二人が向かったのは、待ち合わせ場所から少し歩いたところにある裏通りのカフェだった。
 レトロな雰囲気がオシャレで、店内には落ち着いたジャズのBGMが流れている。ほどほどに混んだ店内はまさに、土曜日のお昼過ぎといった空気が流れていた。
 禎一は一先ず同じ高校の生徒らしき人がいないのを確認してから、店員の案内に従って中ほどにあるテーブルについた。鈴木たちから事前に指示を受けた通り、出入り口が見える椅子には自分が座り、その真正面に漆原が座るようにした。これで、鈴木たちが入ってきても漆原に気づかれることはない。

「へえ、いい雰囲気のお店だね」

 漆原は上機嫌にメニューを開いては写真を撮り、店内の木組みに感心してはまたも写真に収めていた。その表情は実に楽し気で、普段教壇に立つ彼のイメージとは違い新鮮に感じられた。他の生徒に見られるとか、そうしたことを気にする素振りすらなく、実に堂々としていた。
 純粋な笑顔を浮かべる漆原に心を痛めつつも、禎一は努めて平静を装って口を開く。

「ここは、僕がたまに本を読みに来るカフェなんです」
「なるほどね。三堂は本が好きなのか。どんな本を読むの?」
「そうですね。わりと青春恋愛ものとか好きです。なんていうか、悩みつつも足掻いて成長していく主人公たちの物語を読んでいると、元気が出てくるんです」
「おお、いいねいいね。僕も昔はよく読んだよ。最近だとどんなのが流行ってるか教えてくれないか」
「いいですよ」

 それぞれが紅茶とコーヒーを注文したあと、禎一と漆原は趣味の話に花を咲かせた。特に二人はジャンルこそ違えど読書や映画が共通の趣味で、今やっている青春アクションものをちょうど見たばかりの者同士だとわかった時は話が盛り上がった。
 でも、話が盛り上がれば盛り上がるほど、漆原が楽しそうに笑えば笑うほど、禎一の心に漂う罪悪感の影は色濃くなっていった。
 そもそも生徒と教師で付き合っていること自体がダメなのだ。お互いのためにも今すぐにでも別れた方がいいのは確実だった。

「三堂、どうかしたか?」
「え?」

 悩んでいたのが表情に出ていたのか、運ばれてきたコーヒーをひと口飲んでから漆原が訊いてきた。
 いきなりの問いかけに戸惑い、禎一は咄嗟に以前脳裏に浮かんだ疑問を口にする。

「ええと、その……漆原先生は、どうして僕と付き合ってくれたんですか?」

 漆原は虚を突かれたように呆けた。

「これはまた突然だな」
「いや、だって……僕、男で生徒ですよ? 普通、疑問に思うでしょう」
「ふむ」

 漆原はもう一度コーヒーに口をつけた。美味しそうに飲んでいた先ほどとは違い、今度は何か考えをまとめるようにゆっくりと唇を濡らしている。

「三堂。僕の座右の銘はね、『(たい)で以て()れ』なんだ」
「はい?」

 いきなり何の話だ。

「意味は至って単純明快。実際に体感することで物事の本質を知るということだ。何事も経験してみないとわからない」

 お客様アンケート用のボールペンで、ナプキンの後ろに自身の座右の銘とやらを書きながら漆原は説明する。

「恋愛だってそうだ。その人が自分に合っているか否かなんて、付き合ってみないとわからない。僕は今フリーだし、男で生徒だから、という理由だけで頭から断るのは僕の性分じゃないんだ」
「だから、僕の告白を受けた、と?」
「そういうことだ」

 禎一はあんぐりと口を開けた。これはまた想像の斜め上の答えだった。

「そんなこと……信じられません」

 でも、禎一は首を横に振る。

「付き合ってみないとわからないというのは、前提として相手が恋愛対象になる可能性があって初めて成立します。普通の男の人は、女の人と付き合うのが前提にあります。教師だって、普通は相手が生徒だっていう考えが先にきて、付き合う付き合わないなんて発想にはそもそもならないと思います」

 頭の中に、鈴木の声が反響していた。
 自分のコンプレックスを揶揄する声。
 なにかと因縁をつけてくる声。
 馬鹿にするような笑い声。

 ――やっぱお前、ヤベェな。

 常識から外れた異端者だと、見下す声。

「もし先生が、本当にそんな性分だけで僕と付き合っているのなら……先生、めちゃくちゃ変だし、ヤバいですよ」

 歓談が周囲に満ちている中、力ない声が禎一の口から漏れた。
 言ってしまったと思った。
 鈴木たちに弄られて、ずっと胸の内に秘めていたからか。繰り返し思い出して、濃縮されてしまったからか。
 自分が言われて嫌だったことを、禎一は無意識のうちに口にしてしまっていた。しかも、長々と理由を添えてだ。
 漆原は何も言わない。
 気まずい空気が立ち込める。
 早く謝らないとと、禎一はすぐさま口を開いた。

