放課後。職員室までの道すがら、禎一は高鳴る鼓動ゆえか昔のことを思い出していた。
 自分の性的指向が少数派だと気づいたのは、中学生の時だった。
 それまでは、普通に異性の女子に好意を覚えていた。初恋の相手は小学校三年生の時に隣の席になったショートカットの女の子だったし、その次に好きになったのは小学校六年生の時に同じ委員会に所属していた隣のクラスの溌剌としたバレーボール好きの女の子だった。
 けれど、中学校にあがった辺りから、男子にも僅かながら興味を覚えることが多々あった。
 小学校の時とは違い、筋肉質で背が高くなったクラスの男子にドキッとしたことがあった。
 肩幅の広い眼鏡をかけた秀才の先輩に勉強を教えてもらった時に心臓の鼓動が否応なく速くなっていたことがあった。
 母校である小学校の前を通った時、ランドセルを担いだ小学校高学年くらいの男子の無邪気な笑顔に見惚れたこともあった。
 学期の途中でクラスにやってきた教育実習生の男子大学生と体育でペアになり、顔や体がカアッと熱くなったこともあった。
 一方で、これまで通り同い年の女子に好意を覚えることもあった。その時期は、心の底からホッとした。自分は正常だと言い聞かせることができた。
 しかし、禎一は高校一年生の時に隣の席になった男子生徒にどうしようもない恋心を抱いた。その男子生徒はとても優しくて、内気で臆病な禎一のことをいつも気遣ってくれていた。その優しさに、禎一は心底惚れた。ここまで人を好きになったことなんてないほどだった。
 気持ちを伝えたいと思った。
 でも、そんなことはしてはいけない。
 普通、男子は女子に、女子は男子に恋愛的な感情を覚えるものだ。創作物で楽しむことはあっても、冗談で絡み合うことはあっても、心の底から性的な感情を向けることはまずありえない。
 いや、頭では知っていた。世間にはそうした性的マイノリティの人たちがいることを。しかし、まさか自分がそれに該当しているなんてことは想像したことがなかった。
 誰にも相談できなかった。友達はもちろん、親や教師にも言えなかった。
 胸中には確実に、膿が溜まっていった。
 そうして、事件は起こった。

「なんかさ、最近の禎一って距離近すぎない?」

 夏休みに入る帰り際に、唐突にその男子生徒から言われた。
 禎一は驚いて男子生徒の顔を見た。
 男子生徒は気まずげに、どこか嫌悪感を抱いたように眉をひそめて苦笑していた。
 何言ってんだよ、そんなわけないだろ。
 へらへらと笑いながら、そうした言葉を発するべきだと禎一はわかっていた。そうしないと、これまで通り彼とは一緒に過ごせないことを禎一は察した。
 しかし、言えなかった。冗談交じりの否定なんて、言いたくなかった。内気だからか、禎一の心はどこまでも正直だった。
 沈黙を、男子生徒は肯定と受け取ったみたいだった。
 男子生徒はそれ以上何も言わずに、逃げるように帰っていった。

「ハハハッ! お前さ、やっぱりそう(・・)だったの?」

 そこへ侮蔑するような笑い声が響いた。
 心湧き躍る夏休みを前にしてクラスメイトの大半が帰った教室には、禎一のほか数名の生徒と、鈴木が残っていた。

「俺さ、この前見ちゃったんだよね。三堂の検索画面。んで、その内容をあいつに教えてあげたんだよ」

 鈴木は嘲笑を浮かべて、禎一の机の上にあったスマホを指差した。
 禎一は慌ててスマホを仕舞おうとしたが、その前に鈴木はいち早く取り上げた。

「ちょ、返して!」

 先ほどまで、禎一は黒板に書かれた夏休み明けのスケジュールを写真に撮っていた。その最中に意中の男子生徒から声をかけられたため、スマホの画面はロックが解除されたままだった。

