一目惚れだった。


 彼は同族の者で、一族の代表格の一人である父に新年の祝賀を述べると共に、とある一門の頂点に君臨したことを報告しに来たのだったと思う。

 武人のように精悍な顔立ち身体つきの父や兄たちを見慣れていた目に、物語の貴公子の如き彼のしなやかさ、女と見紛うようで決して女々しさを感じさせない麗しい容貌はとても鮮烈だった。

 それから一年弱、寝ても覚めても、いてもたってもいられなくなって、────気付いたら大和の親許を飛び出し、単身、遠江の彼のところに押しかけていた。

 そして紅葉の錦の中、相棒と連れ立った彼の姿に、やっぱり素敵、かっこいい、と改めて見惚れたのち、頬を紅潮させ高らかにこう宣言したのだった。

「大峰山前鬼坊が末娘、みゆく(・・・)、秋葉山三尺坊殿に嫁入りに参りました。不束者ですが、末永く宜しくお願いします!」

     ◇◆◇

(ゆい)ちゃん、一緒に寝よっ」
「ん? ああ、そうだな、雪も降ったし、今夜は随分冷えるからな。でもどうせなら雪篠(ゆきささ)に添い寝したほうが暖かいんじゃないか? 冬毛だし」

 あからさまではあるが色気もへったくれもない「誘惑」に、二十歳手前の少年は、年季の入った法具の手入れをしながら真顔でそう返した。

 乙女心を欠片どころか塵芥ほども理解していない「返答」に、十歳ほどの童女の笑顔に亀裂が走る。そして。

「っ唯ちゃんのばか────っっ!」

 跡を引く捨て台詞を残し、赤い小袖は方丈の戸を乱暴に開け放って闇の向こうへと走り去っていった。

 夜の静寂を震わせる幼い暴言に、さすがに独鈷を磨く手が止まる。しかし少年は童女の後を追うでもなく、白単衣に白袴、白脛巾(はばき)という白装束を折り目正しく纏う肩を落とし、ただ悄然と呟いた。

「ばか……何度も言われていることだが、何度言われても堪えるな。人として生を享けながら人であることを踏み越えてしまった自分の愚かさは自分がいちばんよく解っていたつもりだったが……、我ながら情けないものだ」
「……あのな、あんまり言いたくないけど、おまえ酷いぞ」

 方丈の隅でぱったりと尾を振って独り言に口を挟んだのは、狼ほどの体格を誇る白い毛並みの隻眼の狐。毛足の長い散切り頭の少年は、的確な言に神妙な面持ちで頷く。────気落ちしたせいで少しばかり曲がったその背には、身の丈に匹敵するほどの漆黒の翼。

「ああ、酷い。宿業や因果はどうあれ、童女にこうも頻繁に罵られるというのは道を修めんと志す者としてあるまじき醜態だ。確かに、慢心を戒め精進を忘れないためにも、あの言葉は効くのだが……」
「いやそうじゃなくてな、……いや、いい」

 どこまでも見当違いの方向に苦悶している相棒の説得は取り敢えず諦めて、結構美声で呟いた白狐はのっそり立ち上がった。太い尾を揺らしながら、悠然とした足取りで方丈の外へと向かう。

 見上げた空に星月は望めなかったが、雪はとうに降り止んでいた。けれども地面にはその名残が白く積もり、渡る風も身を切るほどに冷たい。

 冬の東海道遠江国、秋葉山。

 斯様な深山幽谷に起居し、真の闇夜を闊歩するにも灯りを必要としない彼らは、勿論、只人ではない。

 天翔ける黒き翼────俗に言う「天狗」だ。

 唯……三尺坊唯明(ゆいみょう)は元は越後の修行僧でありながら今やその号を以て知られるひとかどの天狗であり、雪篠はその相棒たる霊狐。そして、唯明の婚約者を自称する雛女(ひなめ)の名を、みゆくと言う。

 後天的に翼を得た唯明と先天的に右目の欠けた雪篠、彼らが手を組んで無法地帯だったこの山に秩序をもたらし、物の怪たちの頂点に立ったのがおよそ十年前のこと。以来、ささやかな院家を結び、人間(じんかん)に交わることなく静かに暮らしていた。

 そこに、大和国は吉野から、突如として嫁入り宣言と共に押しかけてきたのが、みゆくである。

 翼を隠した姿は単なる童女だが、しかしてその実体は、数多いる天狗の中でも一線を画する八大天狗の一人、大峰山前鬼坊の末娘。更にその前鬼坊の仕える主君もまた大物で、生前は鬼神をも従える強大な呪術者として畏れられ、死後もなお石鎚山法起坊なる神霊として崇められる修験道の開祖・役行者から吉野一帯を任せられているのだった。

