禎一と漆原が恋人同士となった日の週末。
 禎一は学校の最寄り駅にある銅像の前に佇んでいた。

「最悪だ……」

 傍に誰がいるわけでもないのに呟く。呟かずにはいられなかった。昨日はあまり寝られず、寝返りを打っている間に外が明るくなっていた。
 あの日。禎一が漆原に告白した日の夜、禎一は鈴木が作った簡易グループトークで急かされ、事の次第をボイスレコーダーの音声とともに報告した。

 >>は? 成功した? マジで?
 >>きっしょw 漆原もゲイかバイなのかよw
 >>つーか性別以前に教師と生徒が付き合うのは完全にアウトだろ笑 漆原も終わったな笑

 せせら笑う吹き出しが次から次へと画面に表示されては流れていく。よくもまあここまで侮蔑や軽蔑といった誹謗中傷の言葉が出てくるものだと感心するほどだった。
 それと同時に、禎一の胸中には漆原に対する申し訳なさと罪悪感が去来していた。
 漆原がもし禎一と同じ性的マイノリティであった場合、そして彼が本当に禎一のことを好ましく思っていた場合、禎一は噓告白という形で漆原の気持ちを弄んでいることになる。
 そもそも性的指向の多寡以前に、純粋な人の気持ちを踏みにじることは最低の行為だ。謝って、はいそうですかと済むものではない。多かれ少なかれ相手方に不信感を与え、傷つけてしまう。
 ましてや、ただでさえ受け入れられるのが難しい性的指向が偶然合致していたとしたら、表面に現れなかったにせよ漆原の喜びは相当なはずだ。自分に置き換えてみれば痛いほどわかる。まさに奇跡なのだ。だからこそ、今の状況は禎一にとって好ましくなかった。針の(むしろ)に座っているとはこのことかと、禎一は頭を抱えた。

 >>んで、これどーするよ? 学校に報告しちゃう?
 >>いや、いっそクラスのグループトークに投下しね?
 >>そりゃいいw クソ笑えるw
 >>あ、でもそうなるとドーテーとの約束破ることになるな
 >>えーもうパシリとかできねーのは反対
 >>つかさ、証拠としてはまだ弱いんよな

 しかし、画面の向こう側にいる鈴木たちには禎一の気持ちなんぞわかるはずもない。下品で利己的な会話が途切れることなく続いている。
 そしてそれは、沈黙を貫いている禎一に突然向いた。

 >>おいドーテー! お前さ、次の休みに漆原をデートに誘ってそこで恋人っぽいことしてこい! 俺ら動画撮るから!

 無慈悲で、無情な要求が画面を滑る。続け様に囃し立てる吹き出しとスタンプが現れた。
 嫌だ。
 そう返したかった。
 入力欄に打った。けれど、指が震えて、送ることはどうしてもできなかった。
 その結果、放課後の理科室でひとり次の授業の準備をしていた漆原を訪ねて約束を取り付け、今に至る。

「最悪だ……」

 もう一度独り言ちる。
 デートに誘った時も、漆原は何の疑いも質問もせずにただ「わかったよ」とだけ答えてきた。授業ではあれほどコラムを饒舌に語るくせして、こういう時は言葉少なく接してくるらしい。意外過ぎる一面だった。
 そもそも、デートで恋人ぽいことなんていったい何をしたらいいのか皆目見当もついていなかった。禎一は自分の性的指向のせいもあり、これまで好きになる人はいれど告白することも付き合うこともなかった。今日が全て初めてだ。一先ず普通の教師と生徒ならまず一対一で行かないであろうカフェに行くことにしているが、その先は何も考えていない。
 すぐ近くにある時計台へと目を向ける。かなり早く来過ぎたせいもあり、待ち合わせの時刻までまだ二十分程度あった。

「そういえば、なんで制服着用なんだろう」

 漆原に待ち合わせの場所と時間を確認した時、ひとつだけ条件を出された。
 それが、制服を着用してくることだった。
 その時はデートに誘うという緊張でそこまで頭が回らなかったが、よくよく考えてみると意味がわからなかった。そもそも学校近くの駅で制服姿の生徒とデートの待ち合わせなんて完全にアウト要素しかない。いったい何を考えているのだろうか。

「それはね、部活動っぽく見せるためだよ」
「わっ!?」

 突然、背後からささやき声が聞こえてきて、禎一は反射的に飛び退いた。その反応に、声をかけてきた張本人、漆原はからからと笑う。

「いや~ごめんごめん。ついうっかり聞こえちゃって。どう? 驚いた?」
「あ、当たり前です!」

 驚いたどころじゃない。心臓が飛び出るかと思った。
 ふうふうと肩で息をする禎一を見て、漆原はまた短く笑った。
 時節、漆原にはこうしたお茶目な一面がある。どこか子どもっぽいというか、大人にはない柔らかさがあるのだ。そこもまた、他の先生よりも頭ひとつ抜けて人気な理由のひとつなのだろう。
 しかし今の禎一は、漆原のそうした「とても良い教師」という地位も名誉も信頼も何もかもをどん底に突き落とす罠へと誘っている。脅されているとはいえ、間違いなく自分の意思で、誘導しているのだ。

「あのせんせ――」

 反射的に「今日は帰りましょう」と提案しかけたところで、ぶるりとポケットのスマホが振動した。こっそりと取り出して見てみれば、鈴木たちが禎一たちの姿を視認したという内容が通知欄にあった。

 >>最高の動画が撮れてるよ~w

 そして、最悪の内容も表示されていた。
 もう今さら帰ったところでどうにもならないような気がした。

「さあ、行こうか」

 相変わらず爽やかなベージュのトレンチコートをはためかせて、漆原は先に歩き出した。禎一は慌ててその後を追った。