教室に戻ると、間も無く予鈴が鳴るというのに非難は未だ轟々としていた。
「え、なにこの騒ぎ。どうしたの?」
「これこれ。鈴木のやつ、水族館で女の子盗撮してたって炎上してるの」
しかもそこに後から登校してきた生徒も加わって、話がどんどん広がっているようだ。見れば、最初に教室に来た時と比べて鈴木を取り囲んでいる生徒が倍くらいになっている。
「マジなの?」
「なんか先週も載っけてる。ほらこれ。カフェで不倫だか浮気だかの言い合いしてるカップルの隠し撮り投稿。しかも実況付き」
「うわぁ。プライベート侵害じゃん、それ」
「それで今回はこれ。遠目で実際は何撮ってるかわかんないけど、客席にスマホ向けてる。このYotuber曰く、セクシーな女の子らしい」
「え、気持ち悪。あれ、でもイルカにスマホとられてるじゃん」
「そうなの。マジウケるよね」
せせら笑う声がすぐ傍で聞こえた。概ね漆原の言った通りの展開になっていた。そういえば、カフェで難癖をつけていた女性もセクシーな格好をしていたっけ。もしそうした細かいところにも漆原の思惑が絡んでいるのだとしたら、恐ろしいことこの上ない。
「あ、来た来た」
するとそこへ、待ってましたとばかりに安藤が禎一に気づいて近づいてきた。その顔には、これまで禎一に向けていたのとは性質の違う笑みが浮かべられていた。
「なんとなくわかってると思うけど、こいつ、盗撮してるのがバレて炎上してんだ。過去にはいじめとかの写真も投稿しててマジでゴミだよな。んでさ、こいつ追い込まれたらお前の悪口とか言ってんの。何か言ってやれよ」
安藤が肩を組んできた。
そこで、なるほどなと思った。
安藤の笑顔は、卑しさに満ちていた。つまるところ、弱りに弱っている鈴木に復讐するチャンスだと言いたいのだろう。そして、これまで貶してきた相手から逆に貶されるという屈辱を鈴木に与えて面白がろうという魂胆なんだろう。
「悪口じゃねえ、事実じゃねえか! こいつはゲイで、担任の漆原と付き合ってんだよ!」
「だーかーらー、証拠を見せろって。苦し紛れで話の矛先を逸らそうったって誰もお前の話なんか聞かねーよ」
「んだとてめえ! お前らだって知ってるくせによ!」
鈴木は爆発寸前だった。顔を真っ赤にして、今にも安藤に殴りかかろうとしている。
「……とまあ、こんな感じなわけ」
安藤はやれやれと肩をすくめた。その隣では井上がニヤニヤと口の端を吊り上げている。それから、共通の敵は味方とでも言いたげに、「ほら」と禎一の背中を押して促してきた。
禎一は鈴木を見やった。
つい今朝まで感じていた恐怖は、微塵もなくなっていた。
「何見てんだよ、この変態野郎が……そうだ! お前のスマホを見せろよ! そこにはたくさん証拠があるはずだからな!」
何言ってんだこいつ、と思った。そんなの見せるわけがない。とことん追い込まれて、どうやら頭がおかしくなっているらしい。
鈴木が禎一に掴みかかろうとしたのを、安藤が押しやった。今まで見たことのない光景が、そこには広がっていた。
「人のスマホを強引にとるとか、さらに最低だなお前。強盗だぞ、強盗。立派な犯罪だ」
「るせーな! 今まで散々俺に引っ付いてきたくせによ!」
「お前がそんなやつだとは思ってなかったんだよ。友達だと思ってたのに、マジで裏切られた気分だわ。どうしてくれんの?」
言い合いがまた加熱する。禎一にとっては、どちらも自分をいじめてきた奴らだ。そんな彼らが仲違いをして、まだ矛先が向いていない安藤と井上がクラスメイトを扇動し、良識という武器で鬱憤を晴らすがごとく鈴木を殴っていた。
滑稽だった。そんな様子を、禎一はじっと見守っていた。
「おい、三堂? どうした? 何黙ってんだ?」
井上が小突いてくる。今まで一度も禎一のことを本当の名字で呼んだことなんてないくせに。どこまでも現金なやつだと思った。
けれど、禎一はそれでも黙っていた。
もっと危険な人を、禎一は知っていた。
「え、なに? まさか、鈴木の言ってることが本当だとか言わないよね?」
安藤でも井上でもなく、鈴木を取り巻いていた女子生徒の一人が尋ねた。
