「私、死にたいんです」
「ふーん、そうなんだ。なら死ねば?」
「……」

 寄り添うことを知らない担任は、私の顔をまったく見ないまま、いつものトーンでそのように呟いた。

 虐められている私に、寄り添うことはしない。
 親身になって話を聞く素振りもない。

 ならば、なんのための『個人面談』なのか。
 なんのために、私だけ『個人面談』の時間が設けられたのか。

 話を聞く気がないのならば、始めから放っておいてほしかった。

「……なんだよ、その顔」
「……」

 担任を見つめる目に、つい力が入る。
 別に同情をして欲しいわけではない。面談をして何か解決策が見つかるとも思っていない。

 けれど、最低でも話くらいきちんと聞いて欲しかった。
 ましてや……死ねばなんて、言われたくなかった。

「君が死にたいって言ったんでしょう? 僕がそんなにも睨まれる理由ってある?」
「……」
「というかさ。死にたいって言う前に、自分が虐められる原因の追究をしてみたらどう? その方がまだ有意義だと思わない?」
「……」

 担任の言葉に呆れて、何も言えなかった。
 私は溜息をつきながら椅子から立ち上がり、部屋の出入り口に向かう。

 すると背後から「ふっ」と鼻で笑う声が聞こえてきた。
 その声に振り向き、担任を睨みつける。

「ほら。そうやって、逃げるよね」
「……失礼します」
「死にたいと自らが勝手に望んでいるのに、他人がそれを肯定すると逃げるよね!! 死にたいと言って構って欲しいだけで、ほんとうは死にたくなんてないんだろ!?」
「……っ」

 図星を指された私は、何も言わずに部屋を飛び出す。
 最後に見た担任は、口角を上げて不気味な表情で微笑んでいた。

 その笑顔に、全身の鳥肌が立つ。
 死にたいと担任に伝えたことすら馬鹿馬鹿しく思えるくらいに、笑顔が気持ち悪くて、むかついて、大嫌いで。

 なんだか、とても許せなかった。







 家から近い高校に通う2年生の私、市岡(いちおか)柚香(ゆずか)は、クラスで虐められていた。

 教室に通えなくなって早半年。
 木々が紅く色付きすこし肌寒く感じるこの時期に、私はひとり校舎裏で空を見上げていた。

 もうまともに教室には踏み込んでいない。
 この校舎裏で過ごしたり、保健室に通ったり。でも最低限成績だけは落とさないように、頑張って学校へ通っていた。


 担任は、そのような私を心配しなかった。
 死にたいと悩む生徒に死ねというのか。その事実があまりにも衝撃だった。

 せっかく与えられた『個人面談』の機会だったのに、ただただ不快感が増し、担任に対する不信感がより強くなっただけだった。

 死にたいと願う私。
 だけど、ほんとうに死にたいわけでもない。

 ただ、誰かに寄り添ってほしかった……なんて、欲張りなのだろうか。

 せめて担任には、温かい言葉を掛けてほしかった。


「担任、椎名(しいな)先生でなかったら良かったのに……」

 なんて、つい小さく呟く。
 その言葉が風に乗ってどこかへ消えた時、訪れた静けさの中で、不意に聞き覚えのある声が聞こえて来た。

「僕じゃなかったら、誰が良かったの? 死を否定してくれる人? 励ましてくれる人? 心の底から応援してくれる人?」
「し……椎名先生……」

 いつになく緩く結ばれたネクタイが風になびく。スーツのジャケットのボタンすら留めずに私を見下ろしている先生は、『いつも通りのようで、いつも通りではない』ような気がした。

「……授業中ですよ。何をしているのですか?」
「自殺鑑賞」
「え?」
「死にたいって、昨日言っていたよね?」

 いつ死ぬの? と明るく問いかけてきた先生は、またあの不気味な笑顔を浮かべていた。

「……」

 椎名先生は私の隣に座り、空を見上げる。
 そして黙ったまま、これ以上何も言わなかった。

 私はもう何か月もこの場所で過ごしているが、椎名先生がここに姿を現すのは初めてだった。
 目的はなんなのだろうか。ほんとうに自殺鑑賞が目的なのか……それすらも分からない。先生の表情からは、感情を読むことができなかった。

