『星が見えなければ、月を見ればいい。私はいつでも灯里(あかり)の傍にいるぞ』

 真っ白な髪をした美しいヒトが、穏やかに微笑みながら約束する。
 才をなくし、役目を失い、絶望の淵にいた少女にとって、それは救いの言葉だった。
 幸せなんて望んでいなかった。だけどあのヒトに出会って変わった。

 これは、国を守ろうとしていた少女が、本当の幸せを手に入れるまでの物語――



「今夜も星は見えませんね……」

 縁側に腰掛けた灯里は、小さくため息をつく。こげ茶色の瞳は、墨で塗りつぶされたような真っ黒な夜空を映していた。
 侍女の話によれば、今夜は天の川が見えるとのこと。星々が大河のように連なった夜空は、幻想的で美しいに違いない。だけど灯里の目には、星なんてひとつも見えなかった。

 唯一見えるのは、(おぼろ)げに浮かぶ上弦の月。それすら失われたら、この世界は闇に飲み込まれてしまいそうな気がした。灯里は唇を噛み締めながら、緋袴(ひばかま)をきゅっと握った。
 星が見えなければ、存在価値を失ったのと同然だ。星詠(ほしよ)みの巫女(みこ)としての役目を果たせなくなってしまうのだから。

 古来より雅楽国(がらくこく)では、星詠みの巫女と呼ばれる女性が、星の位置や輝度によって未来を予知してきた。四方を海で囲まれた島国でありながら、数千万の民を抱える国に発展したのは、星詠みの巫女による功績が大きい。

 星詠みの才を持つ清藤灯里(せいどうあかり)も、この十六年間で大勢の民を救ってきた。天災の兆しがあれば民を避難させるよう進言し、敵襲の兆しがあれば軍に(しら)せてきた。

 未来を予知できる星詠みの巫女は、民が平穏に暮らすためには欠かせない存在だ。そのため巫女の身に危険が生じないよう、(みかど)が住まう御所(ごしょ)の一角にある星詠殿(ほしよみでん)で丁重に育てられてきた。
 星詠殿には、星詠みの巫女と、その血縁者、身の回りの世話をする侍女のみが立ち入ることを許されている。まさに星詠みの巫女のために作られた邸宅といえる。

 毎朝、侍女の手を借りながら巫女装束をまとい、腰まで伸びた黒髪を丁寧に梳いてもらい、後ろでひとつに結ってもらうのが灯里の日課だ。
 そんな一面だけ見れば、何不自由なく暮らす姫君のように思えるが、実際の暮らしは牢獄に収容された罪人と変わりなかった。
 外界との接触を断ち、星詠殿の外をひとりで歩きまわることも禁じられている。自由にできることなんて、何ひとつなかった。

 退屈な毎日だけど、それでも構わないと思っていた。星を詠むことで大勢の民を救える。そのことに誇りを持っていた。
 これは自分にしかできないことだ。この先も、星詠みの巫女として国を守っていく。

 そう、決意していたのに……。

 縁側で背中を丸めていると、廊下の先から足音が聞こえてくる。荒々しく床を踏み鳴らす歩き方には心当たりがある。この後の展開を予期して、灯里は小さくため息をついた。
 案の定、派手な赤色の着物に身を包んだ少女が灯里の前に現れる。

「あら、お姉様。星を眺めていらっしゃるのですか? 今夜は天の川が綺麗ですからねぇ」

 人形のような可憐な顔が、にやりと意地悪く歪む。灯里が言葉に詰まらせていると、口元に手を添えてくすくすと笑った。

「ああ、お姉様には星が見えないんでしたっけ? それは残念ですねぇ。こんなに綺麗な星空だというのに」

 残念だなんて微塵も思っていないことは、言葉や態度から伝わってくる。灯里を貶めようとしているのは明白だった。

 彼女は、二つ歳の離れた妹、華実(はなみ)。恵まれた容姿をしているが、気性が荒く、思い通りにならないと癇癪(かんしゃく)を起こす性質がある。八年前に母が亡くなってからは、余計に我儘(わがまま)になったように思える。侍女たちも彼女の言動には手を焼いていた。

 華実は、星詠みの才を持つ灯里に並々ならぬ敵対心を燃やしている。自分よりも丁重に扱われている姉の存在が疎ましいのだろう。屋敷で顔を合わせる度に、嫌味を言われていた。

 灯里が星を見えなくなった状況は、華実にとってまたとない好機だ。恰好の虐めの材料を見つけたことで、これまで以上に灯里に絡むようになってきた。
 華実は、ゆっくりと灯里と距離を詰める。隣までやって来ると、にやりと口元を歪めながら灯里の顔を覗き込んだ。

「星が見えない星詠みの巫女なんて、存在価値があるんですかね?」

 痛い所を突かれてしまう。華実の言う通り、星が見えない状況では、星詠みの巫女としての役目は果たせない。俯いていると、突如華実に手の甲を踏みつけられた。

「何とか言ったらどうなんですか?」

 痛みが走り、顔を(しか)める。華実は、そんな反応すら楽しむかのようにくすくすと笑った。

「ねえ、お姉様。働かざる者食うべからずという言葉をご存知ですか?」
「……ええ」

 小さく頷くと、華実はにやりと口元を歪める。

「星詠みとしての役目をまっとうできないお姉様は、食う資格があるんですかね?」

 その言葉で、華実の魂胆が分かった。灯里に食事をとらせないように仕向けたいのだろう。しかし華実の企みは、灯里の想像を超えるものだった。

「だんまりということは、肯定と受け取りますよ。……(みつ)さん、いらっしゃい」

 華実が呼びかけると、廊下の奥から侍女がやってくる。普段から灯里の身の回りの世話をしている若い侍女だ。
 侍女は夕餉(ゆうげ)を乗せたお盆を運びながら、怯えきったような表情を浮かべている。そんな彼女に、華実はくすくすと笑いながら指示する。