その言葉を皮切りに、クラスメイトの視線が一斉に禎一へ向いた。すぐ隣にいた安藤が、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
流れがまた、変わりかけていた。
もしここで禎一が肯定すれば、一気に場は混乱するだろう。
そこで禎一が漆原から聞いたことを話せば、追及先は鈴木から漆原に変わる。裏取りには時間がかかるが、漆原がタレコんだらしい動画配信者はわかっているし、なにより禎一のスマホには漆原との最初の会話を録音した音源が残っている。自分の性的マイノリティのカミングアウトを痛み分けに漆原を糾弾し、先ほど自分を脅した仕返しとばかりに脅し返してきた漆原の報復から身を守ることができる。
また、禎一は漆原の言葉を思い出した。
――変でもいいじゃないか。
しかも結局。あの時の言葉の真意を問うても、彼は、漆原は、無言だったのだ。だからこそ……
「はあー……もうどうでもいいよ。やめなよ」
禎一は努めて苛立たし気に、億劫な様子で吐き捨てた。
「いじめは、良くないと思う」
しんと静まり返った教室に、禎一の声だけが響いた。
「僕は、いじめられたことがあるから、わかるけど、結構きついし、しんどい。だから、やめなよ」
「は?」
安藤が素っ頓狂な声で聞き返してきた。心臓がバクバクと音を立て、急ピッチで全身に血液を送っている。
「あと、僕はゲイ……同性愛者ではないし、漆原先生のこともなんとも思っていないよ。適当なことを、言わないでほしい」
安藤の訝し気な視線を無視し、今度は鈴木を見て言った。禎一の言葉に、鈴木はポカンと口を開けて呆けている。
「僕が言いたいのは、それだけ」
短い言葉ながら、禎一はつっかえつつもどうにか言い切った。手には汗がにじみ、口の中はカラカラに渇いていた。
誰もが呆気にとられて、禎一を眺めていた。
やってしまったかなと、禎一は内心で自嘲した。
でも、不思議と悔いはなかった。
漆原が口先だけであれらの言葉を言ったのなら、自分は口先だけじゃなく体現してみようと思った。
変でもいい。
どうせ社会は狂っている。
うまくやれる範囲で、分かり合える範囲で、自分なりにやっていく。
そのために、禎一はとりあえず言いたいことを自分なりの言葉で言ってみようと思った。
その結果が、これだった。
気まずい沈黙が流れていた。
進む方向を見失った船がその場でくるくると迷うように、教室には「え、これどうするの?」みたいな空気が漂っている。
やっぱり僕が、でしゃばるべきじゃなかったかな。
禎一が鈴木を見下ろしたまま呆然としているところへ、別の声が響いた。
「あたしも、良くないと思う」
普段、全く喋ることのない女子生徒が、廊下側の席からこちらを見ていた。
その顔を禎一は見やって、ハッとした。
目元が、カフェで見たスーツを着た男性とそっくりだった。
「うん、だよね。うちもトミちゃんに賛成。この空気、嫌いだし」
「てかさ、鈴木ばっか責めてるけど、安藤と井上もなんかやってそうだよね」
「あ、そういえば俺、土曜日に駅前でケンカしてる三人見たな」
「え、なにそれ。詳しく聞かせろよ」
禎一が水面に投下した石はひとつの波紋を呼び、「トミちゃん」と呼ばれた女子生徒の声でさらに広がっていった。取り残された鈴木たちは、もはや逆らう気力もなくただ項垂れていた。
ガヤガヤと様々な憶測が教室に飛び交い始めた頃、予鈴とともに前方のドアが開いた。
「騒ぐな〜席に座れ〜。チャイム鳴ってんぞー」
いつも通り爽やかに微笑み、声をかける漆原だった。
目が合う。
またそこで、禎一は驚き息を呑んだ。
あんな言い合いをして別れたのに、漆原の視線はこれまでに見たことがないほど、穏やかで柔らかかった。
「おーい三堂、立ってないで座れ〜」
「あ、はい」
しかしそれも、すぐに戻る。
禎一は自席につくと、女子生徒の方を見た。その口元は、心なしか緩んでいるように見えた。
それからもう一度、漆原に視線を移す。
今度は目が合わなかった。
意識的に逸らされている気がした。
もしかして、全て、わざと……?
