可愛らしく思えたり。そういえば同じようなことをあの小説の彼女も言っていたような気がする。
『先生ってマカロンとか好きなんだ、なんか可愛い』
とか、そんなセリフがあった気がする。
無意識のうちに僕は先生をじっと見つめていたらしく、先生がそんな僕を不思議に見ていたところ目があってしまった。
「先生、何にしますか?」
「迷います、せっかくなので月島くんのとっておきをいただきたいところです」
「アレルギーはありますか?」
先生が黙り込む。なんとなく、次に言い出すことは予想できていた。
「卵がアレルギーです」
「それならフレンチトーストは難しいですね」
「オムライスをいただきましょうかね」
「そういう冗談はいいですよ」
◆
「先生、電話鳴ってませんか?」
「すみません、妻からです。ちょっと、出てもいいですか?」
「もちろんです」
喫茶店から車を一時間ほど走らせ、僕と先生は近くの沖に車を停めて灯りのない灯台のもとで二人並んで腰掛けている。
結局、先生はナポリタンと卵不使用のプリンを頼んだ。そして閉店時間である深夜一時まで他愛のない会話をしていた。もし地球以外の出身だったらどこの星で生まれていそうとか、お互いが同じ教室で生徒として出会っていたら友達になれていたかとか。授業中に余談など一切挟まない先生との雑談は、これまた意外に心地のよいものだった。
「失礼しました、帰りにガソリンを入れてきてと頼みの電話でした」
「先生、結婚してるんですね」
「独り身に見えますかね」
「薬指に指輪がないので」
「仕事柄薬品を取り扱うので変色したり溶けてしまったりが怖くて普段は着けていないんです」
結婚記念日のディナーには必ずつけるって決めてるんです、と頬を緩ませた。大学生の頃に出会って、卒業した次の春に籍をいれたと懐かしむように教えてくれた。
「それなら奥さんも学校の先生なんですか?」
「妻は文学部に在籍していたので学芸員になりましたよ」
「先生はどうして教師になったんですか?」
教育実習生への定番質問を先生にするなんて、ちょっと違和感がある。
「作家だけで食べていける自信がなかったからです。僕は我儘な暮らしがしたかったので安泰な資格を取ってしまえばある程度好きなものが食べられて、温かい家に住めて、一緒にいたい人といられるかなって。だから学生時代一度も授業中に眠ったことがない生物の教員免許を取ろうと思ったんです」
作家だけで食べていける自信がなかったから。予想すらしていなかった理由だけれど先生は確かにそう言った。もともと作家志望だったのだろうか、僕が先生に抱くイメージから作家はかけ離れている。強いて挙げるなら、遠回りな言葉遣いをするところから作家志望の面影を感じられるのかもしれないけど。
「今でも、作家になりたいって思うことはありますか?」
「僕が碧木命だと言ったら、月島くんは信じてくれますか」
「……え」
その言葉を耳にした直後、脳が鈍くなったような感覚に陥った。
碧木命は、昨日死んだはずの、僕が心酔している作家。
その作家が、実は僕が二ヶ月前から日々顔を合わせていた担任——嘘だ、でも、そう否定できないのは先生の声に妙な説得力があったから。
「家見胡亜をローマ字に直して反対にしてみてください。それが答えです」
【iemikoa】逆さまにすると【aokimei】。
その文字列は間違いなく意図的に組まれたもので、この後に及んで先生の言っていることが冗談だなんて思えるわけもない。
動悸が止まらない、衝撃で胃が裏返ってしまいそう。
「ね?」
「……嫌です」
「嫌、ですか?」
「碧木命は、もっと……もっとどうしようもなく弱くて、落ちぶれた人間だと思ってたから——頼れるものは小説しかなくて、綺麗事なんて書かないし、書けないのかもしれない。好きも嫌いも愛も憎みも、人の心を気味が悪いほど生々しく描く人だからきっと繊細で生きづらいんだろうなって。だから僕も大丈夫って、こうやって生きづらくても生き延びれる、生きてていいんだって、そう思ってたのに……なのにどうして? どうして先生みたいな強い人が、作家だけじゃ生きていけないって判断できちゃう常識人が、碧木命なんですか……?」
結局、みんなちゃんと生きてる。ある程度のレールに従って、手に職をつけて、愛する人と結婚して、死ねない理由とか抱えちゃって。
眩しすぎて目が眩む、目眩がする。僕の中の碧木命が崩れていく。
「碧木命の訃報をSNSで知った時、やっぱり弱い人って最後は死ぬしかないんだって絶望したんです。それが昨日の夜で。それなのに今は、そう都合のいい弱い人なんていないんだ、って。そういう絶望です」