「蜜さん。お姉様の夕餉を処分してくださる? やり方は教えたわよね?」

 侍女は唇を震わせながら、華実と灯里を交互に見る。躊躇っている侍女に痺れを切らしたのか、華実が怒鳴り散らした。

「早くしなさい!」
「はいっ!」

 悲鳴のような返事をすると、侍女はお盆から手を離す。食器が割れるけたたましい音と共に、米や野菜、魚などの食材が床に散らばった。

 今にも泣き出しそうな侍女と、高笑いする華実を見比べながら、灯里はぎゅっと胸を押さえる。夕餉にありつけないのは、この際どうでもいい。だけど、農民が大切に育てた野菜や、漁民が命がけで捕った魚を粗末に扱われたことには胸が痛んだ。床に散乱した食材を見つめていると、頭上から笑い声が聞こえてくる。

「あっはっは! いい気味だわ! 一応忠告しておきますけど、床に落ちたものを口にするなんて真似はしないで下さいね。清藤家の品位に関わりますから」

 普段は滅多に怒らない灯里だったが、食べものを粗末にされたことには我慢ならなかった。

「品位に欠ける振る舞いをしているのは華実さんでしょう? この夕餉ができるまでに、どれだけの民が汗水たらしていると思っているんですか? それを粗末にするなんて……最低です!」

 きっぱりと注意した直後、パシンと乾いた音が響く。最初は何が起きたが分からなかったが、頬に痺れるような痛みが走ったことで、平手打ちされたことに気付く。頬を押さえていると、華実が鼻息を荒くしながら金切り声で叫んだ。

「偉そうなことを言わないで! 最低なのはお姉様でしょう? 星詠みの巫女として散々ちやほやされてきたくせに、急に役目を放棄するんですもの。期待させて、裏切って、それでものうのうと生きている。それこそ最低の行いだわ!」

 勢いに任せた言葉であることは分かっている。それでも華実の暴言は、灯里の胸に深く刺さった。
 こうなってしまったのは、すべて自分が悪い。才をなくしてしまった自分に非がある。そう思い知らされた。
 華実は、ふんと鼻息を荒くすると、蔑んだような眼差しでこちらを見下ろす。

「そこ、片付けておいてくださいね」

 そう言い残すと、大きく足音を踏み鳴らしながら去っていった。華実の姿が見えなくなると、侍女が床に額を擦り付けて謝ってくる。

「申し訳ございません! 申し訳ございません!」

 必死に謝罪する侍女を見ていると、さらに胸が痛む。どうせ華実に脅されてやったことだ。彼女を責めても仕方がない。

「頭を上げてください。全部、私が悪いので。……さ、片付けは私がするので、貴女はもう休んでください」

 淡々と指示をすると、侍女はひくひくと泣きじゃくりながら去って行った。
 床の掃除をしながら、深くため息をつく。どうしてこうなってしまったのか? もう一度、夜空を見上げるも、やはり星は見えなかった。

 片付けを終えた頃、廊下の先から再び足音が聞こえてくる。視線を上げると、父がやって来た。
 父は感情をなくしたような無機質な眼差しで灯里を見下しながら、淡々と指示する。

(みかど)がお呼びだ。今すぐ支度しなさい」

 帝という言葉が出た途端、悪寒が走る。頭の中では先日(ささ)かれた言葉を思い出した。
 怖い。だけど拒むことなど許されない。灯里は俯きながら、端的に返事をした。

「はい」

 用件を伝えると、父はそれ以上何も語らず立ち去った。しばらくは放心してしまったが、呼び出しに応じないわけにはいかない。

「支度をしないと」

 灯里は震える膝を押さえながら、どうにか立ち上がった。

 灯里は急いで侍女を招集し、謁見の支度をした。風呂で身を清め、巫女装束に着替える。正装で赴くためにも、白衣の上から金糸の刺繍を施した白い羽織を掛け、頭には金の花冠を飾った。唇に紅をさすと、華やかさが増す。美しく着飾ってはいるが、この後のことを想像すると身体が震えた。

 古来より星詠みの巫女は、帝の伴侶(はんりょ)になるのが慣わしだ。灯里も帝の伴侶になることは、幼い頃から理解していた。
 十六歳になるまでは、帝と直接顔合わせをすることはなかったが、ひと月前に初めて謁見した。そこで(おぞま)ましい恐怖を植え付けられた。

『私の伴侶として迎えた暁には、逃げられないように足に潰す。私以外の人間と言葉を交わす事も禁じる。いいね』

 穏やかな口調からは想像できないほどの、恐ろしい言葉をかけられる。細い目元から覗いた赤い瞳に捉えられると、身動きが取れなくなった。

 思い返してみれば、あれからだ。星が見えなくなってしまったのは……。

 星が見えなくなった話は、帝の耳にも入っているはずだ。今夜呼び出されたのは、おおかたその事を追求するためだろう。
 ただでさえ恐ろしいのに、星が見えなくなったなんて明かしたらどうなることか……。想像しただけでも身震いする。

「お支度が整いました」

 侍女の声で、はっと我に返る。もう覚悟を決めなければ。

「行きましょう」

 灯里は毅然とした態度を装いながら、最年長の侍女を引き連れて帝の住まう本殿へ向かった。
 提灯(ちょうちん)の灯りを頼りに真っ暗な庭園を進むと、荘厳な佇まいの本殿に辿り着く。