 椎名先生は今もまだ不気味な笑顔を浮かべている。
 そのような様子の先生があまりにも気持ち悪くて、怖くて、どうしようもなかった。


「……先生。私、今のところ死ぬ予定はないです」

 1時限目の授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。その音を聞いてもなお、椎名先生はここから移動しようとはしなかった。
 職員室にいなくてもいいのか。今日は授業がないのか。

 椎名先生は空を見上げたまま、ただただ笑っていた。

「死ぬ予定がないって、笑かすね。どうせ死にたいなんて言いながらも永遠に死なないくせに。やっぱり構って欲しかっただけだよね」
「……うるさいです」
「ほら、図星だとすぐに怒る。そういうところも、まだまだだね」
「うるさい!!」

 私は自身の太腿を強く叩き、勢いよく立ち上がる。
 そして力強く先生を睨みつけると、また軽く鼻で笑われた。

 先生に対して非常に苛立ちを覚える。
 悔しくて、最低で、許せなくて……。

 それなのに、ふと頭に浮かんだ疑問を、つい目の前の人に向かって吐き出してしまった。

「……先生は、虐めについてどう思っているのですか?」
「どうとは?」
「私、虐められるのが辛くて死にたいんです。虐めって、虐める側が悪いのですか? それとも、虐められる側が悪いのですか? どっちですか?」

 その疑問をなぜこの人にぶつけたのか。瞬時に自己嫌悪に陥る。
 私の疑問を聞いた先生は、今もまだ空を見上げていた。そしてまた不気味な笑顔を浮かべながら、弾んだような声を出す。

「昨日も言ったけれど、自分が虐められる原因の追究をしてみたほうが有意義だって。どちらが悪いかとか、そんなことを考えたところで虐めがなくなるわけではないじゃん?」
「……」
「考えるだけ時間の無駄だよ。これも言ったけれど、虐められて辛いなら、単純に死ねばいい。君だってそれを望んでいるのだから」
「……」

 この人はほんとうに教師なのだろうか。
 生徒に自殺を促す教師など、これまでに聞いたことがない。

 椎名先生は今もまだ、不気味な笑顔を浮かべていた。
 ただ、その目には光が見えない。

「……椎名先生に聞いたことが間違いでした」
「まぁ待て、市岡。でもね、提案した僕自身が言えることではないけれど。原因を追究したところで分からないっていうのも事実だと思うよ。だって、虐められるようなことをした記憶なんてないもん。ね、そうだろ?」
「……何が言いたいんですか?」
「つまり、死にたければ死ねば? ってこと」
「……」

 ふははははは!! と大きな声で笑った頭のおかしい教師は、両腕を空高く上げて背伸びをした。不思議とゆっくりとした時間が過ぎる中で、再びチャイムが鳴り響きだす。これは2時限目の授業開始をお知らせするものだ。

 しかし、椎名先生はやはり動かなかった。
 悠長に空を飛ぶ鳥を見つめながら「いいね、鳥」などと、意味不明なことを呑気に呟いていた……。


『えー、呼び出しをします。椎名先生、椎名和希(かずき)先生——至急、職員室までお戻りください。繰り返します——』

 学校中に校内放送が響き渡る。
 私の隣に座るその名の張本人は……放送が聞こえなかったということもないだろう。それなのに動揺ひとつせずに、まだ空を飛ぶ鳥を静かに眺めていた。

「先生、呼び出されていますよ。職員室に戻ってください」
「……なぁ、市岡。人は『死にたい』って思うために生まれてきたのだろうか?」
「……え?」
「僕は『死にたい』と零す生徒に『死ねば?』と言うために、教師になったのだろうか?」
「……」
「僕と君は、どうして授業中なのにここにいるんだろうね」