 そのように強力な後見を持つ彼女を無下に扱うわけにもいかず、なし崩しに二人と一匹の新婚生活もとい同居が始まった。それからというもの、みゆくは「自称婚約者」の「自称」を外すために日々奮闘しているのだが、何しろ相手は元僧侶、生来の生真面目な性格も相まって色恋沙汰には非常に鈍く、残念ながら(かんば)しい結果は得られないまま今日に至るというわけである。

 つらつら考えながら雪に覆われた道なき道を歩み、雪篠はいつもの木の根元に両膝を抱えて座り込む尼削ぎの赤い小袖姿を見つけた。

 三歩歩いて振り返れば周囲の景色に紛れ込んでしまうなんの変哲もない山桜の木、鈍感な唯明に喚き散らして方丈を飛び出すとみゆくは必ずここに来る。十年前、嫁入り宣言をぶちかましたこの場所に。

「ミュー、帰ろう。唯のあれは……まあもう、いつものことだろ」

 四つ足で歩み寄り、あまり慰めになっていない言葉で促す。みゆくは膝を抱きかかえたまま、(ふち)の赤くなった大きな目をじとりと据わらせ雪篠を見返してきた。

「────ささ。あたしの何がだめなの」
「いやそれは……」

 言われて雪篠はたじろぐ。だから言いたくないっつうか関わりたくなかったんだよな、ああ面倒くせえ、と胸中呟いた。そんな葛藤も知らず、みゆくは身を乗り出しまくし立ててくる。

「炊事洗濯掃除に裁縫、毎日……とは言えないし上手とも言えないかもしれないけど、でも頑張ってるでしょ? 上目遣いとか甘えた声とかで可愛らしさも強調してるし、聞き上手褒め上手に徹してよく解んない説法だってちゃんと聞いてるじゃない。細々(こまごま)した気配り心配りだって忘れてないし、隣に座って何気ない感じで手握ったり、さりげなく裾から脛覗かせてみたり! やっぱりもうここは言われたとおり唐渡りの秘薬盛って力業で押し倒すべきなの!?」
(…………姉貴……)

 押し倒して何をどうするか解っているのか極めて疑わしい童女に過激な入れ知恵をした人物の心当たりがすぐに出てきた雪篠は、そっと視線を逸らし胸中で唸った。八大天狗の一角・飯綱山三郎天狗に仕える雪篠の姉狐は、みゆくの恋路を応援しているのか面白がっているのか、ことあるごとに余計な首を突っ込み口を挟んでくる。

 炊事掃除という基本が「毎日とは言えない」のは、みゆくの怠慢というわけでもない。唯明は元来几帳面なものだから、少し油断していると全部自分でやってしまうのだ。

「いやまあほらな、唯はもともと寺育ちの生粋の坊主だし、今でも修験者だし、そういうこと含めて俗世のことにはいろいろ疎くても多少は仕方ないだろ。だからまあ、おまえもまだ若すぎるほど若いんだしな、そう焦らなくても」

 しかし似たような言い訳でごまかしながら早十年。数百年数千年、人間(じんかん)とは異なる時を生きる身ではあるが、それでも瞬きほどの間と言えるほど短い歳月でもない。

(つうか、なんで第三者の俺がこんなに気を揉んでるんだ……)

 雪篠が内心ほとほと疲れたところに、薄い雪を踏みしめる足音が近づいてきた。相棒からも許婚からも散々鈍感だの堅物だの言われている天狗山伏は、やはり生真面目な眼差しで口を開く。

「帰るぞ。山の天気は変わり易い、また降ってくるかもしれん」
「…………」
「………………」

 雪篠はすっと動いて相棒の足に並び、みゆくもむっつりした顔で下を向いたまま立ち上がった。それでも、無言の内に何かを訴えるように許婚の白単衣の袖の端をぎゅっと握る。と、不意に唯明は俯いていたみゆくに背を向け屈みこんだ。

「その足で雪道は冷たいだろう」

 下駄すら履かずに飛び出したみゆくの白い爪先を一瞥し、おぶさるように促す。雪篠は思わず目を瞠って相棒の顔を見た。普段は鈍感にも程があるくせに、こういうことも平然と言ってのける。抱き上げるのではなく背負うあたりがまた、彼らしい。

「…………っ」

 顔を上げたみゆくもしばし呆然としていたものの、渋面で、けれど頬をほんのりと染めて素直に従った。二人と一匹、夜の底を言葉もなく歩く。

 黒い翼を畳んだ背におぶさった童女は、ぴたりと許婚の肩口に頬を寄せた。やがて、「まあ……いっか」と言うようにその口許が淡く綻ぶ。

 その様子を見上げ、やれやれ、と雪篠は力なく尾を振った。