反面教師

 禎一は走っていた。
 すれ違った名前も知らない先生に注意される。すぐに「すみません」と謝った。けれど、舌打ちをされた。その先生は、先週職員室で禎一に話しかけてきた先生だった。
 ただ、それも仕方ないと思った。
 なぜなら、禎一は足を止めることができなかったから。

「っ、漆原先生!」

 どうにか辿り着いた職員室で、禎一はここ最近で一番大きな声をあげた。
 当然、中にいた全教師が禎一の方へ視線を向け、それから自分の席でコーヒーを美味そうに飲んでいる漆原を見た。

「なんだー、三堂。朝から騒々しいぞー」

 どこか間の抜けた声を発して、漆原は立ち上がる。それだけで一瞬緊迫しかけた空気が弛緩していく。
中には何かただ事でない雰囲気を察した先生もいたみたいだったが、呼ばれた漆原が向かったことで、遅れつつも自身の業務へと戻っていった。
 結局、禎一のそばに来た教師は漆原ただ独りだった。

「ここじゃなんだし、相談ルームに行くか?」
「いえ、教室に行きましょう」

 相変わらずのんびりとした口調でされた提案に、禎一は首を横に振る。わかっているくせに、と思った。
 少しは渋るかと思ったが、意外にも漆原は素直に応じた。

「ちなみに、急いでくれますか?」
「いや、ゆっくりいこう」

 もっとも、追加でした要求には拒否の意を示したが。
 仕方なく、禎一は漆原の横に並んでから訊いた。

「先生。いったい、何をしたんですか?」
「ん〜なんのことだ?」
「とぼけないでください。教室で、鈴木が大変なことになってるんです」

 声を抑えて言うと、漆原は「だろうな」とからから笑った。

「先生、昨日何かしたんですよね? じゃないと、説明がつかない」
「さてな。仮に僕が何かしていたとして、君にはプラスこそあれマイナスはないんだから別にいいだろう?」

 細められた鋭利な眼差しが禎一を見下ろす。そこには、いつもの柔和な笑顔を浮かべる担任の姿は一ミリもなかった。
 禎一は冷や汗が噴き上がるのを感じつつも口を開く。

「……で、でも! もしかしたら、それでまた鬱憤が溜まって、矛先が僕に向くことだって」
「それはない」

 漆原は言い切った。

「君も実感していると思うが、社会的な動物である人間は所属している集団から敵視された状態が一番ストレスが溜まるんだ。生活のメインとしている集団なら尚更にな。そんな状態にある彼が、君に構っている余裕はない」
「そ、それは……」

 禎一は言葉に詰まる。
 方や、漆原はすれ違った女子生徒に手を振られ、笑顔で手を振り返していた。

「ああ、ちなみに他の二人についても心配しなくていい。ほぼ間違いなく、じきに孤立するから」
「……っ、先生!」

 冷たく言い放った漆原の腕を掴み、禎一はたまたま近くにあった理科室に押し込んだ。すぐさま後ろ手にドアを閉めると、誰も入ってこれないように鍵をかける。

「おや、積極的だね。今度こそキスでもするつもりかい?」
「漆原先生、何をしたのか教えてください」

 おどける漆原を禎一は真正面から見据えた。

「教えてくれないなら、僕は先生との関係を他の先生に言います」
「……へえ。僕を脅すの?」

 漆原の瞳に暗い光が宿った。禎一は狼に睨まれた羊のように怯むも、丹田に力を入れてグッと堪える。

「こうでもしないと、今の先生は教えてくれないでしょ?」
「なるほどね。もっともだな」

 漆原は薄く口元を歪めると、そのまま教壇の上に登った。
 
「いいよ、教えてあげる。初めてだよ。僕が生物以外の授業を生徒にするのは」

 感情のこもってない声が理科室に響いた。禎一はごくりと生唾を飲み込んで漆原を見る。

「それで、僕が彼らに何をしたか、だったね。簡単なことだよ。僕は彼らをSNSで意図的に炎上させ、集団から爪弾きにされるよう仕向けたんだ」
「え?」

 想像だにしていない回答に、禎一は思わず目を瞬かせた。

「順を追って説明してあげる。まず、先週君はいきなり僕のところにやってきて告白をした。君の恋愛指向はともかくとして、君の性格上明らかに不自然な行動だった。そして、元から君が鈴木や安藤、井上たちから嫌がらせをされているのには気づいていたからね。それがエスカレートしたんだろうなと思ったよ」