「では、私はこちらで」

 付き添いの侍女が頭を下げる。これより先は、侍女は立ち入ることができない。

「付き添い、ありがとうございます」

 恐怖心を隠しながらも、丁重に礼を告げる。侍女が去って行くのを見届けた後、灯里は胸に手を当てて深呼吸した。
 重々しい足取りで、本殿に繋がる石階段を登る。すると、戸の前で見知った人物を発見した。

「こんな夜更けにどうされたんですか? 巫女様」

 精悍(せいかん)な顔付きをした男が、驚いたように目を見開いている。灯里は一礼してから、理由を明かした。

「帝がお呼びとのことで……」

 男は背が高いため、うんと見上げながら会話をする。そんな灯里を見下ろしながら、男は小さくため息をついた。

「何もこんな夜更けに呼び出さなくても……」

 その口ぶりから、灯里を心配していることが伝わってきた。

 彼は雅楽国の軍を束ねる最高責任者、雪村元帥(ゆきむらげんすい)だ。軍では『鬼の元帥』と呼ばれており、隊員から恐れられている。
 しかし灯里には、その呼び方はどうにもしっくりこなかった。というのも、雪村元帥は灯里に対していつも丁寧に接してくれる。それは灯里が星詠みの巫女という立場だからかもしれないが、会話の端々から気遣いを感じられた。きっと根は誠実で心優しい人なのだろう。

 雪村元帥は、口元に手を添えて少し考えた後、真剣な眼差しで申し出る。

「胸騒ぎがするので、付き添っても構いませんか?」
「それは……助かります」

 付き添いを申し出てくれるとは思わなかった。一人で帝のもとに向かうのは心細かったから、付き添ってくれるのはありがたい。

「よろしくお願いします」

 頭を下げて礼を告げると、雪村元帥に先導されて、本殿の入り組んだ廊下を歩いた。俯き加減で歩いていると、雪村元帥が前を向きながら話しかけてくる。

「また、妹君(いもうとぎみ)にやられたんですか?」
「え?」
「頬、腫れているじゃありませんか」

 咄嗟に頬に手を当てる。白粉で隠せたと思ったが、見抜かれてしまった。

「少々、姉妹喧嘩をしてしまって。ですが、もう仲直りしたので大丈夫です」

 ただでさえ軍のことで気を揉んでいる彼に、余計な心配をかけたくない。できる限り明るく装ったものの、雪村元帥は憐みを含んだ眼差しでこちらを見た。

「喧嘩の原因は、星が見えなくなったことですか?」

 灯里は言葉を詰まらせる。予想はしていたが、軍にも星が見えなくなったことは伝わっていたようだ。

「……申し訳ございません」

 俯きながら、謝罪の言葉を口にする。これまでは未来を予知できたため、軍に甚大な被害をもたらすことはなかった。だけどこのまま星が見えない状況が続いたら、隊員を危険に晒してしまうかもしれない。その事が申し訳なかった。

「顔を上げてください。たとえ星が見えなくなっても、貴方がこの国の救世主であることには変わりありません」

 思いがけない言葉をかけられて、顔を上げる。雪村元帥は、温かな眼差しでこちらを見下ろしていた。

「昨年、巫女様が敵襲を予知してくれたおかげで、異国からの侵略を防ぐことができました。今の平穏な暮らしがあるのは、間違いなく巫女様のおかげです。国を守ってくださってありがとうございます」

 雪村元帥は、その場で立ち止まると深く頭を下げる。改まって感謝されるとは思わなかった。「ありがとう」と言われるのは嬉しいが、仰々しく頭を下げられると居心地が悪くなる。

「あ、頭を上げてください。私はただ、星詠みの巫女としての役目を果たしただけですから」
「それが国のためになっていると言っているのです」

 その言葉は、喜ばしい反面、苦しくもあった。今はもう、星詠みの巫女としての役目は果たせないのだから。
 灯里が気落ちしていると、雪村元帥は深く息をつく。

「軍の方でも、星が見えなくなってしまった原因を調査します」
「……ありがとうございます」

 自分のせいで軍の人々にも迷惑をかけている。そう認識すると、罪悪感に押しつぶされそうになった。
 重苦しい空気のまま廊下を進んでいると、正殿に辿り着く。(ふすま)の前に立つと、雪村元帥が覇気のある声で呼びかけた。

「失礼いたします。巫女様をお連れいたしました」
「通しなさい」

 襖の向こう側から、穏やかな声が聞こえる。帝の声だ。顔を伏せていると、雪村元帥が襖を開いた。
 緊張感に包まれる。帝がこちらに注目していることは肌で感じた。

「こちらに来なさい」

 灯里の肩がびくんと跳ねる。まさかいきなり傍に来るように指示されるとは思わなかった。ゆっくりと顔を上げると、漆黒の髪に、糸のような細い目をした男と目が合った。帝だ。

 帝はこちらへ微笑みかけている。一見すると優しそうな雰囲気だが、油断してはいけない。襖の前で立ち尽くしていると、帝はもう一度灯里を呼んだ。

「聞こえなかったのかい? こちらに来なさい」

 細い目が開かれ、赤い瞳が覗く。その瞳に捉えられた途端、身体の自由が効かなくなった。灯里は、自らの意志に反して帝のもとへ歩いて行く。

「ここへ座りなさい」

 帝は正面に座るように指示する。言われるがまま、灯里は畳で正座をした。
 緊張のあまり呼吸もままならなかったが、雪村元帥が側に来てくれたことで少し気が楽になった。帝と対面すると、さっそく話を切り出される。

