青空は淡く、新緑はまばゆく、桜は儚く——……。
 うぐいすが恋を実らせようとかわいらしい声でさえずり、草花の匂いをのせた風は薄い花弁に飾られる春。開けた窓からやわらかな風の入る部屋で、僕はあおくんと漫画を読んでいる。先日最終巻が発売された少年漫画を。時折、あおくんは蝶が羽を動かすみたいにまつ毛を動かしてまばたきをする。長さのある真っ黒な髪の毛を指先で流したりもする。そうする間も、漫画のページに向けられた目は真剣そのもので、僕はなんだかおもしろく感じる。というのも、あおくんはいつも眠たそうな目をして、ゆっくり動いてゆっくりしゃべる。そんなあおくんが漫画を読むのにこんなふうに真剣な目つきをするんだから、おもしろくなってしまう。しかもあおくんが今読んでいる十三巻は平和な場面が多い巻。それでこんな感じなのだから、激しい戦闘シーンで埋め尽くされているような十四巻と最終十五巻を読むときにはどんな目をするんだろう?
 僕はやっとあおくんから目を離して漫画のページに視線を戻した。激しい戦いが終わって、エンディング。最後のページをめくる。主要人物が、戦闘に散った仲間に花を供え、さびしい笑顔で話しかけている。最後のコマはきれいに晴れた空が描かれていた。
 漫画を閉じると、おなじようにしたあおくんと目が合った。普段の眠たそうな目がちょっと開いている。
 「終わった?」と訊いてみると、あおくんは「うん」といった。いつもどおりの、気の抜けたサイダーみたいな、甘くて力の入っていないような声で。
 「お腹空かない?」と訊いてみると、あおくんは「うん」といった。それから「空いた」とつづける。
 「コンビニいこうか」
 「うん」

 あおくんは幼稚園に通っていたころからの友達だ。家族と離れるのを嫌がって泣いていた僕と違って、あおくんは眠たそうに青と白の縞模様のタオルケット——ただのタオルだったかもしれない——を持っていた。ああ、そうだ、あおくんはあのころから眠たそうな顔をしていた。
 小学校に上がると、おなじクラスになったり違うクラスになったりした。一年生は違くて、二年生はよく覚えていない。でも三年生から五年生まで違うクラスで、六年生でおなじクラスになったのを覚えている。四年か六年ぶりにおなじ教室で見るあおくんは背が高くて、なんだかとても大人びて見えた。
 中学校では一年生のときもおなじクラスだった。六年生のころはほとんど話さなかったのに、中学校に上がってよく話すようになった。「はるちゃん」——あおくんは幼稚園のころとおなじように、僕をそう呼んだ。ずいぶん低くなった声になんだかそわそわした。そのせいか、僕は青江(あおえ)くん、なんて名字で呼びそうになって、それをごまかすのに「あおくん」と呼んだ。僕が使うはじめての呼び名に、あおくんは笑った、ふふって笑った。
 中学校生活は充実していた。あおくんに勉強を教えてもらったり、あおくんと本屋さんに買い物にいったりした。
 ——突然だけど、あおくんは変な人だ。本屋さんでは漫画の単行本とかノートのほかにも、ボールペンとか蛍光ペンを買った。そういうとき、あおくんはいつも僕が選ぶのを見ていて、「はるちゃん、それ使ってるの?」といった。僕が「使いやすいんだ」とかいうと、「じゃあ、俺も」といっておなじものを買った。おなじメーカーのおなじ本体色のおなじ色のインクのものを買った。そして会計を済ませると、ちょっと楽しそうにした。
 高校生活も充実している。中学生のころよりあおくんとの仲がよくなった、——と思う。よくわからない。高校生になると、中学生のころよりも頻繁に、あおくんが友達だけど友達じゃないような感じがするようになった。友達だけど友達じゃない。じゃあなに、と思うけど、わからない。わからないまま、もう三年生。

 コンビニに入ると、おにぎりコーナーを見た。僕がさけおにぎりを選ぶと、あおくんも当然のように、僕がとったもののすぐ後ろにあったものをとった。僕がサンドイッチをとっても、あおくんはおなじようにした。僕はもう、こういうことを不思議に思わなくなってしまった。今までは『どうして』と思っていたことも、今はもう『あおくんだから』で受け入れられてしまう。
 「お茶も買おうかな」
 「うん」
 あおくんは変な人だ。だっていつも、売り場の扉を開けるとき、僕が開けたい扉を見抜いて先に開けてしまう。僕がこういう引き手からやたらに静電気を受けているのを見て、いつからかこうして代わりに開けてくれるようになった。
 僕が緑茶を選ぶと、あおくんもおなじものを選んだ。

 出入り口のほうのレジと、売り場のそばのレジとでそれぞれ会計を済ませた。お釣りの五十円玉を募金箱に入れた。ふと隣を見ると、あおくんも出てきたお釣りを募金箱に入れていた。