あまりに無遠慮で、無配慮なことを言っている。それをわかっていても言葉を止められないのは、先生からのカミングアウトを受けて、碧木命に救われたと思っていた心すら弄ばれたように感じてしまっているから。
「命は元教え子の名前です、漢字は違いますけどね」
「……それがどうしたんですか?」
「校則を無視したメイクなんて日常で、愛嬌があって、不器用なせいで薬品をよく混ぜ間違えて、廊下で見かけたら駆け寄ってきて、自傷癖を抱えた繊細な女子生徒の名前です」
「だから、それを聞いた僕はなにを思えばいいんですか?」
「六年前に死んだ教え子の名前を借りて、僕は作家になりました。教師になるために折った筆を、僕は教え子が死んだという傷を癒すために執り直したんです」
大丈夫です、その生徒と恋人関係になったりなんてしてませんから。と冗談のように付け加えて、先生は沈黙を縫った。
彼女は、先生が教員一年目に担任した一年生の生徒だったらしい。父子家庭でありながら父親は半年に一度しか帰って来ず、実質の一人暮らしだったと。なんだかその境遇がすごく僕に似ていた。彼女の自傷癖が発覚したのは、放課後、生物室で備品を洗うために袖をまくった彼女の腕を先生が偶然目にしてしまったかららしい。「不器用なのに、そういう嘘は器用な子でね」と先生は寂しそうに笑った。
「僕が腕を見てしまってから彼女は心を許してくれたようで、たまに話を聴いてほしいと一緒に夜道を歩くことがあったんです。学校周辺は人目につくので、あの海岸沿いまで車で来てそこからちょっと歩いたり」
「それならデビュー作に出てくる海の見える道って、やっぱり……」
「そう紐解かれると、服を脱がされていくようで恥ずかしいですね」
先生のことだから傷だらけの腕を見ても、過剰に心配を態度として出さなかったのだろう。彼女からしたらそれが心地よくて、その延長として二人で海岸沿いを歩く。恋愛感情なんてなくても、その理由と光景を切り取るだけで十分物語になってしまう。そんな感覚的な納得を根拠に、僕の頭は少しずつ目の前にいる担任が碧木命であることを受け入れ始めている。
「歩いている時、彼女はよく言っていました。私は猫が車に轢かれそうになったら自分の命も無視して助ける、って」
「え——」
「それくらい、命の瀬戸際に立っていた子だったんです」
想像力の乏しい僕は、彼女が自ら命を絶ったのだと思っていた。彼女は轢かれそうになった五歳の男の子を庇って亡くなったらしい。その日は放課後に個別面談があって、彼女の第一志望大学が決まった日だったのだそう。
「彼女が亡くなってから、僕は教師としての力不足を感じて、せめて人としては彼女への償いの行為をするべきだと思ったんです」
「それが、小説だった」
「彼女と進路の話をした時、僕が作家志望だったことを明かしました。そうしたら『いつか私のことモデルに書いてほしいなぁ』って言ってくれて。僕は彼女が生きている間に何もしてあげられなかったから、せめても叶えてあげたくて。それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「彼女の志望大学の入学金と卒業までの学費を彼女をモデルに描いた小説で得て、お父様に渡すこと、それが僕なりの償いでした。仕事で離れて暮らしているお父様のことを彼女は大切に思っていたから、小説で得た収益はすべて彼女のお父様に」
教え子が事故で亡くなったとしても、 先生ほど尽くす教師はそういないと思う。先生は、自分が彼女の人生に教師としてではなく人として関わった自覚が強くあるからと葬儀が終わったあと、彼女の父親に償わせてほしいと頼んだそうだった。
「彼女との面談はいつも進路相談というより人生相談でしたからね」
先生が遠くを見つめながらそう呟くから、僕までつられて切なくなってしまう。僕は彼女のことを何も知らないけれど、先生が彼女を教師として、人として、大切にしていたことだけは知っている。だって碧木命が書く小説で、彼女を否定したことは一度もないから。彼女だけじゃない、彼女の親、兄弟、友人、彼女が大切にしていたものを否定したシーンやセリフはひとつもなかった。それは、紛れもない愛で、大切に想っていた証だと思う。
「それじゃあ、先生が碧木命を終わらせた理由って——」
「目に見える償いが終わった、つまり、彼女が卒業するまでの学費をお父様に渡せたのが昨日だったんです」
「でも、辞めたり、死を装う必要はないんじゃないかなって思うんです」
「ずっと自分のことを書かれていると彼女も気が休まらないと思って。それに、僕は僕で、碧木命は碧木命です。使命を果たしたらそこで終わらせるのが筋だと私は思います」