「星が見えなくなったというのは本当かい?」

 いきなり核心を突く質問を投げかけられる。灯里は全身を震わせながら、畳に額を押し付けた。

「申し訳ございませんっ」

 帝の反応を想像すると、怖くて仕方がない。顔を上げられずにいると、背筋が凍るような低い声が耳に届いた。

「見えるか、見えないか、そう聞いているんだ」

 灯里は平伏したまま告げる。

「見えません……」

 沈黙が走る。それは永遠とも思えるような、長い長い間だった。
 帝の反応を想像すると、全身の震えが止まらなくなる。怯えていると、帝が雪村元帥に声をかけた。

「元帥。刀を貸しなさい」
「……何をなさるおつもりですか?」
「いいから、貸しなさい」

 思いがけない展開に、灯里はそっと顔を上げる。刀を渡すことを躊躇っていた雪村元帥だったが、帝から赤い瞳で見つめられると、脇差(わきざし)を差し出した。

 帝は脇差を受け取ると、躊躇いなく抜刀する。無造作に(さや)を放り投げた後、刀を手にしたまま灯里の傍に近付いてきた。
 刀はよく研がれており、刃先がきらりと光る。何をされるのか分からず呆然としていると、帝は灯里の背後に立った。

「じっとしていなさい」

 低い声で命令されると、身体が石のように固まった。そこでようやく、自分が斬られそうになっていることに気付く。
 星詠みの才を失った巫女は、もはや用済みなのかもしれない。死の淵に立たされていることに気付くと、呼吸すらできなくなった。

「おい、やめろ!」

 雪村元帥が荒々しく叫ぶ。動揺のあまり、帝へ敬意をはらうことすら忘れたようだ。それくらい鬼気迫る状況だった。
 雪村元帥は帝を止めようと駆け寄るが、すぐに低い声で制される。

「動くな」

 動きがぴたりと止まる。こうなってしまっては、助けは期待できない。灯里は固く目を瞑りながら、これから襲ってくるであろう痛みに備えた。

 刀が風を切る。その直後、スパンと何かが切り落とされる音がした。しかし、想像していた痛みは襲ってこない。
 恐る恐る目を開ける。顔を上げた途端、はらりと髪が頬に触れた。

「え……」

 咄嗟に髪に触れてみる。そこで何を切られたのか把握した。
 帝が切り落としたのは、灯里の髪だった。後ろで束ねていた髪を、肩の位置で無造作に切り落とされた。振り返ると、畳の上に束になった髪が落ちている。

「あ、ああ……ああ……なんてことを……」

 震える手で床に落ちた髪を拾い集める。髪を切られたことは、灯里自身が斬られることよりも耐えがたかった。
 灯里の髪は、雅楽の民が平穏に暮らせるようにと願掛けが施されている。現帝が即位してからの七年間、切らずに伸ばし続けてきたのだ。
 それをあっさりと切られてしまった。髪を切られたということは、国の平穏が失われることを意味しているように思えてならない。

「どうして……」

 星詠みの巫女が髪を伸ばして願掛けをしていることは、帝だって知っているはずだ。それなのに、こうもあっさり切ってしまうなんて理解ができなかった。
 震える声で尋ねると、帝はくっくっくと声を押し殺しながら笑う。

「星詠みの才を失ったお前は、もう使い物にならない。どうせ捨てるなら、最後にこの手で魂を穢してみたくなったんだ」

 灯里は唖然とする。そんなくだらない理由で髪を切ったのか? 灯里は怒りを沸々と湧きあがらせながら尋ねる。

「貴方には、国を想う心はあるのですか?」

 願掛けされた髪を切るということは、国の平穏など望んでいないとも捉えられる。この男に、国を守る意思があるのか確かめたかった。

「国を想う心ねえ……」

 帝は口元に手を添えながら、くっくっくと笑う。笑いが収まると、両手を広げながら見解を語った。

「もちろんあるさ。民衆を私の思うままに動かして支配する。たとえ戦火にのまれようとも、私の思うままに国を支配するんだ。今の私には、それを叶える力がある!」

 呆れてものが言えないとはこのことだ。この男は、民のことなんてまるで考えていない。帝の本性を知ると、全身の力が抜けてしまった。

 自分は一体、何のために頑張ってきたのだろう? この十六年間、民が平穏に暮らせるように、役目をまっとうしてきた。それなのに、こんな男が国を治めていたなんて……。

 星を詠まずしても分かる。じきにこの国は滅びるだろう。未来のことを想像すると、気が遠くなった。
 虚ろな瞳で固まっていると、目の前までやって来た帝に、にやりと顔を覗き込まれる。

「星詠みの巫女は、もう不要だ。その身をさらに穢すために、龍神(りゅうじん)生贄(いけにえ)とする」

 言葉が通り過ぎていく。感情がすべて抜け落ちて、何も考えられなくなった。
 雪村元帥が激しい剣幕で帝に怒鳴り散らしているのが分かる。だけど灯里の耳には言語として入ってこなかった。二人の口論をぼんやりと眺めていると、赤い瞳をした帝と目が合った。

幽世(かくりよ)につくまで、眠っていなさい」

 その声を最後に、灯里の意識は途絶えた。



 夢を見た。幼き日に、母から神話を読み聞かせてもらった時の夢だ。母は灯里の頭を撫でながら、優しい声色で語り聞かせた。

『むかしむかし、月の国に美しい姫君と真っ白な龍がいました。二人は月の国で仲良く暮らしていましたが、真っ黒な龍のせいで離れ離れになってしまいました』

 幼い灯里は、怒りを露わにしながら叫ぶ。

『ひどい! そんなのかわいそうだよ!』

 すると母は「そうね」と優しく微笑んでから、続きを語った。

『月の国から追放された白龍は、別の星に移り住むことにしました。新しい星にやって来た白龍は、特別な力を使ってたくさんの人を救ってきました。その結果、人々から神様と崇められるようになりました』
『真っ白な龍が神様になったの?』
『そうよ』