 店を出て、あおくんと並んで、心地いい春の空気を吸いながら歩く。
 「あったかいね」
 「うん」
 「あおくんは春、好き?」
 「うん」
 普段よりちょっとだけ、返事が早い気がした。
 「僕も好き」
 あおくんは喉の奥で、ちょっと鼻にかかった声で笑った。

 部屋に戻ると、テーブルにそれぞれ買ったものを広げた。あおくんはすぐにお茶のラベルをちょっとだけ剥がした。いつもそうだ、全部じゃなくてちょっとだけ剥がす。
 僕がサンドイッチを食べているのを、あおくんは眠たそうな目で見ている。僕が恥ずかしくなって下を向くと、喉の奥で笑う。
 「はるちゃん」
 「……なに?」
 「マヨネーズついてる」
 あおくんが見ていた理由がわかった気がして、途端に恥ずかしくなった。「どこ、」と慌てて探すと、「だめ」と声が返ってきた。
 「動かないで」
 恥ずかしさのせいで、ちょっと胸のあたりが変な感じがする。ぎゅっと目を閉じているうちに、優しい指先が口の右端を拭った。恐々目を開けると、あおくんが親指の腹にくちびるをあてているのが見えてしまった。どうしてか、あおくんの見てはいけない姿のように感じて急いで目を逸らした。
 「な、なにしてるの」
 「もったいないから」あおくんはまた静かに笑った。「かわいい」
 「からかうなよ……」
 「からかってない」

 食後、空腹が満たされた安心感みたいなものから眠たくなってきた。
 「眠い」とつぶやくと、あおくんは「だめ」という。僕は思ったとおりの声に笑った。あおくんは僕に勉強を教えてくれるとき、僕が眠くなると決まってこういった。
 「なんで、勉強中じゃないよ?」
 「だめ。寝ちゃだめ」
 「あおくんって絶対僕のこと寝かせないよね」
 「うん」
 「なんで?」
 「……だめ」
 「答えになってないよ。僕に寝てほしくないの?」
 「うん」
 「なんで?」
 「俺のわがまま」
 「わがままなの?」
 「うん」
 「なんで僕に寝てほしくないの?」
 「だめだから。はるちゃんは、俺の前で寝ちゃだめ」
 「理由になってないんだよなあ。なんでだめなの?」
 「はるちゃんのためにもなる」
 「僕のため? 寝たいときに眠れたほうが僕は嬉しいよ」
 「でもだめ」
 あおくんは変なところで頑固になる。一度だめといったことは絶対に『うん』と認めてくれない。
 僕は頬づえをついてあおくんを眺めた。「あおくんって意地悪?」
 「うん」
 なんだかおもしろい。「意地悪なの?」
 「うん」
 「よし。じゃあ、今まであんまりしなかった話をしよう。あおくんって僕のことどう思ってるの?」
 あおくんは眠たそうな目を大きくして、忙しくきょろきょろ動かした。それから下のほうを向いた。「好き」
 「ううーん……」僕は質問を後悔しながら唸った。胸のあたりが変だ。そわそわするような、かゆいような、苦しいような感じ。「うん。ね、友達ね。友達だからね、そうだよね」そうだ、嫌いだったらこんなふうに一緒にいない。
 僕は咳払いした。「うんっとね、あおくんは、たまに頑固になって意地悪なこというけど——居眠り厳禁とかね——なんでそんなことするの?」
 「……好きだから」
 「ううーん!……」僕はテーブルに伏せるようにして頭を抱えた。これはきっと、あれだ、あおくんの意地悪が発動しているんだ。こういう僕の反応を見て楽しんでいるんだ。
 「よし、じゃあ、嘘をついちゃいけないルールにしよう。本当のことだけで答える。ね?」
 「うん」
 「よし。あおくんの好きな漫画は?」
 「はるちゃんが好きなやつ」
 「ううーん。まあそうだね、僕が薦めて読み始めた感じだもんね」
 あおくんはちょっと楽しそうな目で僕の質問を待っている。
 「あおくんの好きなおにぎりの具は?」
 「さけ」
 「うん……そうだよね、今も買ったもんね。よし、なんでさけが好きなの?」
 「はるちゃんが好きだから」
 「ううーん!……うん、うん……。えっと、あの、食の好みに僕関係なくない?」
 「ある」
 「うーん……そう?」
 「うん」
 「よし。じゃあ今度は僕が意地悪しよう。いい?」
 「うん」
 「あおくんには、好きな人がいますか? 恋愛的な意味でね」
 「うん」
 ——ずきん? どくん? ざわり?……また、胸のあたりが変になった。なんだか風向きが変わってしまった。僕があおくんに意地悪な質問をしようと思ったのに、その答えを聞いて僕の気持ちがおかしくなっている。
 僕はこっそり深呼吸して、口を開いた。「……その人は、どんな人ですか?」
 「大好き」
 「……どんな見た目?」
 「かわいい」
 「……どんな性格?」
 「すごいかわいい」
 僕は次の質問を考えた。胸のあたりが変にならない、いい質問。なにか、なにか……。
 「ずっと好きな人。気が弱くて、ちっちゃくて、……すごく、かわいい」
 あおくんの声は、意地悪なほどはっきり、その人に焦がれていると伝えてくる。
 「好き、なんだよ。……理由はわかんない。でも、好きなんだ。すごく、好き……」
 あおくんはテーブルの上で、自分の手を見つめている。左手に重ねた、右手。その人差し指と親指とをこすり合わせている。あおくんの見たくもない姿は、次第に、次第に、熱く滲んでいく。
 「かわいくて、……かわいくてしょうがない」いいながら、あおくんは笑う。とても楽しそうに。僕は必死でくちびるを噛んだ。このばかな遊びをはじめたのは僕だ。あおくんの答えは、最後まで聞かなくちゃいけない。
 「もう、なんだろうなあ……本当、笑っちゃうくらいかわいいんだよ。泣き虫だし、ちっちゃいころからずっと」
 やっと口角をあげて「そっか」と相づちを打っても、黙っていたほうがずっとよかったと思うほど声が震えた。
 「鈍感でさ。……うん、すごい鈍感。意地悪してるのかな、……わかんないけど、そう思うくらい鈍い。うん、意地悪してるんだろうな、たぶん。意地悪するっていってたから。ちっちゃくて泣き虫で、笑っちゃうくらいかわいい人」
 「うん……」
 「ねえ、はるちゃん」
 とうとう、滲むに滲んで、揺れるに揺れた熱い景色があふれた。頭は真っ白だ。なにもわからない。
 「俺から質問していい?」
 「……うん、わかんない……」
 「はるちゃんは、好きな人いる?」
 「わかんない……」もう涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
 「ねえ、はるちゃん、キスしていい?」
 みっともない声をあげながら、必死で涙を拭う。
 「ねえ、はるちゃん、いいっていって。うんって。……お願い」
 「うん、……うん……」
 鼻がつまって、必死で空気を吸っていた口を塞がれた。とてもやわらかいもので塞がれた。息ができなくなって、ひぐひぐ喘ぐ。
 くちびるを覆っていたやわらかなあたたかさが、そっと離れた。優しいものが何度も顔を拭う。
 「はるちゃん、はるちゃん……」
 くちびるがまた、やわらかいもので覆われる。苦しくて、でもどこか心地よくて、すぐ前にある布地を掴む。
 湿った音を立ててくちびるが解放される。「はるちゃん、かわいい……泣き虫なはるちゃん……」
 テーブルの脚がカーペットをする音がした。解放されたくちびるをまた塞がれて、体に重みのあるあたたかさがふれ、のしかかる。僕は後ろに手をついた。

