次の放課後では、本当に九条の“青春とはいかに素晴らしいものか”の講演会に参加させられることとなった。(参加者は俺一人)
九条が言うには、青春とは、“自分の全身全霊を持って何かと向き合うこと”を指すのだそう。(約二時間長々と語られたがつまりはそういうこと)
それが、現在と未来に思い悩む俺らのような年代には顕著にあらわれるが、どの年代だって向き合う何かに直向きである人間はそれに当てはまる。つまり自分のことだ!ということ。(九条は今青春時代)
そして問われた、その言葉。
“君の青春とはなんですか?”
青春を否定する青春だと名前がつけられた今までの俺の思想や行動。俺が否定されるのは青春という概念があるせいだと、俺は自分が受け入れられないことの理由を青春という言葉に結びつけてきた。
しかし、悪いのは青春ではなく、中学時代の周囲の人間達だったのだと九条に教えられた。そこに青春は関係ないのだと。
冷静になればそうだと納得できる。実際いじめなんて大人になってからでも起こることだし、青春にふさわしくないからいじめられたのであれば今だって変わらずいじめられているわけだ。
今現在、厄介者扱いされている自覚はあるが、決していじめにまでは発展していない。しかし、自己紹介の俺の発言をきっかけに避けられているのは事実。青春に対する向き合い方が違うと判断された結果だ。
それは互いの思想の違い。つまり青春の捉え方の違い。今の生き方の違い。
では青春とは一体。青春を否定する必要がなくなった今、俺の生きる青春とは。皆の生きる青春とは……。
「なるほど。青春を受け入れる方向で立ち上がったのですね。なんて素直で素晴らしい」
「…………」
「それは峰吉君の良い所ですね。峰吉君は信念を持って行動出来る上に、新しい考えを取り入れる柔軟さも兼ね備えているということです。私も見習わなければ」
「…………」
そうして、何度も重ねてきた放課後の青春討論会(二人)の末、俺が辿り着いた次の目標としては、“俺が納得して受け入れられる青春の在り方を探す”ということだった。
否定することで生まれるものではなく、受け入れることで生まれるものを俺は探してみたいと思った。そうすることで、思想の違いによって生まれる壁は薄く低くなるかもしれない。無理にどちらかに合わせることで群を作るのではなく、それぞれの妥協点を擦り合わせて歩み寄ることも出来るのかもしれない。
だって、俺たちは同じ志を胸に、それぞれの青春時代を生きているのだから。
——と、それを九条に伝えた所、返ってきたのが、いつもと変わらず綺麗な笑顔を浮かべながらつらつらと並べられた、先ほどの言葉。
「おや? 峰吉君。何かご意見が?」
「……いえ」
……なんだろう。本気で言ってるんだろうけど、この人の言葉は何故か胡散臭く聞こえてしまう。
が、九条にとっては自分の言葉を俺がどう受け取っていようと関係ないので、にこにこしながら「では、こんなのはどうでしょう?」と、パソコンの画面からそれを開いた。
「SNS……」
「はい。峰吉君はアカウントをお持ちですか?」
「一応、見るだけですけど。情報は欲しいので」
「そうですか。であれば簡単なことです。検索すればいいだけのこと。まずは様々な青春の形を覗いてみましょう」
そういうと、九条はそこに“青春”といれて検索を押した。すると出てきたのはそれぞれが思い思いに作り上げた青春というものの形。
「友達との絆、自分の宝物や経歴、作品の数々、本の紹介もありますね。どれもキラキラと輝いていて、心がなんとなく上向きになります」
「…………」
「こういった誰かの輝かしい青春に触れるのは良いことです。同じものに力を入れる仲間も見つかりやすいですしね。しかし面白いのがここから。ここ、SNS上にはそういった表向きの青春だけでなく、裏側の青春も赤裸々に晒されているのです」
「裏側の青春……?」
「はい。見てください」
そう言って九条が検索ワードを削除し、そのまま下へスクロールしていくと、規則性もなくその時々の人のつぶやきが流れていく。それは特に珍しいものではなかったが、九条は一つのつぶやきで手をとめた。
“ずっと信じてたのに! プロ意識なすぎる!”
それはアイドルの熱愛報道に対するつぶやきだった。それに対して、擁護と非難の言葉が次々に繋がっている。
「“恋人がいたなら推さなかった”“それくらい当たり前”“商品としての自覚を持つべき”“自分の理想を押し付けるのはファン失格”などなど。様々な思いがここに集結しています。そのどれもがそれぞれ持つ信念から生まれるものである限り、正解も間違いもない。しかし、人は自分の思想を受け入れられることを望み、どこまでも戦う姿勢をとることも出来る。故に、体裁や外聞をとりつくろう必要のないネット上ではその熱意が燃え上がり、時に炎上という結果をもたらすことがある」
「…………」
「私はその熱量も青春だと捉えています。何故ならそこには人の全身全霊が込められているから。意見と意見をぶつかり合わせることで新しい見識を得た人もいるでしょう。その界隈での新しい常識が誕生したこともあるでしょう。人が力を尽くす真っ只中であるのなら、それは人生の中の青春時代なのですよ」
「…………」
……これも、青春?