別れ際の揺れる瞳が思い起こされた。
どこまでが彼の画策で、どこに彼の本音があったのか。
漆原の心は、まだ見えなかった。
でも不思議と、嫌な感じではなかった。
「え、なにこの騒ぎ。どうしたの?」
「これこれ。鈴木のやつ、水族館で女の子盗撮してたって炎上してるの」
しかもそこに後から登校してきた生徒も加わって、話がどんどん広がっているようだ。見れば、最初に教室に来た時と比べて鈴木を取り囲んでいる生徒が倍くらいになっている。
「マジなの?」
「なんか先週も載っけてる。ほらこれ。カフェで不倫だか浮気だかの言い合いしてるカップルの隠し撮り投稿。しかも実況付き」
「うわぁ。プライベート侵害じゃん、それ」
「それで今回はこれ。遠目で実際は何撮ってるかわかんないけど、客席にスマホ向けてる。このYotuber曰く、セクシーな女の子らしい」
「え、気持ち悪。あれ、でもイルカにスマホとられてるじゃん」
「そうなの。マジウケるよね」
せせら笑う声がすぐ傍で聞こえた。概ね漆原の言った通りの展開になっていた。そういえば、カフェで難癖をつけていた女性もセクシーな格好をしていたっけ。もしそうした細かいところにも漆原の思惑が絡んでいるのだとしたら、恐ろしいことこの上ない。
「あ、来た来た」
するとそこへ、待ってましたとばかりに安藤が禎一に気づいて近づいてきた。その顔には、これまで禎一に向けていたのとは性質の違う笑みが浮かべられていた。
「なんとなくわかってると思うけど、こいつ、盗撮してるのがバレて炎上してんだ。過去にはいじめとかの写真も投稿しててマジでゴミだよな。んでさ、こいつ追い込まれたらお前の悪口とか言ってんの。何か言ってやれよ」
安藤が肩を組んできた。
そこで、なるほどなと思った。
安藤の笑顔は、卑しさに満ちていた。つまるところ、弱りに弱っている鈴木に復讐するチャンスだと言いたいのだろう。そして、これまで貶してきた相手から逆に貶されるという屈辱を鈴木に与えて面白がろうという魂胆なんだろう。
「悪口じゃねえ、事実じゃねえか! こいつはゲイで、担任の漆原と付き合ってんだよ!」
「だーかーらー、証拠を見せろって。苦し紛れで話の矛先を逸らそうったって誰もお前の話なんか聞かねーよ」
「んだとてめえ! お前らだって知ってるくせによ!」
鈴木は爆発寸前だった。顔を真っ赤にして、今にも安藤に殴りかかろうとしている。
「……とまあ、こんな感じなわけ」
安藤はやれやれと肩をすくめた。その隣では井上がニヤニヤと口の端を吊り上げている。それから、共通の敵は味方とでも言いたげに、「ほら」と禎一の背中を押して促してきた。
禎一は鈴木を見やった。
つい今朝まで感じていた恐怖は、微塵もなくなっていた。
「何見てんだよ、この変態野郎が……そうだ! お前のスマホを見せろよ! そこにはたくさん証拠があるはずだからな!」
何言ってんだこいつ、と思った。そんなの見せるわけがない。とことん追い込まれて、どうやら頭がおかしくなっているらしい。
鈴木が禎一に掴みかかろうとしたのを、安藤が押しやった。今まで見たことのない光景が、そこには広がっていた。
「人のスマホを強引にとるとか、さらに最低だなお前。強盗だぞ、強盗。立派な犯罪だ」
「るせーな! 今まで散々俺に引っ付いてきたくせによ!」
「お前がそんなやつだとは思ってなかったんだよ。友達だと思ってたのに、マジで裏切られた気分だわ。どうしてくれんの?」
言い合いがまた加熱する。禎一にとっては、どちらも自分をいじめてきた奴らだ。そんな彼らが仲違いをして、まだ矛先が向いていない安藤と井上がクラスメイトを扇動し、良識という武器で鬱憤を晴らすがごとく鈴木を殴っていた。
滑稽だった。そんな様子を、禎一はじっと見守っていた。
「おい、三堂? どうした? 何黙ってんだ?」
井上が小突いてくる。今まで一度も禎一のことを本当の名字で呼んだことなんてないくせに。どこまでも現金なやつだと思った。
けれど、禎一はそれでも黙っていた。
もっと危険な人を、禎一は知っていた。
「え、なに? まさか、鈴木の言ってることが本当だとか言わないよね?」
安藤でも井上でもなく、鈴木を取り巻いていた女子生徒の一人が尋ねた。
