宝条家の庭の紫陽花が色をつけ始める。琴葉が珀と一緒に住み始めてから1ヶ月が経とうとしていた。しかし、いまだに琴葉は珀の激甘な対応に慣れることができないでいる。
「今日は家で仕事をする。琴葉、いつも通り朝食後、俺の仕事部屋に来てくれるか?」
「かしこまりました。」
珀は琴葉と一緒にいる時間を増やしたいがために、婚約が決まってから、2日に1回はオフィスではなく家で仕事をするようになった。その度に琴葉は部屋に呼ばれるのだが、お茶かコーヒーを入れるくらいしかろくに手伝うことができないでいる。
全く役に立つことができていないどころか、珀の仕事の進み具合が遅くなっているのではないかと思い、悶々とする琴葉。そんな琴葉を見かねた隼人が、珀にこう進言する。
「珀様、琴葉様を聖桜学園に通わせるのはいかがでしょう。失礼ながら、今の琴葉様には宝条の次期当主の嫁としての知識が足りていないように感じます。公私ともに珀様をお支えする立場に相応しい教育を受けるべきではないかと。」
珀が一気に殺気立つ。琴葉は珀の殺気にまだ慣れていないため、毎回震えてしまう。
「おい、余計なことを言うな。」
そこに、震えを無理やり抑えた琴葉がこう挟んだ。
「珀様、私が今のままだと珀様の隣に相応しくないのは本当です。珀様のお仕事を見ているだけで、お茶かコーヒーを入れるだけで、何もできていない現状を考えると、学ぶことがたくさんあるように感じます。ただ……私には学費を払うことができません……。貴族教育の教材などをお貸しいただければ……。」
「そんなのは俺が払うから琴葉は気にしなくていい。だが……。」
一度目を閉じてから、珀がこう続ける。
「琴葉は聖桜学園に行きたいか?」
琴葉はここ1ヶ月で初めて、すっと現実に引き戻された気がした。私立聖桜学園。神楽の子であれば本来、そこに通っているはずだが、無能力者である琴葉は通うことを許されなかった、エリート校。
「……。行きたく、ありません……。申し訳ございません。」
「謝らなくていい。そうじゃないかと思ったんだ。」
優しい声でそう言う珀。恐る恐る顔を上げると、心配そうな顔が。普段あまり感情の変化を見せない珀が、琴葉の前ではそうやっていろんな表情を見せる。どうしても意識してしまって、少し顔が赤くなる。
あそこには、妹がいるのだ。そして、その妹の取り巻きたちも。皆、聖桜学園の生徒である。行けば、またストレス解消の格好の道具としていじめられ、パシられ、罵倒・暴力に苦しめられるだけだ。
「しかし、琴葉様にはやはり貴族教育を受けていただくべきかと存じます。そこでなのですが、家庭教師をおつけになるのはいかがでしょう。」
「確かに、貴族教育の遅れを取り戻すには、マンツーマンで教えてもらった方がいいかもしれない。もちろん、講師代は俺が払うから、どうだろうか、琴葉、家庭教師をつけてみないか?」
家庭教師なら。自分に今足りていないものを優先的に身につけられるかもしれない。自分を助けてくれた珀に恩返しができるようになるかもしれない。
でも、お金を払ってもらっていいのだろうか。琴葉には支払い能力はないが、とはいえ、普段も豪華な生活を送らせてもらっているのに、さらに金銭的に迷惑をかけるわけにはいかないのでは……。
「金銭面で迷っているのでしょうか。琴葉様、それではこう考えてみてはいかがでしょう。これは投資なのですよ。我々宝条家が、琴葉様に次期当主の嫁に相応しい女性になっていただくための投資。いずれ、琴葉様は公私ともに珀様を支え、日本の政治・経済を担う宝条にとって重要な役割を果たすことになります。そのためには、宝条が援助するのが筋でしょう。」
琴葉の迷いを見透かしたように、隼人が捲し立てる。
「おい、隼人、お前さっきから何様のつもりだ。そんなに前に出ることをお望みなら、あとで面倒な討伐案件をお前に譲ってやる。」
「ぎゃー!そんなこと言わないで〜!珀ひど〜い!」
いつものように茶番が始まってしまった。この2人は本当に仲がいい。
「琴葉、これまでお前はやりたいことをやれなかったのだろう?なら、これからはお前のやりたいようにやっていい。そのためには俺は何も惜しまないし、全てを与える覚悟でいる。」
ぎゃーぎゃー喚く隼人を無視して、珀がそう伝えてくれる。申し訳ない気持ちはまだあるが、ここまで言ってくれるのだ。一生懸命勉強して、珀の隣に堂々と立てるように頑張ろう、と琴葉は決意した。
「では、お言葉に甘えて……。私、一生懸命勉強します。」
「そうしてくれ。ところで、これはついでなんだが……。」
珀がまた目を伏せる。言いづらいことを言おうとする時や、文章がまとまっていなくて、言葉を選んでいる時に見せる仕草だ。長い睫毛が影を落とす。
「音楽の先生も呼ぼうと思う。」
琴葉はハッと息を呑む。珀の赤い瞳に吸い込まれたまま、何も考えることができない。音楽……?