「変だから、なんだ?」

 しかし、先に言葉を発したのは漆原だった。

「変でヤバいのは重々承知している。でもいいじゃないか。その普通とやらを形作っている社会もまた、かなり変だぞ。矛盾だらけで、狂ってる。そんな社会に生きてるんだから、多少変でもいいじゃないか」

 どこか言い聞かせるような、静かな口調で漆原は答える。禎一は呆気にとられていた。

「そ、そうかもしれませんが、簡単に割り切れることじゃ……」
「ああもちろん、そんな単純じゃないのもわかってる。だからうまくやれる範囲で、分かり合える範囲でやっていけばいいんだよ。ダメなら逃げる。それでいいじゃないか」
「それは、そうかもしれませんけど……」

 禎一が口籠ると、漆原は半分ほどに減ったブラックコーヒーにミルクを入れ、ゆっくりとかき混ぜた。その間に、禎一はもう一度思考をまとめる。

「えと、失礼ながら先生は、同性愛者だとか両性愛者とかではないんですよね?」
「んーさあな、わからないな。これまで恋人にしてきたのはみんな女性だったが、ただそれだけだ。男性ならどうだろうかと、考えたことはある」
「どう、とは?」
「……そのままの意味だ」

 漆原は小さく肩をすくめると、どこか自虐的な笑みを溢して残ったコーヒーをひと息に飲む。
 先生……?
 微かな疑問を投げかける前に、漆原はパンと手を合わせた。

「それに、だ。そもそも人間の性的指向なんてものも、一概に括れるものではないんだぞ? キンゼイも言っているだろう。人間の性的指向は連続体だと」
「へ?」

 ん? 先生?

「キンゼイの研究によれば、人間の性的指向はグラデーションになっていてな、なんでも」
「ちょちょちょ、待ってください。誰ですか、それは」

 あれ? なんだか話が変な方向に逸れてきた?

「なに、知らないのか。よし、若干分野は違うが、ここは高校生物担当兼生物部顧問の出番だな。まずキンゼイ・スケールから説明を――」
「お待たせしました~」

 いつも以上に饒舌な漆原コラムが始まろうとしていたところへ、タイミング良く店員が追加で注文したケーキを運んできた。
 助かった。
 禎一がホッとひと息ついている間に、漆原の興味はテーブルに置かれたベイクドチーズケーキへと移っていた。目を輝かせて写真を撮り、崩れないよう丁寧に切り分ける様はやはり、十歳以上離れている教師にはとても見えない。
 変でもいい、か。
 そんな漆原を見つめながら、禎一は小さく笑う。
 全く、考えたこともなかった。
 普通でいなければいけないと、ずっと思っていた。
 普通じゃない自分は集団の異物で、どこまでも罵られ、謗られて生きていかなければいけないのだと思っていた。

「まあでも、すぐには難しいかな……」
「ん? 何か言ったか?」
「ああ、いえ」

 それでも、漆原のように完全に割り切るのはまだ難しい。無邪気にケーキを頬張っているくせして、考えはしっかり大人なんだなと禎一は失礼にも尊敬していた。
 それに、やはりもしかしたら先生も……

「はーい、こちらお待たせしました~」

 そこへ、禎一が頼んだいちごタルトも運ばれてきた。
 自分も記念に、写真撮っておこうかな。
 アラサーの大人にしてははしゃいでいる漆原に触発されたのか、禎一の心も幾分か温かく盛り上がっていた。久しぶりに覚えたこの楽しさをもったいなく感じて、ふと浮かんだ感情だった。
 禎一はポカポカとした気持ちのまま、スマホを取り出した。

 >>おい、こっそり漆原の写真を撮れ

 けれど、そんな多幸感はバナー表示された鈴木からのメッセージですぐに霧散した。
 ……そうだった。自分には、このデートを楽しむ資格なんてない。
 漆原の言葉で忘れかけていた。禎一は漆原に嘘告白をし、騙しているのだ。
 胸のあたりが痛んだ。不思議と、嘘告白をして受け入れられた直後よりも、さらに痛んだ。
 無視しようか、と一瞬考える。でも、すぐに鈴木たちの威圧的な視線が蘇ってきて、背筋が冷えた。
 禎一は緩んでいた口元を引き締め直し、カメラアプリを起動した。
 まず、彩りよく飾られたいちごタルトと紅茶で一枚。
 漆原も感心していた天井の木組みで一枚。
 そしてそのままの流れで、ケーキを頬張っている漆原を一枚……――。