「え〜なになに。『全性愛 対策』、『全性愛とは』、『同性愛 対策』、『バイセクシュアルとは 同性愛とは』……」

 小柄な禎一がスマホを奪い返そうとしても届くはずはない。
 禎一は片手間の空いた時間に、自分の異常な性的指向について調べるようにしていた。少しでも情報を集め、「普通」に生きるための対策を立てようと、性的マイノリティについてネットで検索しまくっていた。それが仇となった。
 次々と読み上げられていく検索履歴に、近くにいた井上や安藤も話に入ってきた。いかにも興味津々といった様子で画面を覗き込んでいた。
 バックグラウンドで起動していたメモ帳や写真フォルダまでも見られ、あらかた読み終えた彼らは心底忌避するような視線を禎一に向けた。

「やっぱお前、ヤベェな」

 そこからの日々は地獄だった。
 このことをみんなにバラされたくなかったら言うことを聞けと脅された。目に見える直接的な暴力こそなかったが、裏ではあらゆる要求や陰湿な嫌がらせをされた。
 よくパシリに使わされた。「釣りはいらねーから」と十円玉を三枚投げつけられた。
 筆箱を隠された。昼休みに、トイレのゴミ箱の中に中身ごとぶちまけられているのを見つけた。
 登校すると内ばきがびしょ濡れになっていたこともあった。

「男でも女でもイケるとか、マジ気持ち悪いよ。お前」
「俺たちには発情しないでね? ほんと鳥肌モンだから」
「いや~わかんねーよ。井上のやつとか結構こいつにいろいろしてるから、ドMだったらワンチャンありそーじゃね?」
「やめろよ! きっしょい! つーかそんだけおっ立ててんのに、こいつドーテーくんでしょ?」
「そうそう。あ、悪口とかそういうんじゃないからな? 三堂禎一だから、ドーテーな」
「マジウケる」

 誰もいないところでの悪口なんて日常茶飯事だった。最初こそ抵抗していたけれど、その度にエスカレートしていく要求や嫌がらせが苦痛で諦めた。
 そんなことが一年以上続いた。
 そして今、顔立ちの整った担任の漆原に告白してこいと要求され、叶えにいくところだ。証拠として録音を強制され、結果がどうなったかを含めてメッセージで送るようにも言われた。元々内気で人と話すのが苦手なだけに相談できる仲の良い友達もおらず、もはや逃げ場はなかった。

「ふう……」

 考え事をしているうちに職員室の前に辿り着いた。もうとっくの昔に諦めていた。ひとつ深呼吸をしてドアを開ける。
 まず、職員室独特の匂いが禎一の鼻を衝いた。強く感じるのは、コーヒーの香り。
 続いて、最近の三年生の学力の話や受験の話、ひいてはそれぞれが受け持つクラスの話など、そこいらで放課後らしい教員同士の雑談が交わされているのが聞こえた。
 その中で、禎一が属する二年一組の担任教師である漆原はひとりパソコンに向かっていた。誰とも会話をすることなく黙々と作業をしているらしい。時おり手元にあるプリントやタブレットに目を落としつつも、キーボードを叩く手は止めない。隣の席ではそれぞれ二組、三組、四組の担任教師が輪を作って話をしているというのに、彼は目もくれずに一心に画面と向き合っている。
 どことなく、禎一は緊張が解けていくのを感じた。
 集団の輪から外れている、とはまでは言えないにしろ、少なくとも「普通」から一歩距離を置いている今の彼には親近感を覚えた。それだけで、話しかけに行くハードルが一気に下がった。

「どうかしたの?」
「うぇ!?」

 そこへ、いきなり顔も知らない教師に声をかけられ、びくりと肩が跳ね上がった。職員室の入り口に立ったまま中を眺めている禎一を不思議に思ったのだろう。何も回答の準備をしていなかった禎一は、再び緊張が身体を締め上げていく感覚に陥った。

「え、え、ええと、あの……その……」

 どもるだけで何も答えない禎一に、教師の視線が不思議から不審へと変わっていくような気がした。あくまでも気がしただけで、禎一の視線は徐々に下がって目を合わせられなくなっていたので、実際にそうなのかはわからなかった。

「どの先生に用事があるの? 呼んできてあげるから」

 声は優しい。声だけ聞けば、優しさしか感じられない。寄り添ってくれているのだ。
 ……本当に?
 心の中では、「なんだこの挙動不審な生徒は?」などと思っているのではないだろうか。
 そうしてやがては苛立ちが募り、「さっさと用件を話せ」と詰め寄ってくるのではないか。そう思うと、手足を強張らせていた緊張が喉元から口へとせり上がってきて、禎一は声を発することができなくなった。