「琴葉は嫌かもしれない。だが、これは宝条家の総意だ。神楽家について調べたが、琴葉は音楽のレッスンだけは毎日受けていたのだろう?それをやめてしまうのはもったいない。貴族は嗜み程度には音楽に触れるものだ。俺も幼い頃、楽師をつけて少しピアノを習っていた。その楽師を琴葉の先生につけようと思うんだ。」
毎日のレッスン風景が、走馬灯のように脳裏を流れる。息がしづらいレッスン室、細かく書き込まれた楽譜、次々と浴びせられる罵声、鈴葉の嘲りの声……。
でも、これは宝条の総意、つまり決定事項ということだ。従わなければ、何が起こるかわからない。
「か……かしこまりました。」
震える声で返事をする。気づけば、琴葉は珀の腕の中にいた。
「すまない、琴葉。俺は反対したんだ。琴葉の傷が癒えるまで、それまで待てないのか、と。ただ、事情があるんだ。今はまだ話せないが……時が来たら、必ず伝える。それまで、無理はせず、少しずつでいいから、レッスンを受けてほしい。」
心の真っ黒い塊が、薄れていくのを感じた。レッスンが怖くても、フラッシュバックが起こってしまっても、またここに戻ってくればいいんだ。そんな安心感を、珀は与えてくれる。
すると、抱き合う珀と琴葉を恨めしげに見ていた隼人が、少し真面目な顔になった。
「琴葉様、今までのご経験から、音楽のレッスンに恐怖を感じてしまうのはわかります。しかし、今回つく先生は厳しい先生ではなく、むしろ緩い雰囲気で、楽しいレッスンをしてくださいますよ。」
珀もうなずいている。きっと本当なのだろう。少しだけ不安が軽くなった気がした。
※ ※ ※
「琴葉様、今日から家庭教師として、貴族として必要な知識や教養、社交におけるマナー、また、貴族令嬢としての仕草やダンスなどを教えることになっております、三枝雫と申します。よろしくお願いいたします。」
「神楽琴葉と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
琴葉の貴族教育が始まった。三枝先生のレッスンは厳しいわけではないが、内容は決して簡単ではない。小学校で貴族としての知識が止まっている琴葉は、立ち姿一つとっても直すべき部分がたくさんあり、何度もやり直しをさせられた。
「先生、私、こんな状態で本当に貴族の中に入っていけるのでしょうか。全く自信がありません……。」
うまくいかないことが多く、少し弱音を漏らしてしまう琴葉。先生は真っ直ぐ琴葉を見つめて言う。
「琴葉様は小学校までしか貴族教育を受けていないとお聞きしました。ですが、今でもその時に習ったことが自然とできていらっしゃいます。大丈夫ですよ、琴葉様ならきっと、すぐに同世代の方に追いつけるでしょう。自信を持ってください、自信を失うことが貴族らしさから遠ざかる一番の原因ですよ。」
自信。琴葉が一度も持ったことがないものだ。それを身につけるのは少し時間がかかりそうだが、先生の言うことを信じるしかない。
毎日のレッスンで、少しずつ、少しずつ、琴葉は貴族の女性らしく変わっていくのだった。
音楽のレッスンも始まった。隼人の言う通り、楽師である八重樫音夜先生は優しく、そして緩い先生だった。
「琴葉様は丁寧な音色を出されるのですね。ですが、少々固い印象を受けます。楽譜通りすぎると言いますか……。もちろん、楽譜の通りに弾くのは大切ですが、作曲背景に加えて自分の想いも乗せて弾くと、味が出ますよ。こんなふうに!」
先生が弾いてくれる。その瞬間、空気に色がついた気がした。玄や鈴葉が弾く音楽も実力を感じさせるものだったが、それとは全くベクトルが違う、特別な音色だ。
「まずは、この曲に対する自分の想いを突き詰めてみましょうか!」
今までにない音楽のレッスンに、フラッシュバックは起こることなく、むしろ心が踊った。あっという間に終わりの時間が来て、琴葉は驚いていた。今までは苦痛の時間だったはずなのに、一切苦しいと思わなかった。息がしづらかった防音室が、一気に心地よく感じられるようになったのだ。
それからというもの、琴葉は時間を見つけてはピアノを弾くようになる。また、レッスンで触れた新しい楽器や歌にも興味を持ち出した。これが、自分の身を助けることになるなんてつゆ知らず。
「今日は家で仕事をする。琴葉、いつも通り朝食後、俺の仕事部屋に来てくれるか?」
「かしこまりました。」
