先生はきっと、俺が考えているよりも更に普通の感覚とは違う世界を生きている。
まるで別の生き物のように。
「峰吉君、このモニターを一緒に運んでください」
いつも通りの放課後。先生のいうそれは脚付きのホワイトボードほどの大きさの、自立して黒板の横で使うタイプの大きなモニターのことだった。
「……このモニターの足にローラーついてますよね? そんなに重くないし一人で行けるんじゃないですか?」
「大きなモニターを一人で運ぶのは危険です。準備も日直さんにお手伝いを頼みました」
「では片付けも日直さんに頼んでおけば良かったですね。自分の詰めの甘さです。頑張ってください」
「! そ、それが立派な男子高校生の在り方ですか……?」
信じられない!と目を丸くして少し引いている先生の大袈裟な様子に、放課後を迎えてすぐの教室内では、まだ残っている同級生達の注目がどんどん集まってくるのを背中にひしひしと感じた。
「いや、手伝えよ」
「捻くれてるだけじゃなくて意地も悪いんだ……」
ボソボソと囁き合う女子達の言葉が背後から俺を貫き、素直にショックを受ける男子高校生の俺がいた。
単純に一人で出来るのに?と思う気持ちもあるが、それよりも今は少し先生と距離をとりたいと思っているからで、ただの意地悪のつもりで言ったわけではなかったのだ。
「先生、俺手伝うよ〜」
「岡本君! 部活はいいのですか?」
「モニター運んだくらいで遅刻しないよ。すぐそこじゃん」
「岡本君……! なんて眩しいのでしょう! これには青春を感じざるを得ない……!」
「あはは、大袈裟」
そして、ありがとうと何度も感謝する先生と岡本は二人でモニターを押しながら、無事教室を出ていくのだった。
はぁ……結局俺に声を掛ける判断をした先生が悪い。
と、嫌な気持ちになった責任を先生に押しつけることで解消し、丸く収まったことだし帰ろうと心を切り替えたその時だ。
「でもさ、実際一人で運べたはずだよね? モニター」
先程の女子の声が聞こえてきて、つい、耳を傾ける。
「わかる。普通に一人で運んでる時あるし」
「なんかさ、そういうの多くない? か弱い女子感出してくんの」
「あのやけに丁寧な話し方とかね。実際それで男子やられてると思うわ、普通に先生可愛いし。ほんと男子って奴はどいつもこいつも」
「わかる〜」と、共感し合う女子二人組。けれどその内容が俺にはピンと来なかった。
あの先生がか弱い女子? それで男子はやられてる?
俺が気付いてないだけで他の男子はそういうことになっているのだろうか……。
自分が受け入れられないのは周囲のせいだと決めつけ、否定してきた自分の醜さを実感してから、周囲の人間の言葉が耳に入ってくるようになったと思う。それがいいことか悪いことかはわからないけれど。
にしても本当に、こういう仲間意識を持つためのちょっとした悪口が好きな人って多いよな……断ってる所を見たことがない。あまり気持ちのいいものとは思えないけど……あぁ、そっか。断ったら俺みたいなことになるからか。
俺は俺を否定されなければ孤立することに恐れはないけれど、きっとみんなはそうではない。だから群が出来るし、互いの意見を表にいる限り肯定しあうのだ。まるでルール確認みたいに。そのルールで俺は大体避けられる対象であったからわかる。
そうしてあわせるうちに我慢しているものがSNSなどを通じて自分の外へと出ているのか。そこでは人にあわせる必要などないのだから。もしみんなが互いに合わせるのをやめて我慢せずに否定しあったとしたら、裏側の青春とされるものはSNSにおさまることなく表に出てくることとなる。
……裏は裏のまま、表ではちょっとした悪口のようにして、その場のルール確認程度で消えていくくらいが正しいのかもしれない。それを美しいとも、面白いとも思わないけれど。
「つーかさ、九条先生ってよく青春するみたいなこと言ってるじゃん。それってまさか男子高校生相手に男漁り的な、そういう意味?って思うことあって」
「流石にそれはない。自分が岡本のこと気になってるからそう見えるだけじゃん?」
「いやでもさ、私……見ちゃったんだよね」
先程から女子二人組はもう俺の存在なんて目に入っていないみたいで、話は本格的に込み入った内容になり始めている。盗み聞きをするつもりなんてなかったのに、気づけば俺の耳はその内容に集中していて、足が縫い付けたように動かなかった。
だって青春と男子高校生といったら、放課後の俺と先生のやり取りについてのことかもしれない。それが変な噂になって外に出てしまったのかもしれない……!
もしそうだったら訂正しないと!
焦りと興味関心が最大値に達した所で、その女子の一人は告げる。
「先生、毎日男に車で送迎させてるんだよ」
……は?