 熱っぽくぼんやりしていた頭がやっと少しすっきりして、すぐそばにあるあおくんの顔を見た。普段の眠たそうな目とは違う、射抜くような強い目をしている。胸が苦しくなって、体が熱くなる。
 「はるちゃん、なんでそんなに泣いちゃったの? 嫌だった?」
 ぶんぶんと首を振る。「嫌じゃない……」嫌じゃない。まったく、嫌じゃなかった。
 「じゃあ、なんで?」
 「僕、……僕、好きだった……あおくんが好きだった……好きだった、みたい……わかんないけど、すごく……」
 「いつから? 俺はいつから、はるちゃんと両想いだったの?」
 「わかんない……あおくんに、好きな人がいるのが嫌だった……嫌で、嫌で……」
 あおくんは喉の奥でふふと笑う。「また泣いちゃうの?」
 「嫌で、頭、変になった……」
 「俺をひとりじめにしたかったの? 俺がはるちゃんをそうしたいように?」
 服のしわを、あおくんの手がそっとなぞる。どきりとするのと一緒に、体がびくりとした。
 「あおくん、」
 「なあに?」
 「(はな)……洟、かみたい……」
 「ん? だめ」
 「なんで?……」
 「鼻づまりのはるちゃんも好きだから」
 「意地悪……。鼻ぐずぐずだよ……」はっと思い出して、あおくんを見る。「ねえ、なんであおくんの前で寝ちゃだめなの?」
 「襲いたくなっちゃうから」耳元で聞こえたかすれた声にどきりとする。「はるちゃんの寝顔って、幼稚園のお昼寝の時間からかわいいの。半分大人になってからそんなかわいい寝顔見たら、なにしちゃうかわかんないでしょ?」あおくんは僕の首に顔を寄せて、さらに体重をかけてくる。僕は後ろについた腕を曲げた。「だからはるちゃんのためにも、俺の前で寝ちゃだめだったの」
 「……じゃあ、これからは?……」
 「だめ」
 「あおくんの、わがまま?……」
 「うん。起きてなきゃ見られないかわいい顔があるから。あと声も」
 あおくんは僕の背中をカーペットに押しあてて、またくちびるを覆った。