「え!? ど、どうしてあなたがここにいるのっ!?」

 その時だった。撮影ボタンを押そうとした直前、いきなり店内に女性の叫び声が響いた。
 驚いて顔を向けると、そこには四十代前半くらいのパリッとしたスーツの男性と、二十代後半くらいのどことなく露出の多い格好をした女性が、戦慄の表情を浮かべて別のテーブルで食事をしている男女に絡んでいた。

「どうしてはこっちのセリフだ。佳世、やはりお前、浮気してたな?」
「な、ち、違う! 彼は、ただの、取引先の……!」
「ほお。取引先の男とお前は腕を組んで街中を歩くのか? 休日に家族をほっぽらかしてショッピングを楽しむのか?」
「そ、それは……!」

 周囲からの好奇の視線をものともせずに、話はどんどんと進んでいく。
 どうやら、驚嘆の声を最初にあげた二十代後半の女性は佳世という名前で、テーブルで女性と食事をしている男性の妻であるにもかかわらず、仲良くなった取引先の男性と浮気をしていたらしい。ちなみにテーブルについている女性は男性の姪とのことで、男性側には一ミリも落ち度はなかった。騒げば騒ぐほど、話が進めば進むほど浮気をしていた佳世という女性の旗色が悪くなっていく。
 店内にいた客はもちろん、店員でさえ呆気にとられて興味深げに見物していた。そしてそれは鈴木たちも同じようで、あれほど通知欄を埋め尽くしていたメッセージがピタリと止んでいた。

「さて。行こうか」
「え?」

 そろそろ言い合いに決着がつきそうになり、店内にちらほらと喧騒が戻り始めていたところで、事態を静観していた漆原が席を立った。そのまま伝票を手にとると、呆然としていた店員を我に返らせ、手際よくお会計を済ませた。
 このタイミングで?
 そんな疑念を訊く間もなく、漆原は席に戻ってくるやまだ食べかけにもかかわらず禎一の袖を引いて立ち上がらせると、荷物をまとめて出入り口へと促し向かわせた。
 口論は店内の中央で繰り広げられており、出入り口に注意を向ける者は誰もいない。
 もしかして、鈴木たちがいるのに気づいたのか?
 その結論に辿り着いた頃には、禎一は漆原に背中を押されて今まさにアンティーク調のドアから出ていくところだった。

「あ! あんたは――」

 ドアが閉まる。
 あれほど姦しく耳を衝いていた怒声が、一気に遠ざかった。
 尻目に店内の様子をうかがえば、逃げ出そうとしている佳世という女性を男性が引きずり戻しているところだった。口論はまだまだ続きそうだ。

「いや~災難だったなあー」

 他人事のように漆原は呟き、ひとつ伸びをした。その顔は晴れ晴れとしており、客同士のいざこざを聞かされて不快だなどという感情は微塵も現れていない。

「あの、僕まだ、ケーキ食べかけだったんですけど」
「ああ、ごめんごめん。次はちゃんと食べ終わるまで待つからさ。この通り許してよ」

 さして気にもしていない不満を禎一が口にすると、漆原は大仰に頭を下げてきた。やはりその口ぶりにも、どこか余裕が見て取れる。
 なんだろう、この違和感。
 禎一は首を傾げた。
 前を歩く漆原の足取りは、先ほどよりもなんとなく軽い。
 何かが頭の片隅に引っかかっていた。けれど、それが明確な形を結ぶ前に漆原がこちらを見て言う。

「ちょっと呆気ないけど、今日はここで解散にしようか」
「え?」

 これまた唐突に出てきた言葉に、禎一はポカンと口を開けた。そんな禎一の反応を見て、漆原は困ったように眉を下げる。

「ごめんね。実はさっきカフェを出る時、鈴木たちの姿を見たんだ」
「あ……」

 やはり、気づかれていたのか。

「まあ見た感じさっきのいざこざに興味津々って感じだったし、僕らのことは気に留めてないと思う。ただ用心に越したことはないからね。この埋め合わせは必ずするからさ」

 漆原は残念そうに言うと、再び頭を下げてきた。今度はわざとらしい感じはない。禎一としても脅されたとはいえ騙しの片棒を担いでいただけに、そこまで言われると引き下がざるを得なかった。

「……わかりました。次回、楽しみにしてますね」
「ああ、必ず」

 漆原の表情には、いつの日かに見たのと同じ柔和な笑みが浮かべられていた。