「は? 送迎ってどこに?」
「ここだよここ。学校だよ。部活遅くなった時見ちゃってさ。彼氏かと思ったんだけど、なんか毎回同じ人じゃないんだよね……」
「つまり職場に毎回違う男が送り迎えしてるってこと?」
「そう。それってヤバくない? どんだけ男いんだよって話」
……いや、関係なくね?
「だから青春なんて言ってるけど、結局男漁ること言ってんでしょ?って思って。さっきみたいに手伝い頼んで二人になる、みたいなの。よく考えたらヤバくない? 男子高校生相手にキモ過ぎ。つーか犯罪?」
「え、ヤバ」
「あのさ」
思わず一言発した瞬間、二つの視線が俺に突き刺さる。それには驚愕と嫌悪が含まれていたけれど、そんなことはどうだってよかった。
嫌悪感だったら俺も抱いてる。この流れには身に覚えがあるからだ。ちょっとした悪口程度ならまだ許せるけれど、今二人は俺がこの世で一番嫌いな方向へと向かっている。
俺は、それだけは絶対に許せなかった。
「そういうの、楽しい?」
「は?」
「そうやって自分の固定概念で周囲の考えを統一して、一人の人間を迫害するつもりなんだろうけど、それで思った通りの状況が出来上がったとして……その時のあなたは満たされた気持ちになるのかな。そんなことで解決するのか? そうじゃないだろ。だったらそれに何の意味がある?」
「は? 意味わかんないんですけど」
「つーか話し聞いてたの普通にキモい」
まるで汚いものを見るような目で俺を見る。確かにいう通り、盗み聞きしてそれに口挟んで勝手にキレてる俺はキモすぎる。けれどここで聞こえない振りなんて出来なかった。したくなかった。
それが生まれようとする現場に立ち会うことでようやく気がついたのだ。だってそれが、それを否定することこそが俺にとって一番大事にしているものだったのだと、俺の心が叫んでいる。
俺が今まで否定してきたことは正しくこれだ!
それが俺の青春で、俺は間違えてなどいなかったのだ!
「そんなことで仲間作って満足してんなよ! もっと違うことで力だせよ! 何のために友達作ってんだよ!」
自分の不満を正当化するための敵を作るな。そうやって仲間を増やして安心するな。その中心で指揮をとって人の上に立った気になるな。そんなことしたって現実の自分自身は何も変わらない。望むものなんて手に入らない。
「先生を悪者にした所で、岡本がそんなくだらないことする馬鹿なんか好きになるわけないだろう!」
——それは、空気が凍りついた瞬間だった。
はっと我に返った俺の目に入ってきたのは、女子の涙。
「……最低」
それだけ告げると、涙を流す彼女に寄り添うようにして、二人は教室を出ていった。
……やってしまったのだと、さすがの俺にでもわかった。
本心だ。今俺が言ったこと全てが本心からの言葉だし、俺の判断は正しかったと信じている。何故なら確実に彼女には先生を陥れようとする魂胆がみえたし、それがただの自分勝手な都合によるものであるとも彼女達の話の中で理解出来たから。
先生が男好きかどうか、それは俺には判断出来ない。けれどもし男好きだったとしても、その事実に関係なく絶対にそうではないと言い切れる部分がある。
“ 青春なんて言ってるけど、結局男漁ること言ってんでしょ?”
先生の青春が、そんなものであるわけない。
先生がそんなものに、それが自分の青春だと力を込めるわけがない。
先生は感覚から違う人だけど、俺の思いもしないような人間性をもった人かもしれないけど、先生が青春というものに関して一つの信念を抱いていることだけは間違いなかったから。その熱意だけは伝わっていたから。
だから、勝手な解釈で先生の大事にしいてるものを踏み躙ろうとしているのが……それが、許せなかった。
先生に、過去の俺と同じ思いをして欲しくなかった。
だから俺の判断は間違ってない。——けれど、言いすぎたことは理解している。俺も同じく、彼女の大事にしているものを否定してしまったのだから。
——だからこれは、当然の報いだ。
次の日から俺は、段々とクラス内で悪意を感じるようになっていった。
女子からは軽蔑の目で見られ、男子からは興味も持たれない。時折聞こえてくるのは俺の行動に対する嫌味。
今までは腫れ物扱いといった所だったが、今の俺は完全に悪者であり、裁くべき対象という立場の扱いであった。
まるで中学時代に戻ったようだったが、あの頃とは決定的に違う所がある。それは、俺自身の行動に非があるということ。
俺は今、俺自身のあの時の言動を理由に否定されていて、そこに青春なんてものは全く関係がないのだということを現実として受け取っていた。
逃げ場なんてどこにもない。それはとても怖いことだった。