彼女への償いのために生まれた碧木命と、教師として人生をまっとうするために生きている家見胡亜は一つの肉体の中に存在する違う人たち。先生が死を装ったのではなく、生まれた意味を果たしたから碧木命は死んだ。受け入れたくないけれど、その迷いのない口調と眼差しを見てしまっては何も言い返すことはできない。
「月島くんは彼女によく似ています」
「え——」
「僕はこのまま夜明けを迎えて月島くんをひとりにするのが怖いです」
その言葉は「心を委ねていいですよ」という頼もしい優しさのように聞こえたあと「どうか心を委ねてほしい」というどこか臆病な願いのようにも聞こえた。
結果論、彼女は事故死で自ら命を絶つことはなかったけれど、いつ自分から身を投げてしまっても不思議じゃない状況だった。そんな彼女に似ているということは、今の僕は先生からそういうふうに見えているんだ。そして、僕はそれを否定できない。僕は、僕がいつか、生きることを投げ出してしまいそうで怖い。
「僕は、自分の弱さに耐えられなくなりそうで怖いです」
「……詳しく聴かせてくれますか」
「僕は今学生で、在籍している限り生きる理由がついてきていると思うんです。課題とか、部活とか、そういう学生として生きるためのレールがしっかり固まってる状態。今の僕が生きているのは、そういうよく言えば易しくて、悪く言えば生ぬるい場所なんです」
先生は相槌を打たない、僕のペースを崩さないために静かに聴いてくれている。今から僕が口にするのは、情けないと笑われてしまうような内側の感情。嬉しいとか楽しいとか、怒ってるとか悲しいとか、そんな絵文字に収まってしまいそうな外側の感情とは密度も質量もまるで違う。
「でも、僕はいずれその場所を離れないといけないじゃないですか。生きるために自分の力で職について、お金を稼いで……そのうちきっと、ただ生きているだけじゃつまらなくなって、趣味とか昇進とか結婚とか子どもとか、だんだん欲張りになっていって。そういうことが漠然と億劫になって、こんな僕にできるはずがないって怯えちゃって、全部を手放したくなる弱さに呑み込まれてしまいそうで怖いんです」
吐いた言葉が、僕の耳を通って、その惨めさに吐きそうになる。
人に伝えるための言葉にして初めて気がついた。遠回りな言い方をしているだけで、僕はただ大人になれるか不安なだけだ。
ちゃんと働いて、住む家があって、身なりが整えられていて、恋人がいて、数ヶ月に一度会う友人がいて。そういう求められる普通に当てはまる自信が今の僕にはなくて、それなのに時間だけは進んでいくことがどうしようもなく怖かったんだ。
「自分の弱さに耐えきれなくなることは、きっと何度もあると思います。不安になったり、孤独感とか焦燥感に襲われたり、今の月島くんみたいに」
先生は湿った海の空気が漂う空間にひとつずつ、僕への言葉をこぼしていく。
「大人になると確かに、そういう時に手を差し伸べてくれる人は減ってしまうものかもしれないですね。ただ、自分だけは、自分の手をずっと繋いでいてくれますから。その孤独とか絶望と、どれだけ仲良く手を繋げるか、それだけで息のしやすさは変わってくるんじゃないかなと僕は思います」
先生の薄い手のひらが俯いている僕の丸まった背に触れる。
少し冷えたその手が、今は夜明け前の夏の空気より暖かかく感じた。
視線を上へ向ける、先生と目が合う。微笑んでなんかいないのに、その瞳は優しかった。それでいい、そのままでいいと訴えかけてくれるような瞳。
「でも、先生が言ったそれって、自分を信じるとか認めるとか、そういう強さだと思うんです。自分を信じ切れていたら僕はこんなに怯えてなくて。いつか自分を信じられるなんて期待すら抱けなくて、そうなるために頑張らないとって焦るだけで、頑張る気力はなさそうで」
「そうしているうちに時間だけが過ぎていくことを、月島くんは弱さに呑み込まれると感じるのですか?」
「すごく情けないですよね」
先生の眉間に薄く皺が寄って、少しだけ難しい顔をした。
やっぱり先生には、ちゃんと生きられている大人には、今の僕の心なんてわかってもらえないのかもしれない。でも、わかってほしい。完全な共感なんていらないから、僕を見離さないでほしい。否定でも肯定でもいいからせめて、言葉が欲しい。
「先生」
静かな空間が妙に寂しく感じて、僕は咄嗟にそう呟いてしまった。
「月島くん。僕はきっと、そこらの大人より器用で、それでいて過剰に弱いところがあると自覚しているんです」
「……詳しく聴かせてくれますか」
「保険がけとして教員免許をとって、教師をしながら作家であることを隠し通して小説を書けるくらいには器用。でも、物語とか、こうやって生徒を引き留めることの動機は僕の中にある弱さですから」
そこらの大人より器用で、過剰に弱いところがある。