いつもであれば見苦しいしどうでもいいと、目にとまることすらないつぶやきだ。けれど今、そのアイドルの熱愛報道はトレンドにもあがっていて、世間が熱を注いでそれに対する意見を発信していることがすぐにわかった。
自分本位の意見が集まり、そこでまた群を作り始めている。きっと中には画面に張り付くようにしてその情報を集めている人もいるだろう。それこそまるで、俺の粗探しをする中学時代のあいつらのように——。
「……先生」
「何でしょう?」
——もしかしたら、この人から見れば、あいつらが俺をいじめていたことも、輝かしい青春の一つに見えているのかもしれない。
「…………」
「峰吉君?」
だったら訊いてみればいい。あいつらが俺を熱心にいじめていたことも、先生から見たら青春といえますか?
「……なんでも、ありません」
「? そうですか」
けれど、そんなことを訊けるわけもなくて、結局なんでもないと俺の口は答えていた。
もしもそうですねと、先生にあいつらを肯定されてしまったら……そんなことはしない人だと、俺には先生を信じることが出来なかった。
先生のいう、“裏側の青春”。
それは表の生活で堂々とは出来ない“何かを否定する”行動のことを指す、ということだろうか。
けれど、そうだとすると先生が俺を肯定したことも納得がいく。俺の今までの行動は、この裏側の青春というものに当てはまるのだから。自分が受け入れられないものを否定する、この……自分の都合で人を否定するつぶやきと、同じ。
それが青春だなんて、俺には受け入れられそうになかった。受け入れてしまえば、今までの自分の行いの全てが醜い、人から拒絶されて当たり前の行動となってしまうから。俺を否定したあいつらと同じになってしまうから。 自分はずっと、そんなものを自分の正義だと掲げていたのだ。
そんな嫌な部分を曝け出した姿は美しいか?
そんなものに全身全霊をかけることの何が面白いのか?
それらに裏側の青春と名付けて嬉々として受け入れる先生は、俺が思っているよりもヤバい人だったのだろう。そんなことに気づいてしまうと、自分の嫌な部分を知ったのと同じだけ、深く傷ついた自分がここにいた。
——そうか。俺は先生のことを信頼していたのだ。だって先生は、初めて俺が自分の全てを語って、それを受け入れてくれた人だったから。
先生が正しければ、俺は正しいのだと自分を受け入れられたのに。
九条が言うには、青春とは、“自分の全身全霊を持って何かと向き合うこと”を指すのだそう。(約二時間長々と語られたがつまりはそういうこと)
それが、現在と未来に思い悩む俺らのような年代には顕著にあらわれるが、どの年代だって向き合う何かに直向きである人間はそれに当てはまる。つまり自分のことだ!ということ。(九条は今青春時代)
そして問われた、その言葉。
“君の青春とはなんですか?”
青春を否定する青春だと名前がつけられた今までの俺の思想や行動。俺が否定されるのは青春という概念があるせいだと、俺は自分が受け入れられないことの理由を青春という言葉に結びつけてきた。
しかし、悪いのは青春ではなく、中学時代の周囲の人間達だったのだと九条に教えられた。そこに青春は関係ないのだと。
冷静になればそうだと納得できる。実際いじめなんて大人になってからでも起こることだし、青春にふさわしくないからいじめられたのであれば今だって変わらずいじめられているわけだ。
今現在、厄介者扱いされている自覚はあるが、決していじめにまでは発展していない。しかし、自己紹介の俺の発言をきっかけに避けられているのは事実。青春に対する向き合い方が違うと判断された結果だ。
それは互いの思想の違い。つまり青春の捉え方の違い。今の生き方の違い。
では青春とは一体。青春を否定する必要がなくなった今、俺の生きる青春とは。皆の生きる青春とは……。
「なるほど。青春を受け入れる方向で立ち上がったのですね。なんて素直で素晴らしい」
「…………」
「それは峰吉君の良い所ですね。峰吉君は信念を持って行動出来る上に、新しい考えを取り入れる柔軟さも兼ね備えているということです。私も見習わなければ」
「…………」
そうして、何度も重ねてきた放課後の青春討論会(二人)の末、俺が辿り着いた次の目標としては、“俺が納得して受け入れられる青春の在り方を探す”ということだった。
否定することで生まれるものではなく、受け入れることで生まれるものを俺は探してみたいと思った。そうすることで、思想の違いによって生まれる壁は薄く低くなるかもしれない。無理にどちらかに合わせることで群を作るのではなく、それぞれの妥協点を擦り合わせて歩み寄ることも出来るのかもしれない。
だって、俺たちは同じ志を胸に、それぞれの青春時代を生きているのだから。
——と、それを九条に伝えた所、返ってきたのが、いつもと変わらず綺麗な笑顔を浮かべながらつらつらと並べられた、先ほどの言葉。
「おや? 峰吉君。何かご意見が?」