 灯里が「すごい!」と目を輝かせた後、母が笑顔で続きを語り聞かせた。

『新しい星で居場所を見つけた白龍は、みんなと楽しく暮らしましたとさ』

 そこで話が終わってしまう。幸せな結末のように思えたが、灯里はどうにも腑に落ちなかった。

『それでおしまい? 白龍は月に帰りたいとは思わないの? 姫君と離れ離れになっちゃったんでしょ?』

 その問いかけに、母がなんと答えたのかは思い出せない。釈然としない心持ちのまま、母は白い(もや)の中に消えた。



 瞼の向こう側で光が差している。灯里は重い瞼をゆっくりと開いた。

「おや、起きたか」

 真っ白なヒトが、こちらを見下ろしている。その姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。
 金色の瞳をした優し気な目元、整った鼻梁、色素の薄い唇。肌の色は雪のように白く、透明感があった。
 腰まで伸びた白髪は、ひとつに束ねて肩から前に垂らしている。その質感は絹のように艶やかだった。
 細身の身体には、真っ白な着物をまとっている。膝の長さまである白い羽織りには、金色の飾り紐が付いていて華やかさがあった。

 神々しさと儚さをあわせ持つヒトだ。こんな美しいヒトは初めて見た。まじまじと見つめていると、包み込まれるような優しい声で尋ねられる。

「そなた、名はなんという?」
「……灯里」

 正直に名乗ると、真っ白なヒトは穏やかに微笑んだ。

「灯里か。いい名だな」

 朦朧としていた意識が、徐々に覚醒していく。すると、自分が草履(ぞうり)を履いていないことに気付いた。それだけではない。地に足が付いていない。

「えっ……私、抱きかかえられて……」

 なんと灯里は、真っ白なヒトに抱きかかえられていた。子供のような扱いを受けていることに気付くと、顔が熱くなる。

「あの、離してください」

 身をよじらせて降りようとすると、真っ白なヒトが慌てて声を上げる。

「待て待て、そう暴れるな」

 ひょいっと持ち上げると、再び抱え直す。どうやら降ろしてくれる気はなさそうだ。不服でありながらも抵抗するのは諦めて、別の事を尋ねた。

「貴方は?」

 真っ白なヒトは驚いたように目を見開く。

「なんだ、知らぬのか。……まあ、この姿なら仕方ないか」

 何度か頷きながら納得していると、真っ白なヒトは改めて灯里と目を合わせた。

「私は(おぼろ)。月に龍と書いて朧だ。現世では龍神と呼ばれている」

 龍神。それは、神話に出てくる真っ白な龍のことだろうか? 月からやって来た白龍が、人々を救って神になったと聞いている。
 理解が追い付かないものの、朧と名乗る男は説明を続ける。

「そなたは、私の生贄として捧げられた。だからこれからは、龍宮殿(りゅうぐうでん)で共に暮らそう」
「いけ、にえ……?」

 過去の記憶を遡ると、本殿での出来事を思い出す。帝に謁見した際、刀を振り下ろされて髪を切られた。それだけでなく、龍神の生贄にするとも告げられた。

 今、龍神のもとにいる状況を理解すると、背筋が凍る。生贄として捧げられたということは、食べられてしまうのかもしれない。離してくれないということは、きっとそういうことだ。このまま頭から(かじ)りつかれることを想像すると、顔面蒼白になった。
 怯えていると、朧は「はっはっは」と呑気に笑う。

「そう怯えるな。生贄といっても、取って喰ったりはしない。そうだなぁ……」

 朧は首を傾けながら考え込む。何を言われるのかハラハラしていると、とても呑気な願いを伝えられた。

「縁側で茶でも飲みながら、話し相手になってくれれば十分だ」

 ふっと力が抜けてしまう。生贄の定義すらあやふやになった。呆気に取られていると、朧が目を細めながら補足する。

「龍人の時は長い。ほんの一時でも話し相手になってくれたら、それだけで救われる」
「そういうものなのですか?」
「ああ。そういうものだ」

 朧はこちらを見下ろしながら、にっこりと微笑んだ。
 ひとまずは、すぐに危険に晒されるわけではなさそうだ。ホッと胸を撫で下ろしていると、朧は灯里を抱きかかえたまま歩き出した。

「立ち話もなんだ。龍宮殿に行こう。美味しい茶菓子を用意するぞ」
「龍宮殿とは……」

 聞き慣れない言葉に戸惑っていると、朧は周囲を見渡しながら語った。

幽世(かくりよ)にある宮殿だ。龍人達の住処(すみか)と言えば分かるかな?」

 朧につられて灯里も周囲を見渡す。そこで、はっと息をのんだ。
 いままで気付かなかったが、周囲には美しい景色が広がっている。綺麗に剪定(せんてい)された松の木に、満開のツツジ。少し離れた場所には池があり、水辺にはカキツバタが咲いていた。御所にも引けを取らない見事な庭園だ。見ているだけで心が和む。

「素敵なお庭ですね」
「そうだろう、そうだろう」

 灯里が賞賛すると、朧はさぞかし嬉しそうに頷いた。
 景色を眺めていると、不意に朧が足を止める。どうしたのかと見上げると、朧はこくりと首をかしげた。

「はて……龍宮殿はどっちだったかのう?」

 灯里は(まばた)きを繰り返す。そんなことを聞かれたって困る。

「ここは、貴方の住処なのでは?」
「そうなんだが、広すぎて迷ってしまったようだ」

 朧は、開き直ったかのように「はっはっは」と笑う。その姿を見て、灯里はあんぐりと口を開けた。灯里が呆れていることに気付くと、朧はにこりと笑う。

「案ずるな。近侍(きんじ)を呼ぼう」

 朧は、平らになった庭石の前に移動すると、そこに灯里を座らせる。両手が自由になったところで、懐から龍笛(りゅうてき)を取り出した。大きく息を吸い込むと、笛を横に持って演奏を始める。

