「やあ、昨日ぶりだね」

 翌日。待ち合わせ場所に行くと、漆原が先に来ていた。

「すみません。お待たせしました」
「んーん、僕も今来たとこだから大丈夫だよ」

 まるで恋人同士のようなやりとりに、禎一は思わず苦笑する。いや、今は一応、恋人同士だったか。
 どことなく恥ずかしくなり目を彷徨わせていると、漆原は肩に提げたバッグから白い布のようなものを取り出した。

「これは?」
「生物部の活動腕章。これを付けてればほぼ無敵だ」

 手渡されたそれを広げると、白ナイロンに「生物部」とマジックで書かれていた。
 なるほど。制服にこのワッペンをしていれば何かしらの学校関係活動だと周りに思わせられるってことか。

「なんか、ダサくないですか?」
「ダサいのがいいんだ。いかにも学校関係です、って感じになるだろ。そして僕はこの適当に紙を綴ったファイルをそれっぽく手に持って、堂々としていれば完璧だ」
「昨日の今日なのに、用意周到ですね」
「半日あれば、このくらいは当然だ」

 漆原は得意げに笑う。
 実際、この急ごしらえのカモフラージュでどこまで周囲の目を欺けるのかは定かではない。ただ、禎一と漆原はどちらも男ということもあり、二人で並んで歩いていたとしても怪訝な視線を向けてくる人は少ないだろう。このワッペンやお飾りファイル程度で適当な理由を勝手に捏造してくれるくらいには、人はそこまで他人に関心はない。
 しかし、そうした努力も今日の禎一が漆原に対してやろうとしていることを考慮に入れれば、話は変わってくるのだが。

「さて、行こうか」

 昨日カフェを出たのと同じ言葉で、漆原は先だって歩き始めた。奇しくも時を同じくして、禎一のスマホ画面に昨日と同じく「動画を撮っている」旨の連絡が来た。
 胸の辺りがじくじくと痛んだ。
 けれど、ここまで来たら後には引けない。漆原にこっそりチクろうにも、既に弱みは握られているのだ。
 行くしか、ない。
 禎一は散々に迷ってから、振り返る漆原に呼応して後を追った。
 漆原と禎一はすぐ近くにある駅構内に入ると、そのまま改札を通って環状線の電車に乗った。
 禎一はいつも徒歩通学で、電車に乗るのはそれこそ家族で遠出をする時くらいだった。高校で鈴木たちにいじめられるようになってからは少ない友達とも完全に疎遠になってしまい、遊びで使うのはかなり久々だった。
 とりとめのない学校の話や、また話が脱線した漆原コラムを聞き流していると、電車はあっという間に目的地に着いた。水族館までは、そこから数分歩けばすぐだ。

「おぉ、ここが」

 水族館に着くや、禎一は感嘆の声を漏らした。
 まず目を引くのは、水泡が流れていくアーチ状のゲートに、イルカや海の魚の群れを模したオブジェだ。県内でもそこそこ有名な水族館らしく、ゲートやオブジェの下では家族連れやカップルが写真撮影をしている。遠目に見える館内も賑わっており、いかにも日曜日らしい様相を呈していた。
 周囲をせわしなく見回している禎一に、漆原は小さく肩をすくめた。

「水族館に来るのは初めてか?」
「は、はい、恥ずかしながら」
「じゃあ今日は僕がいろいろと海の生物についてレクチャーしてやろう」

 意気揚々と入場チケット売り場に歩いていく漆原。自分も他人のことを言えないじゃないかと、禎一は心中で呆れた。
 それからしばらくして漆原が買ってきたチケットを受け取り、列に並んで中に入ると、そこはまるで海の中だった。

「わぁ……」

 また禎一の口からため息が漏れる。
 薄暗い館内は右にも左にも水槽があり、その中を優雅に魚が泳いでいた。大きな一匹の魚が単独で泳いでいるものもあれば、群れを形成しているものもある。青一色ながら鮮やかな光景が広がる視界の見事さに、禎一は本来の目的を見失いそうになった。

