パン! と弾かれた右手。勢い良く立ち上がった瀬戸くん? は、しゃがんだままの俺を見下ろし、荒い息をしながら肩を上下させ、怯えたような眼差しのすぐ後に、夢から覚めたかのように驚いたような表情を浮かべた。しかしだんだんと呼吸が激しくなって涙目になり、ぐらりとその身体が揺らぐ。
「あぶないっ」
俺は素早く立ち上がってその肩を抱き、そのままゆっくりと膝から崩れていくのを支えながら一緒に床に座り込む。周りの声など正直どうでもよかった。それよりもなんとかしてあげないと。これって過呼吸ってやつだよね?
「ちょ····大丈夫っ⁉」
「わるい、誰か保健の先生呼んできてくれる? あと、過呼吸の対処法、誰かスマホで調べて俺に教えてくれる?」
「俺、先生呼んでくる!」
「テレビとかドラマだと、袋とか口に当ててなかったっけ?」
「待って待って! それあんまりよくないかも!」
スマホを高速で操作しながら、さっき俺に話しかけてきた女子が止めに入る。
「まずは座った状態にして楽にさせて····ってこれはOKね。じゃあ、次ね。瀬戸くんにゆっくり呼吸できるか訊いてみてあげてくれる?」
スマホ片手に親指だけ動かしながら、俺と瀬戸の横に立ってその子は指示をくれた。俺は片膝をついたまま瀬戸を自分に寄りかからせ、少しでも楽な姿勢になるように位置を変える。
それから赤いネクタイを緩めてシャツの一番上のボタンをひとつ外し、もうひとつ外そうとしたその手を止める。どうやらこれ以上は外さない方がよさそうだ。それからもやっとした気持ちのまま、俺はひと呼吸をおいて声をかける。
「····俺の声、聞こえる? 聞こえてたら、ゆっくりでいいから呼吸できそう?」
朦朧としていたが、瀬戸は瞼を震わせて応えてくれている気がした。その間もずっと苦しそうで、なんとかしてあげたい気持ちが俺を焦らせる。クラスの連中が見守りながらも同じ気持ちのようで、何人かが同じように「瀬戸、大丈夫か?」とか「ゆっくりでいいぞ」とか声をかけてくれていた。
「えっと、あとは吸った息を10秒くらいかけてゆっくりと吐くのがいいって。それができそうなら、息を数秒止めると落ち着きやすいって····って止める? 止めて大丈夫なのかな?」
うーん、わからんけど。先生が来るまではネットの情報を信じてやってみるしかない。さっき呼びに行った子がすぐに連れて来てくれると期待するしか。しかしそれも先生が今の時間、保健室にいるのを前提としての話だが。
「瀬戸くん? の下の名前教えてくれる?」
「え? 今? ええと、茉李くんだよ」
別の女子と視線が合ったので、訊いてみる。瀬戸茉李、ね。
「茉李、聞こえる? できそうなら、俺の言う通りに呼吸してみて?」
突然の呼び捨てのせいか、茉李の顔がますます歪んだ気がした。
「じゃあ、まずすって~··········はいて~」
俺まで同じように吸って吐いてを実演してしまっていたが、これで合ってるはず。みんなもなぜか一緒になって吸ったり吐いたりしているのがなんだか微笑ましいというか、こんな状況だがクラスがひとつになっててなんだかいいな。
それを何度か繰り返し、落ち着き始めた頃。
「あとは····数秒止める、だっけ?」
「うん、でもだいぶ顔色も良くなってきたし、呼吸も落ち着いてきたみたい」
「みんな! 先生呼んできたっ」
俺たちが『数秒呼吸を止めて』を実行させようとしたちょうどその時、タイミングよくさっきの男子生徒が先生を連れてやって来た。
俺もみんなも白衣を纏った先生の姿を目にした瞬間、不思議と安心感が増して異様な緊張感が解けた気がした。
「あらあら大変。瀬戸くん、ね。みんなありがとう、もう大丈夫よ。あとは先生に任せてちょうだい。それから君、このままこの子を運ぶの手伝ってくれる?」
「それはもちろん、そのつもりです」
先生がその場である程度の処置をしてくれたこともあり、もう心配なさそうだ。まあ、このまま午後の授業を受けるのはきついだろうから茉李は保健室行き決定。
ひょいとそのまま細身の茉李をお姫様抱っこした瞬間、女子たちが悲鳴を上げた。もちろん恐怖の悲鳴ではなく、いい意味でのやつだ。
「みんなもありがとう。茉李が体調悪いの知ってたくせにかまって欲しくて、俺がちょっかい出しちゃったせいでこんなことになっちゃって。昼休みももう終わっちゃうし。でもみんなのおかげで最悪の事態にならなくて良かった。ホント、ありがと。このお詫びはまた日を改めてってことで」
たぶん大丈夫だと思うが、茉李のあの態度に対して誰かが悪い憶測を立てる前に、俺の行動が原因だったことを付け加えておく。そうすれば、悪いのは俺で茉李がなにか非難を受けることはないだろう。現に聞こえてくる声にそんな類のものはなく、どれも友好的なものばかりだった。
教室を出て、先生の後ろを追うように歩く。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。今日は遅れてばかりだが、別に問題ないだろう。どっちも人助けだし、故意でもなければサボりでもない。
廊下から教室に入ろうとしていた、数人の生徒たちの視線はもちろん俺に注がれているわけだが、全く気にならない。それに。他の誰かが俺の腕の中にいる子を運んでいる姿なんて、もちろん見たくないし。それは俺だけの役目なんだって、譲る気もない。
保健室に着き、ベッドに寝かせる前にブレザーを脱がせるように言われたので、もちろん俺がそのままやる。生白い肌。あの時、気付いたこと。もうひとつボタンをはずそうとしたその手を止めた理由。
「先生はなんで、瀬戸くんの名前を知ってるんですか? もしかして保健室の常連さん?」
まあ、呼びに行ってくれた子が教えたのかもしれないし、考えすぎかも。でも、俺の想像が正しかったら、おそらく瀬戸茉李は····。
「なんでっていわれてもね~。先生にも守秘義務というやつがありますから」
それはそうだ。
けれどもその言い回しは、最初から知っていたという肯定でもある。特定の生徒の情報を共有している証拠だろう。まあ、先生から得られる情報なんて期待していなかったわけだし。
「君は、確か七瀬くんよね。朝、職員室で話題になってたわよ~。君は瀬戸くんのお友だちってわけじゃなさそうだけど····もし、その気があるなら彼の友だちになってあげてくれないかな? 私が言うのもなんだけど、彼、色々とわけありというか。これ以上は本人の口から聞いてあげて欲しいっていうか」
わけあり、ね。
理由はもっと仲良くなって本人に訊けと?
「七瀬くん、二組だったわよね? 担任の先生には言っておくから、安心して午後の授業を受けてきなさい。とりあえず瀬戸くんは私が看てるから、もし気になるなら後でまた来るといいわ」
ベッドの周りの天井から下がっている、半分だけ閉められた白いカーテンの裏で。先生の視界からちょうど隠れたその場所で。そっと、眠っている茉李の冷たい頬に左手で触れて目を細め、俺は「わかりました」と返事をした。
目を覚ました時に俺が傍にいたら、どんな顔をするだろう? 完全に俺を拒否する? それともあの時みたいに、俺にもう一度手を伸ばしてくれる?
いいよ。縋り付いてきても。
その時はもう、放してなんてやらないから。
ぜんぶ諦めて、俺だけの君になってね?