珀は琴葉と一緒にいる時間を増やしたいがために、婚約が決まってから、2日に1回はオフィスではなく家で仕事をするようになった。その度に琴葉は部屋に呼ばれるのだが、お茶かコーヒーを入れるくらいしかろくに手伝うことができないでいる。
全く役に立つことができていないどころか、珀の仕事の進み具合が遅くなっているのではないかと思い、悶々とする琴葉。そんな琴葉を見かねた隼人が、珀にこう進言する。
「珀様、琴葉様を聖桜学園に通わせるのはいかがでしょう。失礼ながら、今の琴葉様には宝条の次期当主の嫁としての知識が足りていないように感じます。公私ともに珀様をお支えする立場に相応しい教育を受けるべきではないかと。」
珀が一気に殺気立つ。琴葉は珀の殺気にまだ慣れていないため、毎回震えてしまう。
「おい、余計なことを言うな。」
そこに、震えを無理やり抑えた琴葉がこう挟んだ。
「珀様、私が今のままだと珀様の隣に相応しくないのは本当です。珀様のお仕事を見ているだけで、お茶かコーヒーを入れるだけで、何もできていない現状を考えると、学ぶことがたくさんあるように感じます。ただ……私には学費を払うことができません……。貴族教育の教材などをお貸しいただければ……。」
「そんなのは俺が払うから琴葉は気にしなくていい。だが……。」
一度目を閉じてから、珀がこう続ける。
「琴葉は聖桜学園に行きたいか?」
琴葉はここ1ヶ月で初めて、すっと現実に引き戻された気がした。私立聖桜学園。神楽の子であれば本来、そこに通っているはずだが、無能力者である琴葉は通うことを許されなかった、エリート校。
「……。行きたく、ありません……。申し訳ございません。」
「謝らなくていい。そうじゃないかと思ったんだ。」
優しい声でそう言う珀。恐る恐る顔を上げると、心配そうな顔が。普段あまり感情の変化を見せない珀が、琴葉の前ではそうやっていろんな表情を見せる。どうしても意識してしまって、少し顔が赤くなる。
あそこには、妹がいるのだ。そして、その妹の取り巻きたちも。皆、聖桜学園の生徒である。行けば、またストレス解消の格好の道具としていじめられ、パシられ、罵倒・暴力に苦しめられるだけだ。
「しかし、琴葉様にはやはり貴族教育を受けていただくべきかと存じます。そこでなのですが、家庭教師をおつけになるのはいかがでしょう。」
「確かに、貴族教育の遅れを取り戻すには、マンツーマンで教えてもらった方がいいかもしれない。もちろん、講師代は俺が払うから、どうだろうか、琴葉、家庭教師をつけてみないか?」
家庭教師なら。自分に今足りていないものを優先的に身につけられるかもしれない。自分を助けてくれた珀に恩返しができるようになるかもしれない。
でも、お金を払ってもらっていいのだろうか。琴葉には支払い能力はないが、とはいえ、普段も豪華な生活を送らせてもらっているのに、さらに金銭的に迷惑をかけるわけにはいかないのでは……。
「金銭面で迷っているのでしょうか。琴葉様、それではこう考えてみてはいかがでしょう。これは投資なのですよ。我々宝条家が、琴葉様に次期当主の嫁に相応しい女性になっていただくための投資。いずれ、琴葉様は公私ともに珀様を支え、日本の政治・経済を担う宝条にとって重要な役割を果たすことになります。そのためには、宝条が援助するのが筋でしょう。」
琴葉の迷いを見透かしたように、隼人が捲し立てる。
「おい、隼人、お前さっきから何様のつもりだ。そんなに前に出ることをお望みなら、あとで面倒な討伐案件をお前に譲ってやる。」
「ぎゃー!そんなこと言わないで〜!珀ひど〜い!」
いつものように茶番が始まってしまった。この2人は本当に仲がいい。
「琴葉、これまでお前はやりたいことをやれなかったのだろう?なら、これからはお前のやりたいようにやっていい。そのためには俺は何も惜しまないし、全てを与える覚悟でいる。」
ぎゃーぎゃー喚く隼人を無視して、珀がそう伝えてくれる。申し訳ない気持ちはまだあるが、ここまで言ってくれるのだ。一生懸命勉強して、珀の隣に堂々と立てるように頑張ろう、と琴葉は決意した。
「では、お言葉に甘えて……。私、一生懸命勉強します。」
「そうしてくれ。ところで、これはついでなんだが……。」
珀がまた目を伏せる。言いづらいことを言おうとする時や、文章がまとまっていなくて、言葉を選んでいる時に見せる仕草だ。長い睫毛が影を落とす。
「音楽の先生も呼ぼうと思う。」
琴葉はハッと息を呑む。珀の赤い瞳に吸い込まれたまま、何も考えることができない。音楽……?