 首を傾げながら、先生の顔を見つめる。
 先生は不気味な笑顔を浮かべたまま、校舎の壁にもたれかかっていた。

「……先生、情緒不安定ですか?」

 私は小さく溜息をついて、顔を膝に埋める。
 遠くから聞こえる烏の鳴き声が、なんだか私を馬鹿にしているように感じた。


「椎名先生、どこ行かれたの!?」
「そういえば今朝のホームルームもいなかったとか!」
「でもデスクのパソコンは付いているし、鞄もありますよね!?」
「ていうか職員朝礼の時はいたでしょう!?」
「それすら分かんねぇ。どこ行ったんだよ、あいつ!!」

 背後からバタバタと走り回る音が聞こえてくる。足音に混ざる会話から察するに、間違いなく椎名先生を探している音だ。
 聞こえてくる会話を聞いて、椎名先生は満足げに微笑んでいた。だけどその身体を動かそうとする気配は、恐ろしいくらいまったくない。
 
「先生、2時限目の授業はほんとうにないのですか?」
「……あるよ。2年3組」
「え、なら早く行ってくださいよ!! 何をしているのですか!?」
「いいんだ。今日だけは」

 意味不明な椎名先生は、どこまで行っても意味不明なままだった。

 先生は、周りが騒がしく自身を探していることに気にも留めず、ただまっすぐ空を見つめる。普段とは違う様子に、なんだか私の調子も狂う。


「さて、たまには君の話を聞こうか」
「……え?」
「なぜ死にたいのか、今日は聞いてやると言っているんだ」

 半信半疑だった。あの『個人面談』の時の様子を考えると、あまり信用ならない。
 だけど今日の先生はいつもとは違った。
 比較的まともに話を聞いてくれたのだった。

 椎名先生はときおり大きな声で笑って私を馬鹿にしながらも、『個人面談』の時には一切聞いてこなかった虐めの経緯や内容などを話すよう促してくれた。

 相変わらず『死にたければ死ねばいい』というけれど。
 相変わらず『虐められる原因を追究しろ』とかいうけれど。

 それでも初めて椎名先生の『先生らしい一面』に触れ、なんだかほんのすこしだけ、先生のことを見直したような気がした。



 そこから先生とはなんとなく会話をし続けて、気が付けばさらに4回ものチャイム音を聞いた。
 4時限目のチャイムが鳴り終わり、午前中最後の授業が始まる。

 その間、椎名先生はずっと、ほんとうにずっと……私の隣に座って空を見ながら会話をしていた……。


「……椎名、先生」
「んー?」
「うわあああああ!?」
「きゃーーっ!!!!」

 言葉を継ごうとすると、地面をも揺るがすような叫び声が突然聞こえてきた。

「え?」

 その叫び声を機に、授業中にも関わらず学校中が騒がしくなる。

 私は状況が理解できないまま立ち上がり、急いで校舎1階の窓に目を向けた。
 血相を変えて職員室から飛び出す先生たちが異常だ。いつもとはまったく違う先生たちの表情に絶句していると、隣にいた椎名先生はまた不気味な笑顔を浮かべながら明るい声を発する。

「ふはははは!! あーあ、もしかしてもう見つかった感じ?」
「……え?」
「早いよ、早すぎ」
「え、え?」

 何が早いのか。その言葉の意味を問いただそうとすると、先生は笑って立ち上がった。そして先ほどまでまったく動く気配のなかった先生は「ついてきて」と小さく呟いて、どこかに向かって歩き始める。
 とりあえず私も急いで立ち上がり、先を行く背中を小走りで追いかけた。

 向かう先は、今いる場所からすこし離れた校舎だった。
 特別教室が集まるこの棟は、日頃あまり人は近寄らない。それは今日もいつも通りだったようで、窓から中を覗いてみても、人の気配はまったく感じられなかった。

「椎名先生?」
「……」

 しばらく歩き続けていると、職員室を飛び出した先生たちが集まって来るのが見えた。
 みんな血相を変え、中には泣きながら口元を押さえている先生もいる。


『全校生徒は、先生の指示に従って体育館へ移動してください。繰り返します——』


 学校中が騒がしくなる。
 悲鳴や鳴き声、怒号、さらには好奇心のような叫び声が響き渡った。
 遠くからパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえ始め、言葉では言い表せないくらいの非日常感に襲われる。