「おそらく、僕でしょう」

 唐突に、爽やかな声が聞こえた。
 聞き慣れた声だった。ついさっきまで、教室に響いていた声。
 ハッとして顔を上げると、柔和な笑顔を湛えた漆原がすぐ近くに来ていた。

「彼は僕のクラスの生徒ですので」
「ああ、そうなんですか。じゃああとはよろしくお願いしますね」

 見知らぬ教師はホッと息をつくと、そのまま足早に職員室の奥へ引っ込んでいった。その一連の所作にも、禎一の心は酷く痛んだ。

「さて、ああは言ったけど、僕に用があって来たってことでいいのかな?」

 漆原の問いかけに、禎一はこくりと頷く。

「そうか。ここじゃ出入りの邪魔になるし、奥の相談ルームに行こうか」

 再度禎一が首肯すると、漆原は先立って職員室の中に戻っていく。禎一は慌てて後を追い、その後ろにピッタリとついた。
 職員室の奥の方には、生徒の身の上の話や進路の話などをする時に使われる小部屋がいくつかあった。漆原はそのうちの一番窓側の部屋の前に行き、「使用中」の札をかけてから中に入った。
 机がひとつと椅子が四脚だけある簡素な小部屋。扉が閉まると、職員室の喧騒が遠ざかった。

「さ、座ってくれよ」

 先に腰かけた漆原は朗らかに笑って、正面の椅子を勧めてくる。禎一は素直に、その指示に従った。

「それで、僕に何の用かな?」

 何事もない、世間話をするみたいな調子で漆原は尋ねた。
 そこで改めて、禎一は自分がなんのために職員室に来たのかを思い知ることとなった。
 自分よりも十歳は年上の生物教師、漆原に告白する。
 緊張しないわけがなかった。
 この緊張はいったいどこから来ているのか、自分でもわからなかった。
 鈴木たちに脅されているという恐怖から来ているのか。
 社会的に見て受け入れられるはずのない、教師に告白するという背徳感から来ているのか。
 突然に素っ頓狂なことを言い出すだけでなく、自分の性的指向すらを知られて、漆原からいったい何を言われるのかという怯えから来ているのか。
 あるいは、あるいは、あるいは……。
 ぐるぐるぐると行き場のない思考が禎一の中に渦巻いていた。答えなんて出るはずもない。
 部屋に入ってから一分以上経っても言葉を発しない禎一に対し、漆原も何も言わなかった。おそらく、既にただ事じゃないことは察せられているだろう。ここに来て「やっぱり何もありません」なんて言って退出するわけにもいかない。そもそも今ここで告白をしなければ鈴木たちからどんな嫌がらせをされるかわかったものではない。最悪の場合、クラス中に禎一の性的指向が晒される危険だってある。それだけは、なんともしても避けたかった。

「あ、あの!」
「ん?」

 禎一は意を決して、漆原の顔を見た。
 まず、大きくて人懐っこい瞳が目に入った。吸い込まれるような、澄んだ黒い瞳。こちらの心にまでゆっくりと歩み寄ってきて、そっと寄り添ってくれるような安心感すら覚えた。
 それだけではない。マッシュヘアーながら教師らしく耳を出した清潔感のある髪型、身につけている服もキレイ目の爽やかなビジネスカジュアル調であることも好ましい。さらに今日の生物の授業でもあった冗談やいじりに華麗に対応する様から、男女問わず人気があるのも納得できた。
 ただひとつ、禎一は気づいた。
 これだけ男女問わずに好感を抱かれる特徴を持っていながら、これまで禎一は漆原に好意を持ったことはなかった。なんとなくそれすらも自分が「異常」であることの証明に思えてきて、禎一はもうどうにでもなれと口を開いた。