「琴葉は嫌かもしれない。だが、これは宝条家の総意だ。神楽家について調べたが、琴葉は音楽のレッスンだけは毎日受けていたのだろう?それをやめてしまうのはもったいない。貴族は嗜み程度には音楽に触れるものだ。俺も幼い頃、楽師をつけて少しピアノを習っていた。その楽師を琴葉の先生につけようと思うんだ。」
毎日のレッスン風景が、走馬灯のように脳裏を流れる。息がしづらいレッスン室、細かく書き込まれた楽譜、次々と浴びせられる罵声、鈴葉の嘲りの声……。
でも、これは宝条の総意、つまり決定事項ということだ。従わなければ、何が起こるかわからない。
「か……かしこまりました。」
震える声で返事をする。気づけば、琴葉は珀の腕の中にいた。
「すまない、琴葉。俺は反対したんだ。琴葉の傷が癒えるまで、それまで待てないのか、と。ただ、事情があるんだ。今はまだ話せないが……時が来たら、必ず伝える。それまで、無理はせず、少しずつでいいから、レッスンを受けてほしい。」
心の真っ黒い塊が、薄れていくのを感じた。レッスンが怖くても、フラッシュバックが起こってしまっても、またここに戻ってくればいいんだ。そんな安心感を、珀は与えてくれる。
すると、抱き合う珀と琴葉を恨めしげに見ていた隼人が、少し真面目な顔になった。
「琴葉様、今までのご経験から、音楽のレッスンに恐怖を感じてしまうのはわかります。しかし、今回つく先生は厳しい先生ではなく、むしろ緩い雰囲気で、楽しいレッスンをしてくださいますよ。」
珀もうなずいている。きっと本当なのだろう。少しだけ不安が軽くなった気がした。
※ ※ ※
「琴葉様、今日から家庭教師として、貴族として必要な知識や教養、社交におけるマナー、また、貴族令嬢としての仕草やダンスなどを教えることになっております、三枝雫と申します。よろしくお願いいたします。」
「神楽琴葉と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
琴葉の貴族教育が始まった。三枝先生のレッスンは厳しいわけではないが、内容は決して簡単ではない。小学校で貴族としての知識が止まっている琴葉は、立ち姿一つとっても直すべき部分がたくさんあり、何度もやり直しをさせられた。
「先生、私、こんな状態で本当に貴族の中に入っていけるのでしょうか。全く自信がありません……。」
うまくいかないことが多く、少し弱音を漏らしてしまう琴葉。先生は真っ直ぐ琴葉を見つめて言う。
「琴葉様は小学校までしか貴族教育を受けていないとお聞きしました。ですが、今でもその時に習ったことが自然とできていらっしゃいます。大丈夫ですよ、琴葉様ならきっと、すぐに同世代の方に追いつけるでしょう。自信を持ってください、自信を失うことが貴族らしさから遠ざかる一番の原因ですよ。」
自信。琴葉が一度も持ったことがないものだ。それを身につけるのは少し時間がかかりそうだが、先生の言うことを信じるしかない。
毎日のレッスンで、少しずつ、少しずつ、琴葉は貴族の女性らしく変わっていくのだった。
音楽のレッスンも始まった。隼人の言う通り、楽師である八重樫音夜先生は優しく、そして緩い先生だった。
「琴葉様は丁寧な音色を出されるのですね。ですが、少々固い印象を受けます。楽譜通りすぎると言いますか……。もちろん、楽譜の通りに弾くのは大切ですが、作曲背景に加えて自分の想いも乗せて弾くと、味が出ますよ。こんなふうに!」
先生が弾いてくれる。その瞬間、空気に色がついた気がした。玄や鈴葉が弾く音楽も実力を感じさせるものだったが、それとは全くベクトルが違う、特別な音色だ。
「まずは、この曲に対する自分の想いを突き詰めてみましょうか!」
今までにない音楽のレッスンに、フラッシュバックは起こることなく、むしろ心が踊った。あっという間に終わりの時間が来て、琴葉は驚いていた。今までは苦痛の時間だったはずなのに、一切苦しいと思わなかった。息がしづらかった防音室が、一気に心地よく感じられるようになったのだ。
それからというもの、琴葉は時間を見つけてはピアノを弾くようになる。また、レッスンで触れた新しい楽器や歌にも興味を持ち出した。これが、自分の身を助けることになるなんてつゆ知らず。