「峰吉君」
「…………」
「峰吉晴馬君」
「…………」

 答えない俺に、「つれないですねぇ」と、いつもの如く雑用を理由に準備室に呼びつけた先生がつまらなそうに言う。自分の青春談義が出来ないことに不満を感じているのだろう。
 付き合わないと、ここから追い出されてしまうだろうか……けれど今の俺にはもう、それに付き合うだけの気力が湧かなかった。

 ——俺の今のクラス内での現状は、いじめられていると表すのかもしれない。
 目に見える形で派手にやられているわけではない。所有物の被害だってゼロ。至って普通に登校し下校している。人と関わることだって今までだってなかったのだから、外から見たかぎり変化はない。けれど、周囲の目に悪意を感じる、その一点が変わっただけで心はズキズキと傷んだ。
 その原因が俺にあることは理解している。自分に確実に非があることも。けれどそうなると、この周囲の反応を受け入れなければならないという考えが思考回路に組み込まれるようになり、どうすれば許されるのだろうと、許されるという結論を探し求めて思考がぐるぐると巡ってしまう。
 それが、自分で自分を否定することに向き合わされる今に繋がって、自分の考えも、存在も、悪でしかないのだと肯定しなければならない現実が、どんどん俺の心を蝕んでいった。
 そうか。みんな、こうなることを恐れていたんだ。
 だから人にあわせた言動をする。だから自分の意思を曲げてでもルールに従う。
 頭がすっからかんなんじゃない。頭を使ってるから一つの思想にまとまっていくのだ。
 けれど、今更そんなことに気付いた所で俺に逃げ場なんてない。だって悪いのは俺で、俺はどこまでいっても一人でしかないのだから。

 これは水面下で起こっていることのため、先生は気付いていないだろう。先生にはわからない。今俺がここにどんな気持ちで立っているのか。雑用を頼まれることが、どれだけ俺を支えてくれているのか……ついこの間まで距離を取ろうと思っていたくせにと、自分勝手な自分が嫌になる。
 しかし、先生が興味を持っているのは俺の青春という一部分だけ。力を尽くし、自分の思う道を進む俺でなければこのひと時も終わりを迎えることとなる。
 その時俺は、俺を受け入れてくれるもののない世界に帰るしかない。このどうしようもない気持ちを向ける先も、悪者になってくれる“青春”も、もう俺の中にはいないのだ。そうなったら俺は、立ち上がることが出来るのだろうか……。

 気付かないで欲しい。ずっとここで知らないままの変わらない先生と俺でいたい。
 けれど俺は変わってしまった。変わってしまったのだ、俺も、俺を取り巻く環境も。

「峰吉君」
「……なんですか」

 何度も告げられる俺の名前に、ようやく返事をすることが出来た、その時だった。

「なにか、私に話したいことはありませんか?」
「……え?」

 棚の整理をしていた手を止め、思わず先生の方へ顔を向ける。そこにはにこりといつもの綺麗な微笑みを浮かべる先生がいて、その目が俺に向けられていると自覚した瞬間、俺はぞっと駆け上がる嫌な予感を感じ取った。
 これは、何かを暴こうとする時の瞳だ。

「別に……これといって特にありません」
「本当に?」
「……本当です」
「…………」

 話してしまったら終わってしまう。そう思うとその問いに答えることは出来なかった。けれど、こうなるともうバレるのも時間の問題だと思う。先生は興味をもったことに対して知るまで諦めない人だから。
 ——それなのに。

「そうですか。では私の話をしてもいいですか?」

 すんなりと先生はそう言ったので、いつものように質問責めにされるだろうと身構えた俺は、驚きつつも頷いた。すると先生はパイプ椅子を一つ広げ、自分の隣に俺を座らせる。
 ……なんだろう。なんだかいつもとは違う何かを感じる。
 訝しむ俺に微笑むと、先生は話を始めた。

「実は私、資産家の娘なんです」
「……はい?」

 突然のことに思わず聞き返すと、冷静に淡々と「とてもお金持ちということです」と言い直されて、いやそういうことじゃないと心の中で突っ込んだ。もちろん先生は構わず先を続ける。

「私の人生、子供の頃から何事もお金と権力でなんとかなってしまう世界だったので、どの時代にもないんですよね。何かや誰かと全力でぶつかりあってきた経験が」
「…………」
「もちろん自ら飛び込んでいったこともありますが、私の後ろ盾を気にして周囲はそれに応えてくれないのですよ。結果、腫れ物扱いされ、誰も私に本心を曝けだしてくれることも、損得抜きで私に言葉をくれる人も存在しない学生時代を送ってきました」

 その、身に覚えのある“腫れ物扱い”という言葉。環境こそ違えど、つい最近までの俺と同じ、クラスに馴染めない立場の人間だったということが、その言葉で容易に想像することが出来た。

「その時は気にしていなかったのですが、高校卒業後、どうしても不完全燃焼感が心から離れず、振り払うように様々なことに取り組んではみましたが、全て結果が出たところで私を満足させるものではありませんでした。そこで気付いたのです。私には学生時代にやり残したことがあるのだと。私の手に入らなかった青春はそこにあるのだと。だから私は今、この高校で教師をしているのです。手に入らなかった学生時代の青春を取り戻すために。みなさんの青春を通して、少しでもこの心を満たすために」

