首筋を強く噛まれ、痛みとむず痒さを感じた。
「これ見る度に、俺のこと思い出すでしょ?」
七瀬くんは変なひとだ。
「茉李のこと、きっと好きになると思うから」
なんで俺なんかを?
「君が好き。それだけじゃだめ?」
たった一日で『好き』とか信じられないよ。
あとで「勘違いでした、ごめんね~(笑)」とか言わない?
「友だちごっこは、もう終わりでいい?」
数時間で友だち解消って····。
俺、どうしたらいいの?
噛まれたところがじんじんする。でもそれは最初だけで、彼の歯形で皮膚が窪んでいた。覗き込まれてそう言われた後、絶対にキスされると思った。思った俺、自意識過剰すぎる! けど、だってあの状況でそうならない方がおかしいでしょ⁉
そういう雰囲気だったし。俺も、なんだかぐるぐるとくらくらでぼんやりしてしまって、ここが自分の部屋だってことすら忘れてしまっていた。そもそも俺たち付き合ってすらないのに!
完全に七瀬くんに感情が影響されている気がする····あぶないあぶない。
「ということで。俺とお付き合いしてください」
あの台詞の後、七瀬くんはいつもの眩しすぎる笑みを浮かべて、ものすごく明るく軽い口調でそう言った。からかわれているわけじゃないのはなんとなくわかるけど、彼のことを知らなすぎるし、もちろん即答なんてできなくて。
(もし俺がここで好きって言ったら、····お付き合い、するってこと?)
無理無理無理!
ぜったい無理だよ!
「答えはすぐじゃなくていいからさ。俺のこと今よりもっと好きになって、俺なしじゃ生きてけないって思ったら返事ちょうだい?」
いや、ハードル高すぎでしょ····。
好きに····は、なるかもしれない、というか。俺、たぶん····七瀬くんのこと好きだと思う。でもそんなの、上手く言えない。けど、七瀬くんなしじゃ生きていけないとか、そこまで重たい"好き"じゃない気が····。
「それまでは、お試し彼氏ってことで」
「え? ちょ、ちょっと、」
「あ、俺もう帰らないと。じゃあまた明日!」
「は? ま、まって····っ」
引き留める理由が思いつかず、部屋を出て行った七瀬くんを玄関まで見送る余裕もなく、俺はそのままその場に座り込んでしまった。彼がいなくなった部屋は色も温度もいつもの部屋に戻っていて、なんだか寂しいと思ってしまった。
じんじん。
まだ首筋が痺れている。
「····はあ。俺、どうしたらいいんだろう、」
そのままぼんやりとしていたら、「ただいま~」と母さんの声が下から聞こえてきた。ああ、そうだった。七瀬くんが強烈すぎて色々と忘れていた。母さんと話をしなきゃ。話せる範囲で、少しだけ勇気を出して。もう、あのひとがここに来ることはない。不安な夜はもう来ないのだ。
母さんはただ静かに俺の拙い言葉をなにも言わずに聞いてくれた。話し終わった後、「もう大丈夫だからね」と抱きしめてくれた。七瀬くんとは違うあたたかさ。母さんは強くて優しくてかっこいいのだ。それに比べて俺は弱くて暗くてつまらない人間。そんな俺を好きといってくれるひと。
お風呂に入る時。鏡の前で鎖骨のあたりに残された赤紫色の痕が目に入った。まだ消えない。これって、自然に消えてくれるのだろうか? こんなものがずっとここに残ってるなんて嫌だ。
「······噛まれたところ、消えてる」
七瀬くんが俺に噛みついた場所は、痕さえ残さず消えていた。
あんなにじんじんしてむず痒かったのに。
あの行為を思い出すだけでどきどきしてしまう自分がいる。
「俺、どうしちゃったんだろう····」
消えない感覚。
息づかいとか。
優しくて甘い声とか。
ぜんぶ、ここに残ってる。
ゆっくり眠れるはずだったのに、なんだか今日の奇跡的な出来事を色々考えてしまって。
いつも以上に目が冴えて、あんまり眠れなかった。
✿✿✿✿✿✿
翌日。
七瀬くんはいつも同じ車両に乗っている。ずっと見ていたから知ってる。だってあんな目立つひと、目に入らないはずない。ひとりでいる時の彼は、いつもの眩しさとはまた違う木漏れ日のような柔らかい日差し。少なくとも俺の眼にはそう映っていた。
ワイヤレスのイヤホンでなにか聴いているみたいで、佇んでいる姿も一枚の写真みたい。そんなキラキラしたひとが、どうしてよりにもよって俺なのか。俺のなにが彼に刺さったのだろう。全然理解できないのだけど。
「あ、茉李。こっちこっち」
もしかして、じっと見てたの気付かれた?