「ここは海水魚のエリアだな。おっ、見てみろ。あそこの水槽にはサメがいるな」
「うわぁ。なんていうか、歯がグロテスクですね」
「海のハンターだからな。血の匂いに敏感で、百万倍に薄めても感知できるんだ」
「百万倍ですか。すごいですね」
「ああ、まったくだ。だがサメは嗅覚よりも聴覚の方が優れている。なんでも数キロ先の音を感じ取れるらしいぞ」
「へえ」

 いつもの漆原節が隣で響く。
 目を向ければ、思いのほか近くにいてドキリと心臓が跳ねた。
 今ならいけるかも。
 早速訪れた好機に、禎一は唾を飲む。授業の時もそうだが、漆原は自分の世界に入ると周りが見えなくなる。この時に、不意をついて唇を奪うことは決して難しくない。
 ……でも、したくない。
 禎一はこっそりと首を横に振った。ここはまだ入り口付近だ。鈴木たちが入って来ているのかも定かではない。焦ることはないと、禎一は無理やり自分を納得させ視線を水槽に戻した。
 順路通り先に進み、クラゲやクリオネ、近くの海域に生息している雑多な魚たちの水槽と見ていく。その間に、スマホの通知欄に鈴木たちから催促のメッセージが何度も表示された。あれやこれやと魚について教えてくれる漆原の声が、どんどんと意識の外に追いやられていく。

「ここは回遊魚が泳いでいるらしいぞ。有名なところで言えば、常に泳いでないと死んでしまうカツオやマグロがいるな」
「そうですね」
 
 禎一はまた、横に目を向ける。
 あれほど入念に生物部の部活動としての名目を整えていたのに、漆原の表情はとても顧問とは思えないほど嬉々としていた。
 思わず唇に視線が移る。
 いけそうだと、やはり思った。
 ズボンの後ろポケットに入れたスマホが振動する。見るまでもなく催促か脅迫だろう。
 けれど、ここで禎一が漆原にキスをしてしまえば、間違いなく漆原は教師としての職を失う。そんなことは望んでいないのに。禎一はそれ以上漆原を見ていられず、ギュッと瞼を閉じた。
 その時だった。
 不意に、禎一の唇に微かな感触があった。
 え……と禎一は驚愕する。
 そんな、まさかと、戦慄した。
 おそるおそる目を開けると……唇には人差し指が添えられ、すぐ真横に、漆原の顔があった。

「君にひとつ訊く。君は、陥れる側か?」

 ぞっとするほど感情のない声だった。一気に鳥肌が立つ。

「もしくは、陥れられた側か?」
 
 横目に見やると、漆原と目が合った。
 深く濃い、鋭利な黒曜石のような瞳が、禎一をとらえる。
 心臓を鷲掴みにされたような幻覚があった。一瞬、息をするのも忘れてたじろぐ。
 全て知られている、と直感的に思った。
 ここで隠しても、いや、そもそも隠すこと自体が無意味なのだと禎一は悟った。

「ぼく、は……」

 ただ、自分はどちら側なのだろうか。
 鈴木たちにコンプレックスの暴露を人質に脅されているという意味では陥れられている側だ。
 けれど、漆原に噓告白をして、真実を伝えることなく付き合ったという意味では陥れている側になる。
 禎一は答えられなかった。
 冷や汗が服の中を流れていく。
 多くの人が泳ぐ魚に夢中になり、すぐ近くで喧騒を生み出しているというのに、それらの音はどこか遠くに感じられた。
 沈黙が流れる。
 視界の端で、イワシの群れがくるりと方向を変えた。