「僕は、先生のことが好きです!」

 言った、と思った。
 想像以上に声が響いて、禎一はハッとして辺りを見渡した。
 窓もドアも閉まっている完全な個室。あれほど騒がしい職員室の喧騒すらくぐもってよく聞き取れないのだから大丈夫だとは思うが、一抹の焦燥感と不安に禎一は駆られた。
 対して、漆原は驚いた様子を見せつつも無言だった。表情は変えずに、ただ真っ直ぐに禎一のことを見ていた。

「僕は、先生のことが好きです」

 聞こえなかったはずはないが、禎一はもう一度言った。すると、そこでようやく漆原は頷いた。

「うん。聞こえてる」

 抑揚のない、平坦な声だった。揶揄うでも戸惑うでもない、感情の読めない声。それが、余計に不気味だった。

「だから、その……僕と付き合ってくれませんか?」
「付き合うというのは、恋人になってほしいという解釈で合ってるかな」
「その通りです」

 禎一の心臓は今にも破裂しそうだった。早く断ってくれと思った。それから困った顔で諭すなり、声を荒らげて怒るなりして早く話に区切りをつけてほしかった。
 漆原は「ふむ」とひとつ頷いてから、また口を閉ざした。
 おそらく、漆原の頭の中ではいろいろな推測が錯綜していることだろう。
 生徒が告白してきたがどう断ればいいのか。
 男子生徒が男性教師に告白をしてきたということは性的指向がそうだという意味になるが、どう言えばいいのか。
 そもそもどうしていきなり告白をしてきたのか……などなど。
 けれど、本当にそうしたことを考えているのかと疑いたくなるほどに、漆原の表情は変わらなかった。
 そうして、一分とも十分ともつかない長い沈黙の末に、漆原は答えた。

「いいよ」

 聞き間違いかと思った。禎一はぎょっとした。

「何をそんなに驚いているの。君から言ってきた申し出だろうに」
「い、いやいや。先生、僕は本気ですよ?」

 本気ではないが、冗談でも了承なんてしてほしくなかった。その意味を込めて禎一は訊いたが、あろうことか漆原は深く頷いた。

「わかってる。だから僕もこうして真面目に答えてるんだ」
「いやいやいや」

 信じられない。意味がわからない。頭の中が混乱したのは禎一の方だった。
 しかし、そこではたと思った。
 もしかすると先生も、自分と同類なのではないかと。

「あの……」

 訊いてみたかった。
 もしそうなら、自分はひとりじゃない。
 けれど、他でもなく自分のポケットでボイスレコーダーが起動していることを思い出し、禎一は口を噤んだ。

「ただし、条件がある」

 そこで、禎一の続きに被せるように漆原は言った。視線を逸らしかけた禎一は、再び漆原の方を見る。

「条件?」
「そうだ。まず校内校外を問わず不用意に近づかない。教師と生徒だからな。卒業までは一線を引いてもらおう」
「わかりました」

 禎一は頷く。
 驚くほど真面目な条件が提示された。いや、そもそも性別はどうあれ生徒からの告白を受け入れている時点で真面目ではないが。

「そして次に他言無用。これは僕と三堂だけの秘密だ」
「……はい」

 これも当然だ。もっとも、約束をしたその日の夜には破らなければいけないのだが……。

「最後に、三堂には生物部に入ってもらう」
「え?」

 最後に来た意外な条件に禎一は目を丸くした。生物部。なんでまた。
 不思議そうに首を傾げる禎一に、漆原は言葉を続けた。

「生物部の顧問は僕だ。部員は何名かいるが、今ではすっかり幽霊部員でな。活動らしい活動はしていないんだ。付き合っているのに、校外でも全く接触しないというのも嫌だろう? 生物部は会うための理由付け、いわゆる足場だな」
「なるほど」

 そこまで聞けば道理だった。生物部の部員と顧問という関係ならば、校内外問わずよく会っていても説明がつく。幽霊部員しかいない廃部寸前の部活ならなおさら一対一でも怪しくはならない。もちろん、どんなふうに接しているか、というのはあるだろうが。

「守れるか?」

 漆原は静かに尋ねてきた。
 そこには揶揄っている様子も馬鹿にしている様子もなかった。
 ただありのままに、当然のごとく提案している。そんな雰囲気があった。

「はい」

 こうして、禎一と漆原は付き合うこととなった。