「……いえ」
……なんだろう。本気で言ってるんだろうけど、この人の言葉は何故か胡散臭く聞こえてしまう。
が、九条にとっては自分の言葉を俺がどう受け取っていようと関係ないので、にこにこしながら「では、こんなのはどうでしょう?」と、パソコンの画面からそれを開いた。
「SNS……」
「はい。峰吉君はアカウントをお持ちですか?」
「一応、見るだけですけど。情報は欲しいので」
「そうですか。であれば簡単なことです。検索すればいいだけのこと。まずは様々な青春の形を覗いてみましょう」
そういうと、九条はそこに“青春”といれて検索を押した。すると出てきたのはそれぞれが思い思いに作り上げた青春というものの形。
「友達との絆、自分の宝物や経歴、作品の数々、本の紹介もありますね。どれもキラキラと輝いていて、心がなんとなく上向きになります」
「…………」
「こういった誰かの輝かしい青春に触れるのは良いことです。同じものに力を入れる仲間も見つかりやすいですしね。しかし面白いのがここから。ここ、SNS上にはそういった表向きの青春だけでなく、裏側の青春も赤裸々に晒されているのです」
「裏側の青春……?」
「はい。見てください」
そう言って九条が検索ワードを削除し、そのまま下へスクロールしていくと、規則性もなくその時々の人のつぶやきが流れていく。それは特に珍しいものではなかったが、九条は一つのつぶやきで手をとめた。
“ずっと信じてたのに! プロ意識なすぎる!”
それはアイドルの熱愛報道に対するつぶやきだった。それに対して、擁護と非難の言葉が次々に繋がっている。
「“恋人がいたなら推さなかった”“それくらい当たり前”“商品としての自覚を持つべき”“自分の理想を押し付けるのはファン失格”などなど。様々な思いがここに集結しています。そのどれもがそれぞれ持つ信念から生まれるものである限り、正解も間違いもない。しかし、人は自分の思想を受け入れられることを望み、どこまでも戦う姿勢をとることも出来る。故に、体裁や外聞をとりつくろう必要のないネット上ではその熱意が燃え上がり、時に炎上という結果をもたらすことがある」
「…………」
「私はその熱量も青春だと捉えています。何故ならそこには人の全身全霊が込められているから。意見と意見をぶつかり合わせることで新しい見識を得た人もいるでしょう。その界隈での新しい常識が誕生したこともあるでしょう。人が力を尽くす真っ只中であるのなら、それは人生の中の青春時代なのですよ」
「…………」
……これも、青春?
いつもであれば見苦しいしどうでもいいと、目にとまることすらないつぶやきだ。けれど今、そのアイドルの熱愛報道はトレンドにもあがっていて、世間が熱を注いでそれに対する意見を発信していることがすぐにわかった。
自分本位の意見が集まり、そこでまた群を作り始めている。きっと中には画面に張り付くようにしてその情報を集めている人もいるだろう。それこそまるで、俺の粗探しをする中学時代のあいつらのように——。
「……先生」
「何でしょう?」
——もしかしたら、この人から見れば、あいつらが俺をいじめていたことも、輝かしい青春の一つに見えているのかもしれない。
「…………」
「峰吉君?」
だったら訊いてみればいい。あいつらが俺を熱心にいじめていたことも、先生から見たら青春といえますか?
「……なんでも、ありません」
「? そうですか」
けれど、そんなことを訊けるわけもなくて、結局なんでもないと俺の口は答えていた。
もしもそうですねと、先生にあいつらを肯定されてしまったら……そんなことはしない人だと、俺には先生を信じることが出来なかった。
先生のいう、“裏側の青春”。
それは表の生活で堂々とは出来ない“何かを否定する”行動のことを指す、ということだろうか。
けれど、そうだとすると先生が俺を肯定したことも納得がいく。俺の今までの行動は、この裏側の青春というものに当てはまるのだから。自分が受け入れられないものを否定する、この……自分の都合で人を否定するつぶやきと、同じ。
それが青春だなんて、俺には受け入れられそうになかった。受け入れてしまえば、今までの自分の行いの全てが醜い、人から拒絶されて当たり前の行動となってしまうから。俺を否定したあいつらと同じになってしまうから。 自分はずっと、そんなものを自分の正義だと掲げていたのだ。
そんな嫌な部分を曝け出した姿は美しいか?
そんなものに全身全霊をかけることの何が面白いのか?
それらに裏側の青春と名付けて嬉々として受け入れる先生は、俺が思っているよりもヤバい人だったのだろう。そんなことに気づいてしまうと、自分の嫌な部分を知ったのと同じだけ、深く傷ついた自分がここにいた。
——そうか。俺は先生のことを信頼していたのだ。だって先生は、初めて俺が自分の全てを語って、それを受け入れてくれた人だったから。
先生が正しければ、俺は正しいのだと自分を受け入れられたのに。