 ヒューと軽やかな笛の音が、静かな庭園に響き渡る。その音は、透明感に溢れていて聞いているだけで心を穏やかにさせた。
 朧が演奏をはじめてからしばらく経つと、風が吹いて木々がざわめく。風の勢いは次第に増して、朧の長い髪をゆらゆらと揺らした。

 ふと空を見上げると、空に青い龍が飛んでいることに気付く。それは今まで見てきた生き物よりも、遥かに大きかった。
 よく晴れた空を旋回していた龍は、笛の音に引き寄せられるように地上に降りてくる。目の前までやって来ると、その迫力に驚かされた。

「本物の……龍……」

 いくら巫女とて、本物の龍を見たのは初めてだ。驚きのあまり、口を開けて固まっていた。すると、龍笛を懐に収めた朧に再び抱きかかえられる。

「彼に連れて行ってもらおう」
「彼って……」
青龍(せいりゅう)だ」

 朧は青い龍に近付くと、鱗で覆われた背中に灯里を乗せる。朧自身も飛び乗ると、晴れやかな声で指示をした。

「青龍、龍宮殿に案内してくれ」

 その言葉を合図に、龍が地上から飛び立つ。灯里は振り落とされないように、鱗にしがみついた。
 向かい風を受けながら、どんどん上昇していく。地上を見下ろすと、あまりの高さにくらっと気が遠くなった。

「しっかり掴まっていろ」

 力が抜けて落ちそうになると、朧が灯里の肩に手を回して抱き寄せる。ポスッと胸板に身を寄せると、ほんの少しだけ恐怖心が和らいだ。
 朧にしがみつきながら、龍宮殿に到着するのを待つ。しばらく上空を浮遊した後、青龍はゆっくりと地上に降りた。
 朧に抱きかかえられながら、龍の背から降りる。顔を上げると、目の前には平屋の屋敷があった。

「ここが、龍宮殿……」

 龍神の住む宮殿というからには絢爛豪華な建物を想像していたが、実際に佇んでいたのは素朴な屋敷だった。
 温もりを感じさせる木造平屋建で、屋根には黒い瓦が敷き詰められている。庭に面した場所には縁側があった。

「良いところだろう。中には広間や寝室、食堂、浴場、それに手合わせ場や、舞を披露する演技場もあるぞ。ちなみに私のお気に入りは縁側だな。よく晴れた日に、縁側に腰掛けてのんびり茶を飲んでいる時間が一番心安らぐ」

 外から見ただけでも建物内は広そうだ。まじまじと眺めていると、背後から男性の声が聞こえた。

「おい、いい加減にしろよ、クソジジイ」

 荒々しい言葉が飛び出して、びくんと肩を震わせる。朧に抱えられたまま振り返ると、先ほどまで龍がいた場所に青い髪をした青年が立っていた。

「え……龍が消えた?」

 先ほどまでの龍はどこに行ったのか? そして目の前の青年は誰なのか? 状況がまるで掴めなかった。
 青髪の青年が威圧的な空気を発しているが、朧はまったく意に返さず「はっはっは」と呑気に笑う。

「すまんな、青龍。また道に迷ってしまった」
「これで何度目だ。次迷ったら、首に紐をくくり付けるぞ」

 神様相手とは思えない無礼な物言いだ。この二人は、どういう関係なのだろう。
 それに朧は、彼を青龍と呼んだ。先ほどの龍が、目の前の青年ということなのか? 困惑しながら二人を交互に見ていると、朧が意図を察したかのように説明をした。

「こやつは近侍の青龍だ。先ほどは龍の姿で迎えに来てもらったが、普段はヒトの姿で生活している。口は悪いが、根は優しい奴だから仲良くしてやってくれ」

 朧から紹介されたところで、改めて青龍を見る。
 優し気な朧とは対照的に、ぴりっとした近寄りがたい雰囲気がある。鋭い目つきに、にこりともしない仏頂面。青い髪は短く切られており、無造作に跳ねている。細身の身体には、黒い着物をまとっていた。
 灯里と目が合うと、青龍は(いぶか)し気に眉を顰める。

「その人間はなんだ? どっから拾ってきた?」
「ああ、彼女は灯里だ。私の生贄として、幽世に送られてきた」

 朧が屈託のない笑顔で紹介すると、青龍は「はあぁ……」と深々とため息をついた。

現世(うつしよ)の人間は、まだ生贄なんて馬鹿げたことをしているのか。このジジイに人間を差し出したって、何のご利益もないっつーのに」
「はっはっは。ご利益はないが、私としてはありがたいぞ。茶飲み相手ができるのだからな」

 やはり朧は、生贄を友達か何かと勘違いしているようだ。食べられるわけではなさそうだから良いのだけど、なんだか力が抜けてしまう。
 朧が呑気に笑っていると、青龍がチッと舌打ちをする。それから青色の瞳で、灯里を見据えた。

「おい人間。現世に帰りたいなら、帰してやるぞ。別にここに留まっている必要なんてないからな」
「こら、青龍。来て早々に追い返すようなことを言ったら失礼だろ。まずは茶でも飲んでゆっくりと」
「ジジイは黙ってろ!」