その言葉を皮切りに、クラスメイトの視線が一斉に禎一へ向いた。すぐ隣にいた安藤が、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
流れがまた、変わりかけていた。
もしここで禎一が肯定すれば、一気に場は混乱するだろう。
そこで禎一が漆原から聞いたことを話せば、追及先は鈴木から漆原に変わる。裏取りには時間がかかるが、漆原がタレコんだらしい動画配信者はわかっているし、なにより禎一のスマホには漆原との最初の会話を録音した音源が残っている。自分の性的マイノリティのカミングアウトを痛み分けに漆原を糾弾し、先ほど自分を脅した仕返しとばかりに脅し返してきた漆原の報復から身を守ることができる。
また、禎一は漆原の言葉を思い出した。
――変でもいいじゃないか。
しかも結局。あの時の言葉の真意を問うても、彼は、漆原は、無言だったのだ。だからこそ……
「はあー……もうどうでもいいよ。やめなよ」
禎一は努めて苛立たし気に、億劫な様子で吐き捨てた。
「いじめは、良くないと思う」
しんと静まり返った教室に、禎一の声だけが響いた。
「僕は、いじめられたことがあるから、わかるけど、結構きついし、しんどい。だから、やめなよ」
「は?」
安藤が素っ頓狂な声で聞き返してきた。心臓がバクバクと音を立て、急ピッチで全身に血液を送っている。
「あと、僕はゲイ……同性愛者ではないし、漆原先生のこともなんとも思っていないよ。適当なことを、言わないでほしい」
安藤の訝し気な視線を無視し、今度は鈴木を見て言った。禎一の言葉に、鈴木はポカンと口を開けて呆けている。
「僕が言いたいのは、それだけ」
短い言葉ながら、禎一はつっかえつつもどうにか言い切った。手には汗がにじみ、口の中はカラカラに渇いていた。
誰もが呆気にとられて、禎一を眺めていた。
やってしまったかなと、禎一は内心で自嘲した。
でも、不思議と悔いはなかった。
漆原が口先だけであれらの言葉を言ったのなら、自分は口先だけじゃなく体現してみようと思った。
変でもいい。
どうせ社会は狂っている。
うまくやれる範囲で、分かり合える範囲で、自分なりにやっていく。
そのために、禎一はとりあえず言いたいことを自分なりの言葉で言ってみようと思った。
その結果が、これだった。
気まずい沈黙が流れていた。
進む方向を見失った船がその場でくるくると迷うように、教室には「え、これどうするの?」みたいな空気が漂っている。
やっぱり僕が、でしゃばるべきじゃなかったかな。
禎一が鈴木を見下ろしたまま呆然としているところへ、別の声が響いた。
「あたしも、良くないと思う」
普段、全く喋ることのない女子生徒が、廊下側の席からこちらを見ていた。
その顔を禎一は見やって、ハッとした。
目元が、カフェで見たスーツを着た男性とそっくりだった。
「うん、だよね。うちもトミちゃんに賛成。この空気、嫌いだし」
「てかさ、鈴木ばっか責めてるけど、安藤と井上もなんかやってそうだよね」
「あ、そういえば俺、土曜日に駅前でケンカしてる三人見たな」
「え、なにそれ。詳しく聞かせろよ」
禎一が水面に投下した石はひとつの波紋を呼び、「トミちゃん」と呼ばれた女子生徒の声でさらに広がっていった。取り残された鈴木たちは、もはや逆らう気力もなくただ項垂れていた。
ガヤガヤと様々な憶測が教室に飛び交い始めた頃、予鈴とともに前方のドアが開いた。
「騒ぐな〜席に座れ〜。チャイム鳴ってんぞー」
いつも通り爽やかに微笑み、声をかける漆原だった。
目が合う。
またそこで、禎一は驚き息を呑んだ。
あんな言い合いをして別れたのに、漆原の視線はこれまでに見たことがないほど、穏やかで柔らかかった。
「おーい三堂、立ってないで座れ〜」
「あ、はい」
しかしそれも、すぐに戻る。
禎一は自席につくと、女子生徒の方を見た。その口元は、心なしか緩んでいるように見えた。
それからもう一度、漆原に視線を移す。
今度は目が合わなかった。
意識的に逸らされている気がした。
もしかして、全て、わざと……?
別れ際の揺れる瞳が思い起こされた。
どこまでが彼の画策で、どこに彼の本音があったのか。
漆原の心は、まだ見えなかった。
でも不思議と、嫌な感じではなかった。