 “青春とは、自分の全身全霊を持って何かと向き合うことである”
 そう言った先生は、それは何も学生時代に限られているわけではないといっていた。それを俺は、先日のアイドルの熱愛報道に対する意見の中で、“自分にとってそのアイドルを推すことは大人になってからやってきた青春だった”と語るものを見つけて、これのことかと納得したのだ。
 だからきっと先生も卒業後、そういう熱量をもった代わりになる何かを探して活動的に生きてきたのだろうと思う。
 しかし、それが先生には見つからなかった。学生時代のそれに未練があり、心の隙間がどうしても埋まらなかったのだという。その結果として生まれたのがこの、学生時代の青春への強い執着を持った青春中毒者である九条直子という女教師だった、ということか。

「家庭環境の都合なら、仕方ないことだと割り切ろうとは思わなかったんですか?」
「そうですね。裕福な家庭環境で育った身としては、家庭環境は囚われるものでなく利用するものだと考えますし、それを理由に諦めるのは愚かなことだと感じているので。私の中に仕方がないという言葉はありませんでしたね」
「……失敗が許せない、完璧主義で神経質なタイプですか?」
「? どうでしょう。その時々の自分の願望を叶えることしか考えていなかったので、自分の性質がどういうタイプか、というのものには興味を持ったことがありません」
「…………」

 なんだか、底知れない先生の中身を覗いているような、どんどん禁足地へ足を踏み入れているような気分になる……まだまだ底が深そうな気配すらした。
 先生は、話せば話すほど俺とは違う人間なのだと感じ、その発言全てが新鮮で、まるで異文化そのもののような人だった。
 もしかすると、だからこうして俺でも話し合えるのかもしれない。変に共感しなければならないことも、逆に共感を求めるようなこともなかったから。それはまるで謎を解いていくような感覚に近くて、人間関係を円滑にするものとしてのコミュニケーションと違う感じがした。
 これまでずっとお互いの自己紹介が続いているような。
 お互いが勝手に、お互いの理解出来る所を探しているような。
 こんな関わり方もあるのだと、俺は初めて知った。

「ですから私、すごく嬉しかったのです」
「えっと、生徒と一緒に青春に触れられたことがですか?」
「いえ、違います」

 あれ? 違ったか。じゃあなんだろうと、次の問題を答えるように考え始めると、先生はふっと柔らかい笑顔を浮かべ、俺に言った。

「つまり私は、ようやく初めてこの場所で、人と心を晒し合い、真正面から意見を交わすことが出来たのですよ。そうですよね? 峰吉君」
「……え?」
「君はいつだって真剣に話を聞いてくれたし、私に自分の心を見せてくれて、信頼してくれた。どこか私の過去と近しい君が突き進む姿は、まるで過去の私の違う未来を見ているようでした。君の青春が私の孤独だった青春時代を癒してくれたのです。そう。つまり君は私の親友なのです」
「お、俺が、親友?」

 戸惑う俺に、そうだと先生は深く頷いた。

「ですから峰吉君、話してください。教師ではなく、共に青春時代を生きる親友の私に。君が救ってくれたように、私も君を救いたい」
「…………」
「大丈夫。私は何があっても君の味方です。私の使える力全てを持って君の青春を守ります」
「……俺の青春」

 その、どこまでも青春なのが先生らしい。
 ……では一体、俺の青春とはなにか。その答えはすでに俺の中では見つかっていた。

「……先生が前、俺の青春は“青春を否定する青春”だっていったじゃないですか」
「いいましたね」
「でも悪いのは青春じゃなくてその時の周囲の人間だとも言いました」
「はい、その通りです」
「それから俺にとっての青春ってなんだろうって考えてたんですけど……偶然それに気付いた瞬間があって」

 そう。それは俺が彼女に対していいすぎてしまったあの時。
 迫害される一人の人間が生まれようとしていた、あの瞬間。

「人の悪意が広まるのを止めること……というか、一人を否定したり、それを良しとするのが正解だという空気を作るような、そういうものを否定するのが俺の青春なのかなって」

 ——思えば、始めからそうだった。

「俺はもうあんな目には合いたくないし、俺のような人間が生まれて欲しくない。だから俺はその理由を探して、青春に原因があるのだと答えをだし、原因として青春という言葉を否定してきました。でも、そうじゃない」

 “青春だからという言葉にまとめ、自分自身の行動の善悪が偏っていてもそれで良しとする人達のこと”
 そう言ったのは自分だ。始めから答えはとうに出ていたのだ。俺は、そういうものが生まれることを否定していた。それが、俺の存在の全てを掛けた青春だった。

「俺は、偏った意見に流されて一人が否定されるのを防ぎたい。だって人は皆それぞれの考え方を、生き方を持っているものだから。だから俺は行動しました。結果、俺は相手の大事な部分を否定してしまった」
「…………」
「相手の行動は間違っていました。だから俺の判断は正しかった。けれど、俺が相手を傷つける必要はなかった……それは俺の間違いです。なので悪いのは俺で、悪意を向けられても仕方ありません。俺が避けられ、嫌がられるのは俺の招いたことなんです」
「……なるほど」

 先生は黙って俺の話を聞くと、口癖のようなその言葉で相槌を打った。
 そして、

「私はそうは思いません」

 きっぱりと、俺の意見を否定した。