 青龍に睨まれると、朧はしゅんと肩を落とした。荒々しく罵られて落ち込む姿は、少し哀れに思えた。
 とはいえ、まさか帰してもらえるとは思わなかった。生贄として送られてきたのだから、もとの場所には帰れないと思っていたから。
 灯里が言葉に詰まらせていると、青龍は頭をかきむしってからもう一度視線を合わせる。

「……別に帰れと言っているわけじゃない。帰る場所があるなら帰してやるって言っているんだ」

 その言葉で、ズキッと胸が痛む。星詠みの才をなくし、役目すらも失った今は、帰る場所などない。灯里は顔を伏せながら、首を振った。

「帰る場所は、ありません……」

 重苦しい空気が流れる。目の前にいた青龍は、気まずそうに視線を彷徨わせた。

「なんか悪いな。嫌なこと思い出させて……」

 気を遣わせてしまっているのが分かる。申しわけなくて視線を落としていると、朧が重苦しい空気を振り払うような明るい声で告げた。

「なら、ずっとここにいればいい。私は大歓迎だ」

 顔を上げると、朧が陽だまりのような笑顔を浮かべていた。歓迎されていることが伝わって来る。

「いいのですか?」

 恐る恐る尋ねると、朧は迷いなく頷く。

「もちろんだ。天寿をまっとうするまで、ここにいればいい」

 突然やって来た人間を、こうもあっさりと迎えてくれるとは思わなかった。戸惑っていると、青龍も腕組みしながら頷く。

「ああ。そういうことなら、ここに留まっていても良い。ジジイの世話役がもう一人ほしいと思っていたからちょうどいい」

 灯里は「え……」と小さく声を漏らす。神様の世話役なんて荷が重すぎる。とはいえ先ほど道に迷っていた姿を思い出すと、世話役が必要な理由も納得できる。
 世話役の件は保留にしていると、青龍がまじまじと灯里を見つめていることに気付く。

「あの……なにか……?」
「ひとつ聞かせてもらうが、現世ではそんな珍妙な髪型が流行っているのか?」

 青龍から指摘されて、帝に髪を切り落とされたことを思い出した。毛先に触れて確かめてみるも、やはり短くなっている。それだけでなく、刀を斜めに入れたせいか、左右の長さが均等でないことにも気付いた。これでは珍妙と言われてしまうのも無理はない。

「これは……色々事情がありまして……」

 本殿での出来事を思い出すと、気が重くなる。沈黙が続く中、朧が何かを思いついたかのように「そうだ」と声を弾ませた。

「青龍。灯里の髪を切ってやったらどうだ? 髪を切るのは得意だろう?」
「それは構わないが……。普段からジジイや龍の子たちの髪を切ってるから、腕には自信がある」

 青龍にそんな特技があるとは思わなかった。初対面の人にそこまでお願いをするのは気が引けるが、今の髪型のまま過ごすのは耐えがたい。

「お願いしてもよろしいですか?」

 遠慮がちに尋ねると、青龍はあっさりと頷いた。

「ああ、任せとけ。縁側で切るから、ついてこい」

 青龍は雑に手招きをしてから、龍宮殿の中に入った。



 自ら得意と言っていただけあって、青龍は髪を切るのが上手だった。左右非対称だった髪は、顎の位置で綺麗に切り揃えられている。以前よりもやや幼く見えるが、これはこれで可愛らしい。

「どうだ?」
「はい。ありがとうございます」

 灯里が礼を告げると、青龍は気恥ずかしそうに頬をかいた。

「まあ、似合ってるんじゃねーの? 少なくともさっきよりはマシだ」

 青龍は意外と照れ屋なのかもしれない。そっぽを向いて頬を染めている姿は、なんだか微笑ましかった。
 髪を切り終えてからも縁側に座っていると、奥の部屋から朧がひょっこり顔を覗かせる。

「終わったか?」

 灯里は振り返る。新しい髪型をお披露目すると、朧は目を輝かせながら縁側に出てきた。

「おー、いいじゃないか! 可愛いぞ! ずっと眺めていたいくらいだ!」

 灯里の髪型を上下左右から観察して、「可愛い、可愛い」と連呼する。そんな反応をされると思わなかったから驚いた。
 恥ずかしくなって顔を伏せる。可愛いと言われたことは素直に嬉しい。これまでは男性に可愛いなんて言われたことがなかったから。

 ふわふわと熱に浮かされていたものの、ふと髪を切らずにいた理由を思い出す。すると浮かれていた気持ちが、徐々に沈んでいった。

「ん? どうした、灯里?」

 灯里の表情が曇っていることに気付くと、朧は心配そうに顔を覗き込む。言葉に詰まらせていると、朧は青龍に迫った。

「青龍! ちゃんと灯里の要望を聞いたのか? 仕上がりに不満があるんじゃないか?」
「要望は聞いてないけど……そうなのか? この髪型が気にくわないなら、もう一度切り直しても」
「違うんです!」

 灯里は慌てて否定する。このままでは青龍のせいなってしまう。いらぬ誤解を招かないためにも、正直に事情を伝えることにした。

「実は私、もとの世界では星詠みの巫女と呼ばれる存在でした。それで髪を伸ばすことで国が平穏であるようにと願掛けをしていて……」

 そんな事情を話しても理解してもらえるはずがない。そう思っていたものの、意外なことに朧にはすぐに理解した。

「星詠みの巫女……そうか、そうだったのか……」

 驚いたように目を見開いている。まさか星詠みの巫女の存在を知っているとは思わなかった。
 目を丸くしていた朧だったが、しばらくするとふっと小さく息をつく。口元に添えてから、微かに聞こえる声で呟いた。