俺の意思に反して、後ろからどんどん人が押し寄せてくる。追いやられた結果、彼の手が伸びてきてそのまま引き寄せられた。
「大丈夫? ほら、こっち」
七瀬くんは混んできた車内で自分がいた場所を俺に譲ってくれた。こういうのを自然にやれるの、本当にすごい。同じ高校生とは思えないんだけど····っていうか、顔が近い! こんなの眩しすぎて直視不可だよ····。
「····あ、お、おはよ」
「おはよ~。あんまり眠れなかった? 目にクマできてる」
言いながら、イヤホンを外して鞄に突っ込むと、扉に手をついてスペースを作ってくれたり。というか、これって壁ドンじゃ····ドンしてないけど。周りはひとでぎゅうぎゅうになっていて、俺と七瀬くんの間だけ数センチ余裕がある。
俯いたまま顔を見れないでいると、七瀬くんの顔が俺の顔のすぐ横に迫ってきて。
「俺のマーキングはもう消えちゃった?」
その意味を知っていた俺は、一気に耳まで真っ赤になってしまう。耳元で心地好い声が囁かれたのも要因のひとつだが、なによりあの時のことを思い出してしまったせいで感情の収拾がつかない状態に。七瀬くんの声は高すぎず低すぎず、少女漫画原作のアニメに出てくるような明るくてよく通る好い声なのだ。
「そうそう。そうやって、ずっと俺のことだけ考えててね?」
なんなんだろう、本当に。
その後は目的の駅まで静かに過ごしていた。学校までの道のりも俺の歩幅に合わせてくれて、彼の友だちが通り過ぎるたびにいつもの笑顔で応えていた。いったい何人いるんだろう。俺は同級生にだって「おはよう」なんてなかなか言えない。いつだって相手待ちで相手次第なのだ。
俺みたいのが彼の隣にいてもいいのだろうか。
······不安しかない。
「おはよ~。七瀬くん、今日も瀬戸くんと一緒なんだね。仲良しでいいなぁ」
「まあね~。俺たち友だちになったんだ」
新川さん、昨日の今日ですごいコミュ力。どうしたらそんな風に自然と会話ができるんだろう。目の前のふたりを見ていたら、まさに美男美女カップルという構図が頭に浮かび、ひとりで勝手に落ち込んでしまった。
友だち。
そうだよね、さすがに他言無用というか。そういうことでいいんだよね?
(····七瀬くんのことだから、堂々と言っちゃうかと思った)
なんだかそういうのに抵抗なさそうというか。そもそも同性同士なのにありなのかな? お試し彼氏って····あれ? じゃあ俺ってどういう立ち位置?
(少女漫画は好きで読むけど、BLは読んだことない····俺たちってそういうことだよね? ちゃんと勉強しないと······でもBL本って、少女漫画買うよりも勇気がいりそう)
誰にも言っていないし、秘密にしているのだが。俺は少女漫画が好きで、本棚とは別にクローゼットの中にはそれ関連の本が隠されている。あそこにBL本を混ぜる勇気はない。こうなったらWEB漫画で研究するしか····。
「瀬戸くんって、実はめちゃくちゃ可愛い顔してるもんね。七瀬くんと並ぶと余計に可愛いが増して見えるよ~。でも電車の中であれは朝から脳がバグるから止めてね」
「そっち系の妄想はほどほどにしてくれる? いくらそういうのが好きでも、ネタにされるのはちょっとね」
ん? 今なんて?
「ふふ。妄想は個人の自由。良かったら私がカモフラージュしてあげてもいいよ。三人でいれば色々と誤魔化せると思うし。私はネタを貰えるし、悪い話じゃないでしょ?」
新川さん、こと新川 未祐さんは俺たちの前にくるりと半回転して立ち塞がると、その綺麗な顔ににやりと笑みを浮かべるのだった。