>>クソおい! なんなんだよ!

 帰宅し、ちょうど自室に入ったところで、それまで沈黙を貫いていたスマホが振動した。同時に、禎一の身体もびくりと跳ね上がる。

 >>ドーテーくんよ、てめえいつカフェから出ていったんだよ
 >>どさくさに紛れて逃げてんじゃねーよ
 >>クラス中にばらしてもいいんだぞ? お前のクソキモい性癖と、あのすかしたゲイ生物教師とのツーショットを投下してな
 >>いいね~それ。やっちゃう?
 >>どうなんだよ、ドーテー
 >>無視してんじゃねーよ

 先ほどまでの沈黙がまるで嵐の前の静けさを表しているかのように、スマホの画面には大量の罵詈雑言と誹謗中傷というメッセージの嵐が吹き荒れていた。
 禎一は早鐘を打つ胸の辺りを押さえつつ、震える指先でどうにか返信を打つ。

 >>ごめん! 先生に、行くぞって言われて!

 すぐに既読が三つついた。

 >>だったらそれを言えよ
 >>変態で無能とかマジで社会のゴミだな
 >>お前、この失態どうすんの?

 すぐに矢が飛んできた。
 無機質な文字の(やじり)は、深々と禎一の心に突き刺さり、癒えない毒となって蝕んでいく。
 何も返せなかった。
 目の前がぐらついた。
 うまく、空気が吸えなかった。
 返信欄で点滅するカーソルを放心状態で見つめていると、また吹き出しが画面に現れた。

 >>ドーテーくんさ、漆原とキスしてこいよ

 緑の背景に白色の文字で表示された文言に、禎一は息を呑んだ。
 キス? 漆原先生と?
 鈴木が投下したメッセージに、すぐさま井上と安藤が反応する。

 >>いいね~それ! 今度こそ写真か動画に収めてやろうぜ!
 >>俺も賛成! さすがに今日のあれだけじゃまだ弱いもんな!

 画面の向こう側で、ゲラゲラと下品な笑みを浮かべている三人の顔が思い起こされた。どんな価値観でも馬鹿にせず、ややズレた思考ながらも真面目に向き合ってくれた漆原とは、雲泥の差だった。
 どうしよう。
 禎一は悩んだ。
 先ほど、漆原の在り方を尊敬した。心の底から好ましく思えた。
 もしここで了承してしまえば、また自分は漆原を騙すことになってしまう。
 デートに誘って、無理やりキスをして、その場面を鈴木たちに撮らせて……。
 その先に待ち受けているであろう絵面まで想像したところで、最悪だと思った。真面目に向き合ってくれた漆原を裏切るなんて、したくなかった。

 >>言っとくけど、拒否権なんてねーからな
 >>今から約束とりつけろよ
 >>彼氏ならできんだろ?
 >>彼女かもしれんけどw
 >>ワロタ
 
 けれど、『でも僕は』まで打ったところで、話はまた勝手に進んでいった。

 >>わかった

 打ちかけた文字を消し、そう返すしかなかった。
 禎一は徐に電話アプリを起動すると、顧問の連絡先として教えてもらった「漆原先生」の名前をタップし、迷いつつも電話をかけた。

『もしもし?』

 漆原はワンコールの後すぐに出た。まるで恋人からの連絡を心待ちにしていたみたいじゃないかと、独り苦笑する。

「先生、今大丈夫ですか?」
『ああ、大丈夫だ。家にいるからな』
「えと、今日の埋め合わせのことなんですけど」

 そこまで言ってから、ハッとした。ほとんど流されるようにかけてしまったせいで、その先はまったく考えていなかった。当然、言葉に詰まる。
 数秒の沈黙が流れた。それを破ったのは、漆原の方からだった。

『もう決めるか? んーそうだなあ。ここは生物部らしく、水族館にでも行くか?』
「え?」

 思いがけない言葉に、禎一は驚いた。

『ちょうど部活動報告でレポートを書いてもらわないといけなくてさ。いつもは適当な幽霊部員捕まえて適当に書いてもらうんだけど、せっかくなら三堂に海の生物について観察して書いてもらおうかなって』

 スマホの向こう側で漆原の笑い声が聞こえる。実に楽しそうだ。

「まあ、それくらいは構いませんけど」
『よし、じゃあ決まりな。時間なんだが、来週からテストの準備やらで忙しくてさ。明日とかどうだ?』
「え、明日ですか?」

 また急だ。
 禎一は「少し待ってください」と一言入れると、スマホを耳から離してメッセージアプリを起動させる。また勝手に決めただなんだと鈴木たちから言われるのも嫌だったので、もたつきつつも禎一は漆原から明日水族館に行こうと言われた旨を報告した。

 >>最高じゃん
 >>空いてる空いてる
 >>わかったって言っとけ

 どうやら三人の機嫌は直ってきたらしい。禎一はホッと安堵の息をついてから、スマホをまた耳に当てがった。

「お待たせしました。大丈夫です」
『おーそうか。じゃあ今日と同じ時間に同じ場所で待ち合わせな。制服で来ることを忘れないようによろしくー』

 どこまでも呑気な声を響かせてそう言うと、漆原は通話を切った。
 また、裏切ってしまった。
 カフェで覚えていた充実感は、すっかり消え失せていた。