 知っていたのかよ、と禎一は思った。担任のくせして見て見ぬふりとか最悪すぎる。
 けれど、漆原はそんなことは些事だとばかりに肩をすくめる。

「そして土曜日もそうだ。一昨日、君は僕と別れた後、すぐに電話をしてきて埋め合わせの要求をしたよね。あれも違和感しかない。おおかた、急かされるか脅されるかしたんだろう。となると、僕にとっても不利なことがあるのは目に見えていた。具体的には、土曜のカフェの時みたいに動画を撮られたりとかね」
「そ、れは……」
「だから、僕は僕の信条に従って手を打つことにした。他人を陥れるなら、陥れられる側の気持ちも知っておいてもらわないとね。本当の意味で」

 ひときわ低く発せられた最後の言葉に、ある座右の銘が禎一の脳裏に浮かんだ。
 体で以て識れ。
 漆原の目が、またひとつ細くなる。

「事前準備はひとつだけ。ちょっと落ちぶれてきている迷惑系や企画系の動画配信者にタレコミを行うんだ。あいつらは他人に難癖をつける天才だからね。炎上の着火剤にはちょうどいいんだ。それと中身は時間通りに意図した場所に来てくれるならなんだっていい。大切なのは、そこで起こった出来事を動画に撮って配信してもらうことだからね」
「そこで起こった、出来事?」
「そうだ。具体的に言えば、昨日ちょっとした騒ぎがあっただろう? あれは、鈴木たちのスマホがイルカの水槽に落ちてしまったんだよ」
「え……?」

 どういう、ことだ?

「正確にはイルカに落とされたと言った方がいいかな? まあ、焦っていたんだろうね。僕が君を外に連れ出して人混みの中に消えたと思ったら、いきなり『チャンスだ』なんてメッセージが来たんだから。動画が撮りやすい最前列に躍り出て、所構わず多くの人の方へ熱心にスマホを向けるくらいには。そして、イルカがスマホやタブレットといったキラキラした反射性のあるものを、餌か何かと間違えて海中に引きずりこむ事故がよくあるなんてことも知らずにね。まったく、不用心なものだよ。まるで喜劇だ」

 ひと息に言うと、漆原はやれやれと首を横に振った。
 禎一は呆気にとられていた。
 そこまで上手くいくものなのかと思った。
 しかし、現実に事は漆原の思惑通り運んだ。

「あとは説明するまでもないかな。タレコミを信じてやってきた配信者にこの喜劇を配信してもらい、モラルのない視聴者とあわせて根も葉もない憶測を生ませ、どこの誰かを特定させる。特に鈴木は過去にいじめを彷彿とさせるような写真や動画をSNSにアップしてたから、炎上のための燃料は充分だった。実に簡単だったね。彼のスマホは海水を含んで完全に御陀仏だから過去の投稿を消すことも否定することもすぐにはできない。ついでに安藤や井上のスマホも落ちて僕の弱みのデータは軒並み消えただろうし、前に鈴木たちのスマホを校則違反で取り上げた時に確認した限りではクラウドとの同期はしてないっぽかったからそっちの工作は不要だろうし、まあ他にもいろいろと細かいところはあるけど、ひとまず目的達成ってわけだ」
「先生は、どこまで……」

 恐怖を覚えた。
 そしてふと、土曜日の出来事が思い出された。

「まさか、あのカフェの騒動も先生が?」
「へえ、君は本当にすごいね。ご名答だ。あれはとある生徒から父親の浮気について相談を受けたから起こしたんだ。ちなみに、ここでは彼らに配信者の役割を担ってもらったよ。ホント、最近の若い子は何でもすぐSNSにあげるんだから。まあ彼ら程度の投稿だとたかが知れてるけど、盗撮疑惑を立てる種蒔きも兼ねてたしちょうどいいかなって」