「……し、椎名、先生……これは一体……」
「なぁ、市岡柚香。覚えておけ」
「え?」
「ほんとうに死にたいと思っているやつは、何も言わずに死んでしまうんだよ」
「……」
「人に『死にたい』と言えるうちは、まだ大丈夫。だから君はもうすこし頑張れ。死んだって、いいことなんてないんだから。これは君と僕の約束だ」

 椎名先生の顔から不気味な笑顔が消え、優しい笑顔へと移り変わる。
 そしてしだいに先生の体が光に包まれ始めた時、これ以上ないくらいの笑顔を見せてくれた。

「……またな」
「え……」

 その存在が徐々に消えたすこし先で、横たわる椎名先生の姿が視界に入る。ただ、光に包まれて消えていった椎名先生とは様子がまったく違った。
 アスファルトは赤黒く染まり、すこし先の椎名先生はひとつも身体を動かさない。そして微かに見えた見慣れたその顔は、見たことがないくらい青白くなっていた。


「ひっ……」
「——あっ、こら!! そこの女子生徒、そんなところで何をしているんだ!? 去れ、今すぐ去れ!! 絶対に近寄るなぁぁぁぁ!!!!」

 窓から大きな声で先生に叫ばれ、私は震える身体を抑えながらその場から逃げ出す。


 先ほどまで私と一緒にいた椎名先生はもういない。
 痛いくらいに心臓が飛び跳ね、高速に脈を打ち鳴らす。大きな自身の鼓動と動揺に、頭が強く痛む。

 訳も分からず、無我夢中でどこかに向かって走り去る最中。夢か現実か分からない中で、『横たわる先生』と『最後に見た笑顔の先生』のふたりが、私の脳内を強く支配していた。







 椎名先生は、自殺だった。
 生徒の私にはまったく分からないことだったけれど、椎名先生は他の先生から虐められていたらしい。

 椎名先生は、あの校舎の屋上から飛び降りていた。

 いつも笑顔で、授業は面白くて、表向きは生徒思いで、でもほんとうは口が悪くて、態度も悪くて……しかも私には「死ねば?」と言う。

 けれど、先生も心の中では戦っていた。
 私は何ひとつ知らなかったけれど、先生も心の中で非常に苦しんでいたのだ……。

「……」

 あの後1週間休校したのち、学校は再開された。
 私たちのクラスは副担任が担任となり、何事もなかったかのように通常通りの学校生活が再開されたのだ。

 私は変わらず教室には向かわない。
 今日だっていつも通り校舎裏で空を見つめながら、なんとなく学校生活を送っていた。


 ときおり蘇る、椎名先生の不気味な笑顔。
 あの時に見た横たわる先生は、本物なのか、なんなのか。

 今もまだ夢か現実か分からずに彷徨い続ける私。まるでそれを嘲笑うかのような声が、たまに響き聞こえて来る。


『——死にたいなんて言って、ほんとうは死ねないくせに!!』
「……」

 その声に小さく笑い、私も呟いてみる。

「……椎名先生。いつかまた、お会いしましょう。その時は先生が選んだ結末を、必ず後悔させますから。今では、心からそう思えます」

 ほんとうに、先生は死んだのか。
 その結論すら私の中で出てきていないのに『先生は死んだ』のだと理解をしている自分もいて、なんだかとても妙な気分だ。

「……でも、やっぱり私も死にたい。そう思うくらい辛い。でも……死にたくない——」

 死にたいと思うけれど、死にたくない。
 羨ましく思うけれど、実行はしたくない。

 ならば今の私は、どんなに苦しくても、自分を信じて頑張るしかないのかもしれない。

 椎名先生を見て、余計にそう思った。

「……」

 強い風が吹き、アスファルトの上に落ちていた紅葉たちが一気に舞い上がって行く。
 静かな校舎裏には私しかいないはずなのに、またどこからともなく大きな笑い声が聞こえて来た。

 不意に思い浮かぶ不気味な笑顔と、人を馬鹿にするような笑い声。それらがいつまでも、いつまでも。私しかいない校舎裏で、哀しみや苦しみと共に椎名先生自身も、なんだかここに取り残されているような気がした。






死にたがり屋の私と、校舎裏での数時間。  終