「体で以て識れ」

 そこへ唐突に、漆原が自身の座右の銘を放り込んできた。禎一は唖然とする。

「え、と……」
「わかっているなら、それでいい」

 漆原はそれだけ言うと、徐に身体を引いていく。

「人は誰しも、どちら側にもなる可能性がある。望むと望まないとにかかわらずだ。そのことを、彼らにも教えてやらないといけないよな」

 いつの間にか、漆原の表情は柔らかさを取り戻していた。
 しかし、声の低さだけは変わっていない。

「なあ、あっちでイルカを間近に見られるらしいぞ。行ってみよう」

 と思いきや、漆原は途端に声を弾ませて先を指差す。
 そして、先ほどまで笑っていた表情を消していた。
 禎一はその薄気味悪さに恐怖を覚え、何も言えずに漆原の後に続く。
 ポケットでは、スマホが振動していた。
 けれど、気にしている余裕はなかった。
 漆原に引かれるがまま外に出ると、明るい陽の光が周囲に溢れた。少し離れたところには人混みができており、その奥にはちらりとイルカのヒレらしきものが見える。

「さっきまでイルカショーをしていて、今はふれあいタイムらしい。前の方まで行ってみようか」
「あの、先生?」
「いいからいいから」

 有無を言わさない強引さに抗えず、禎一は漆原と一緒に人混みの中に入っていく。かなりごった返しているはずなのに、なぜかするすると最前列まで出ることができた。すぐ目の前には腰高さ程度の水槽があり、つぶらな瞳が可愛らしいイルカが数匹、こちらを一心に見つめている。

「ほら、三堂。今がイルカを撫でるチャンスだよ。彼らにも、チャンスだと教えてあげるといい」 
「え?」
「ほら」

 今度はトーンの落ちた声で、漆原は何かを差し出してきた。
 禎一の、スマホだった。

ほら(・・)チャンスだ(・・・・)

 考える余裕はなかった。
 無感情な眼差しに促されるがまま、禎一は通知欄に溜まっていたメッセージをスワイプし、アプリを開く。
 中身を確認する前に、もう一度ささやかれた言葉をそのまま送った。

 >>チャンスだ

 その、数秒後だった。
 いくつかの悲鳴とどよめきが、人混みの端から湧いた。
 その直後には大きな水音が数回鳴り、さらには怒号が響いた。続いて、水族館スタッフの気遣う声が聞こえてくる。
 なんだ? 何が起こった?
 状況を確認しようにも、禎一が今いる場所からは人が多過ぎて見ることができない。

「よし、どうやら撫でられたみたいだな」
「え?」

 すました声とともに腕を引っ張られ、禎一は人混みから抜け出した。いや正確には、抜け出させられた。

「さっ、帰ろうか。埋め合わせとしては、充分だろう?」

 イルカの水槽の横で、漆原は柔らかく笑った。
 昨日、帰りがけに見た笑顔に似ていた。

「……はい」

 禎一には、断る気力も言葉も持ち合わせていなかった。
 帰ったら、きっとまた鈴木たちから罵詈雑言を浴びせられるだろうなと思った。
 しかし、予想外にもスマホは夜になっても静かなままだった。
 鈴木はおろか、井上や安藤からもメッセージはなかった。
 普段は鈴木たちからの罵声が脳内に反響し、なかなか寝付けない禎一だったが、メッセージが来ないなら来ないで不安に苛まれ、まんじりともせずに朝を迎えた。
 もしかしたら、完全にブチ切れてクラス中に禎一のことを触れ回っているのかもしれない。
 そんな答えに行き着き、内心で震えながら登校した翌日の教室で――禎一は言葉を失った。

「あんた、ほんとキモいよ。盗撮とかサイテーだかんね」
「燃えてたやつ見た? 中学の時はかなり陰湿ないじめもしてたんだってさ」
「うわー人間のクズじゃん」
「まあ俺は元々気に食わなかったし、どーでもいいけど」

 鈴木を取り囲むようにして、クラスメイトの非難の声が飛び交っていた。
 その先頭に立っていたのは、

「鈴木、お前みたいなやつとつるんでた俺らが馬鹿だった」
「それな。マジでいい迷惑だわ。反省しろよクソが」

 安藤と井上だった。