 くつくつと漆原が笑う。
 不気味だった。
 確かに口元は笑っているのに、目はまったく笑っていない。
 禎一は自分が何か足を踏み入れてはいけない場所に入ってしまったような錯覚を起こした。

「さて」

 そこで、漆原はパンと手を合わせた。小気味良い音が響く。

「僕から言えることは以上だ。今度は君の番だ」
「え?」
「君は僕を脅した。僕の信条は知っているだろう? 脅すなら、脅される側の気持ちを知っておいてもらいたいんだ。そしてお察しの通り、僕は少しばかり『ヤバい教師』なんだ。僕は君にも、何をするかわからない。これらを踏まえて、君はどうするんだい?」

 唐突に訊かれ、禎一は戸惑う。その間に、漆原は教壇を降りた。

「ああちなみに、まだ彼らにはその身で嫌というほど陥れられる側の気持ちを味わい、学んでもらわないといけない。いじめに発展することもあるだろうが、彼らはいじめをしていた側だし、僕の信条的にはむしろ願ったり叶ったりだ。その意味でも、僕がこの事態を止めることはまだない。どうする? 君は僕を糾弾するかい? 他の先生に突き出すかい? 僕も他人を陥れるからには、陥れられる覚悟を持っている。僕の計画のいくつかには隙を設けているし、なにより君の告白を受けたのも、ひとつにはそれが理由だ」

 コツコツと靴音が近づいてくる。

「さて、君はどうする?」

 靴音が目の前で止まった。
 視線を上げられなかった。
 漆原のやっていることは禎一の想像を遥かに超えていた。

「僕、は……」

 俯いたまま考える。考える考える考える。
 けれど、そこで浮かんだのはひとつの答えではなく、いくつかの言葉だった。

「……ひとつ、訊いてもいいですか?」
「どうぞ」

 許可を与えられ、禎一はふっと息を吐いてから、言った。

「変でもいいじゃないか。一昨日、先生はそう言ってくれました。ほかにも、僕にとって大切な言葉をくれました。あれは全部、嘘だったんですか?」

 ――男で生徒だから、という理由だけで頭から断るのは僕の性分じゃないんだ。

 ――変だから、なんだ?

 ――その普通とやらを形作っている社会もまた、かなり変だぞ。

 ――矛盾だらけで、狂ってる。

 ――そんな社会に生きてるんだから、多少変でもいいじゃないか。

 ――うまくやれる範囲で、分かり合える範囲でやっていけばいいんだよ。

 ――ダメなら逃げる。

 ――それでいいじゃないか。
 
「あの時、僕は先生を騙していました。でも今の話を聞く限り、先生はそれも分かった上で僕と付き合ったんですよね? そしてあの言葉をくれたんですよね? でもそれらは全て事前準備とやらの一環で、欠片ほども思っていない口先だけの言葉だったんですか?」

 禎一は漆原の言葉に救われていた。漆原の言葉は、禎一の心に残っていた。
 明確な行動には移せなかったけど、鈴木たちに抵抗しようと何度も思えるようになった。水族館でのキスだって、どうにか堪えた。
 でもあれが全部、嘘だったとしたら……。
 禎一は逸らしていた視線を上げ、漆原の目を見据えた。

「…………」

 漆原は、答えなかった。
 黒い瞳が揺れていた。
 何か迷っているようにも思えた。
 けれど漆原は結局、小さく肩をすくめるだけだった。

「……わかりました」

 禎一はもう一度、肺に溜まった不快な空気を吐き出した。そして、新鮮な空気をいっぱいに取り込む。

「先生、別れましょう。僕は、先生みたいにはなりません」
「ああ、それがいいね」

 禎一の言葉に、漆原は深く頷いた。そんなところで頷いてほしくないと、禎一は思った。

「……僕は教室に戻ります。僕にできることを、やります」

 漆原からの返事を待たずに、禎一は理科室の鍵を開けて、駆け出した。