きっと先生のそんな性質が僕を引き寄せたんだろう。
僕は碧木命の弱さに共感して、安心して、心を寄せていた。だから最初、その正体が先生だと明かされた時は裏切られたような、置いて行かれてしまったような気がして寂しかった。でも、今は違う。
「僕はみんなより不器用で、弱さに怯えています」
「何においても自覚は必要です。月島くんは弱さへの自覚を持っています。だから、もし呑み込まれてしまいそうになったら誰かの肩に寄りかかってほしいんです。僕でも、他の誰かでも。大人になっても、一人になるわけじゃないです。これは大人になった僕が言っているので間違いないです」
今は、この人のもとで弱さを受け入れてみたいと思えている僕がいる。
言葉に詰まる僕を察して、先生はそっと手を握ってくれた。
ほんのりと青みを帯びている空の端、水平線が淡いオレンジに染まり始めている。太陽がゆっくりと姿を現して、夜を優しく溶かしていく。
先生は夜明けまで僕を拐って、そして心を掬い取るように包んでくれた。
「先生、僕はまた先生に拐ってほしいと言ってしまうかもしれないけど、それでも、ちょっとずつでも、変わろうって思ってます。だから僕のこと、見離さずにいてほしいです」
「僕から見えるところにいてくれるのなら、いくらでも付き合いますよ」
「……迷惑じゃないですか?」
「迷惑は相手に心を預けてる証拠だと思います。その人に甘えていたり、頼っていたり。そんな心の動きを生徒から向けてもらえるなんて教師として何よりの幸せなんですよ」
空から差し込む光が反射した丸縁眼鏡の奥で、先生の瞳は純粋な優しさで溢れた微笑みをたたえている。安心しているはずなのに鼓動が騒がしくなって、頬の辺りが湿っぽくなる。ぼやけていく視界を晴らすために瞬きをすると、先生は小さな子どもを宥めるような柔らかい眼差しを僕に向けながら——。
「弱いままでいいです。せっかく生まれて、わざわざ苦しんだんですよ、ちょっとでも幸せを吸ってからじゃないと手放すにはまだもったいないです」
◆
昨晩一台も通っていなかった海岸沿いの道路には通勤を急ぐ車が走っている。
僕と先生は車内で二時間程度の仮眠をとったあと車を走らせて、学校までの道を辿っている。時刻は既に六時半、僕も先生も今日は遅刻してしまうだろう。
「時間を守ることより睡眠が大切な時もありますからね」
「職員会議で肩身が狭くなりませんか?」
「そんなことより、生徒を乗せた車で事故を起こす方がよっぽど怖いです」
そう呑気に笑いながら、先生はハンドルを切る。月島くんが授業中に眠っていたら生物以外の授業でも起こしに行きますね、なんて普段なら言わない冗談まで添えて。
「そういえば公務員って副業禁止ですよね、私立高校勤務でもないですし」
「法律にも抜け穴があるんですよ」
「そういう冗談はいいですよ」
「ふふ、収益はすべて妻の口座に振り込まれるようにしていただけの話です」
よかった。触れてはいけないことを尋ねてしまったかと一瞬焦った。
これから発生する碧木命の小説の利益は、すべて受け取りを断っているのだそう。彼女はきっと必要以上に尽くされてしまうと気を遣うだろうから、と最後まで碧木命は彼女のために生きていた。
「月島くん」
「はい?」
「こんなことを教師が言うなんて変な話ですけど、ある程度決まりのある法律ですらこうして誤魔化し方があるんです。人生の誤魔化し方なんて無限にあると思いませんか? たぶん、それくらい適当でいいんですよ」
呟くように紡いがれた言葉は、まっすぐ僕に届いた。
この一晩で、僕は一つ気づいたことがある。
きっと先生も、弱さを抱えて生きているということ。
彼女への償いを果たしたから、碧木命は死んだ。それじゃあもし、先生が教師を辞めたら? 僕に生き方を、傷だらけの優しさをくれた先生はどうなってしまうだろう——きっと、想像するよりずっと先の話だけど、僕は寂しくなってしまった。
「先生」
「どうかしましたか?」
「教え子として、僕は先生より若く死なないことを約束します。だから先生も、できる限り長く生きてくれることを約束してくれませんか」
「素敵ですね、わかりました。約束ですよ、月島くん」
ハンドルを握っている先生の指で、小指だけが微かに動いていた。
その仕草は言葉よりも雄弁で、抑えきれない緊張や迷いが滲んでいるように見えた。
——約束ですよ、月島くん。
これは僕の思い違いかもしれないけれど、その言葉はどこか「置いていかないで」と引き留める意味を含んでいるように感じた。
僕に大丈夫を授けてくれた先生へ、今度は僕が大丈夫を授けたい。きっと、半分すら埋められないけど、それでも。
「約束です、僕は弱いままでも生きてみせますから」