「……また、巡り合えるとは思わなかった。これも月の導きかもしれないな」

 金色の目を細めながら、何度も頷いている。
 また巡り合える? どういうことだ?
 朧の真意が分からず、呆然としてしまう。すると、ぽんっと頭に大きな手が置かれた。顔を上げると、朧が優し気に微笑んでいる。

「その小さな身体で、懸命に国を守ってきたのだな。立派だ。偉いぞ」

 大きな手で、「偉い、偉い」と何度も頭を撫でられる。まるで子供のような扱いを受けて、恥ずかしくなった。
 だけど、その手はとても心地いい。そういえば、昔もこうして母に頭を撫でてもらった。

 優しく頭を撫でられていると、過去の記憶が蘇る。あれは三つの頃だろうか。縁側で母と並んで星空を眺めていた時、ふとある光景が頭の中に入ってきた。

『お母さん、明日はね、晴れるんだって。お星様が言ってたの』

 無邪気に微笑みながら(しら)せると、母は驚いたように目を見開く。どうしてそんな顔をするのか分からずに首を傾げていると、母はふわりと微笑んで灯里の頭を撫でた。

『お星様の声が聞こえるなんて、灯里はすごいね。偉い偉い』

 褒められていることが嬉しくて、はにかみながら母の腕に擦り寄る。しばらく甘えていると、母が優しい眼差しで告げた。

『灯里には、たくさんの人を幸せにする力がある。その力を大切にしなさい』
『うんっ』

 灯里は元気よく返事をした。

 思い返せば、あの頃からだ。この力を使って、みんなを幸せにしたいと願うようになったのは。そうすれば、たくさん母に褒めてもらえるから。

 亡き母の存在を思い出すと、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。目頭が熱い。緩んだ心では、涙を堪えることはできなかった。
 ぼろぼろと流れる涙を手の甲で拭っていると、青龍が荒々しく声を上げる。

「おいジジイ! なに泣かしてんだ!」
「す、すまない灯里! (わらべ)のような扱いをして悪かった」

 灯里はしゃくりあげながら、大きく首を振る。

「違うん、です。褒めてもらえたことが、嬉しくて……」

 震える声で訴える。悲しいのではない、嬉しいのだ。
 本当は、こうして誰かに褒めてもらいたかった。仰々しく感謝されるのではなく、ただ優しく頭を撫でてもらいたかった。かつての母のように……。

 自分ですら気付かない場所にしまい込んでいた感情を、朧は意図も簡単に見つけてくれた。
 どうして気付いてくれたのだろう? もしかしたら、朧が神様だからかもしれない。

 感情を表に引きずり出されてしまったせいだろう。誰にも言えなかった思いもどんどん溢れてくる。もういっそ全部吐き出してしまいたい。朧なら、すべて受け止めてくれるような気がした。

「今の私には、もう星は見えません。国を守ることが、できなくなってしまいました。その上、髪まで切られてしまって……。そのことが、悲しくて、悔しくて……」

 自分の無力さを思い知ると、涙が止まらなくなる。嗚咽(おえつ)を漏らしながら、子供のように泣きじゃくっていた。
 すると朧が口元に手を添えながら神妙な顔で呟く。

「星が見えない。そうか……」

 しばらくは真剣に悩んでたが、重苦しい空気を断ち切るようににっこりと笑顔を浮かべた。

「まあ、切られてしまったものは仕方がない。髪はいずれまた伸びてくるだろうから、次の願掛けをしたらどうだ?」
「次の、願掛け……?」

 灯里は、すんと洟を啜ってから顔を上げる。その発想はなかった。朧の言う通り、もう一度願掛けをすれば願いが叶うかもしれない。
 とはいえ、帝の本性を知ってしまった今は、複雑な心境だ。民を守りたいという気持ちは確かにある。だけど再び国の平穏を願ったとしても、あの男が国を統治している限り、明るい未来は訪れないように思えた。

 重苦しい気持ちのまま俯いていると、朧に顔を覗き込まれる。

「それでは駄目か?」
「いえ、新たな願掛けをするというのは賛成です。だけど、何を願えばいいのか分からなくて……」

 正直に明かすと、朧は「そうだなぁ」と腕組みをしながら考え込む。うんうん唸っている様子を横目で見ていると、不意に朧がこちらに手を伸ばした。顔を上げると、朧の細い指先が灯里の毛先に触れる。

「灯里が幸せになれますように……というのはどうだ?」

 慈愛に満ちた眼差しで微笑みかける。月のような金色の瞳から、目が離せなくなった。

 幸せになれますように。そんなことは一度も願ったことはない。自分のことよりも、国のことを一番に考えてきたから。
 そんな願いをしても、いいのだろうか? 星詠みの巫女として生まれたにも関わらず、自分の幸せを願うなんて……。
 だけど、目の前で優しく微笑む神様を見ていると、そんな傲慢な願いも許されるような気がした。

「幸せになってもいいのでしょうか? 才をなくしてしまった、こんな私でも……」

 震える心臓を押さえながら尋ねると、朧は毛先から手を離し、ぽんっと灯里の頭に手を置いた。

「良いに決まっているだろう。私達と共に、龍宮殿で幸せになろう」

 それは、胸の内に渦巻いていた不安を晴らすような、希望に満ちた言葉だった。
 再び涙が溢れ出す。大粒の雫が頬に落ちると、朧は指先でぬぐった。

「なぁに、龍神の加護があるんだ。絶対に幸せになれる」

 神様が言っているのだから、間違いないだろう。朧の優しい笑顔を見ていると、頼りなく揺れていた心がピタリと定まった。

 この場所で、幸せになろう。国のためではなく、自分のために――。
 国を守ろうとしていた少女が、新しい生き方を見つけた瞬間だった。

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