朝起きて、すぐに玄関前の掃除をする。メイドや執事から遠ざけられている琴葉の仕事は、大抵1人でやるものばかりだ。でも、手を抜いていると、たまに鈴葉が見に来て嫌味を言ってくるから、真面目にやるしかない。
別に嫌な仕事だとは思わない。暖かくなってきて、虫が増えてきているのだけは嫌だけれど。
いつも通りほうきで地面を掃いていると、珍しく執事が声をかけてきた。
「琴葉様、玄様がお呼びです。至急、手を清めて服を着替えて、執務室へ。」
玄が琴葉を呼びつけるなんてことはほとんどない。怒られることは日常茶飯事だが、改まって何か言われることはないので、琴葉は慌てて自分の行動を振り返りながら、着替えるために自室に戻った。
「失礼いたします。」
玄の執務室に入ると、すでに鈴葉と母親である神楽冴がいた。
「もう遅いわね!学園に間に合わなくなってしまうじゃないの。」
鈴葉の文句はいつものことだ。謝罪をしっかりして流す。
「鈴葉、来週のパーティーの招待状はもう受け取っているな。浅桜家主催のものだ。」
パーティーなんて私には無縁の話だ。なぜここに来させたのだろう。
「琴葉の分の招待状が届いた。正式なものだ。浅桜とは決して良好とは言えない間柄だが、パーティーの招待が来たら参加しないのはご法度だ。だから、今回は琴葉にも参加してもらう。」
「お父様!?どういうことですの?お姉様がパーティーに出たら神楽家が笑い物になってしまうだけだわ!」
これは琴葉も鈴葉に全く同感である。もう何年もパーティーなど出ていない。社交マナーも習ったことなどないため、年頃の女性としてふさわしい行動などできるはずがない。
「私がパーティーに参加するのですか?」
「そうだと言っているだろう、何度も言わせるな。ドレスは鈴葉のものを借りて着て行きなさい。最低限の化粧もメイドにやってもらえ。鈴葉と一緒に行動しては、鈴葉が一緒になって笑われてしまうから、1人でいなさい。」
「そうよ!私にはお友だちがいるんだから、お姉様は1人で大人しくしていてちょうだい?私に迷惑かけないでよね。ドレス貸してあげるんだから。もう、お父様ったらどうして琴葉にはドレスを買ってあげないの?」
ドレスを貸すこと自体には不服そうだが、琴葉がまるで神楽家の娘として扱われていないことにいつも通り優越感に浸る鈴葉。
「承知いたしました。」
玄は琴葉がパーティーに着ていけるようなドレスを一着たりとも持っていないこともわかっていたのだ。また鈴葉のものを貸してもらうという状況を作り出して、鈴葉が怒るのもわかっているだろうに。そうまでしてもやはり、琴葉を娘だと認めたくないのだろうか。
そして何よりもパーティーに出るだなんて!幾年ぶりかわからないパーティーに心臓のあたりが憂鬱な気分で支配されていくのを感じながら、琴葉は執務室の扉を閉めた。
※ ※ ※
パーティーの日の朝。
季節に合わない深めの赤のドレスと鈴葉には似合わなかったらしい余ったメイク道具を持って、新人のメイドが2人、琴葉の部屋に現れた。つい最近入って来たばかりで、掃除用具を渡す時に一度だけ声をかけたことがある。まだ家の暗黙の了解が染み付いていないのか、他のメイドとは違って2人とも普通に話してくれたのを覚えているから、少しほっとした。
急いで支度をしてもらう。スキンケアをすることなどないため、2人が顔を見合わせて、色々頑張っているのが鏡越しにわかった。別にパーティーで何をするわけでもないのだから、そこまでしなくてもいいのに。
ヘアケアももちろんしていない。黒髪は鏡越しでもわかるくらいにバサついている。鈴葉はピンクに近いふわふわの髪で生まれてきたというのに、琴葉は黒髪ストレートというなんの面白みもない髪を持つ。双子とは信じられないほどに似ていないのだ。
「お姉様!早くしてよ!一応会場には一緒に行かなきゃいけないんだからさあ、お姉様がのんびりしてると私に迷惑がかかるんだけど!」
仕上げをしているところで、鈴葉の苛立った声が扉の向こうから聞こえる。
「申し訳ございません。今参ります。」
メイドに礼を言って、扉を開ける。
「まあ!ほんっとに似合ってないわね。今日は絶対に私に恥かかせないでよね!」
予想していた通り文句を言われる。専属の運転手が車を駐めて待っていたので、鈴葉の次に乗った。昔はいつも隣にいたのに、今では鈴葉がずっと先を走っているような気がする。
今回は神楽家と同等レベルの権力を持つ浅桜家が主催のパーティーである。なぜそこに呼ばれたのか、そもそももう何年も貴族令嬢として生きていない琴葉の存在をなぜ浅桜が知っているのか。得体の知れない不安が湧いてくるが、どうせもうこれっきりだ。今回琴葉の様子を知れば、もう誰も招待してこないだろうから。
招待状を見せて会場に入る。豪奢なシャンデリア、香水の混ざった少しきつい匂い、目がチカチカするほどに鮮やかな色とりどりのドレス。久しぶりの感覚に、少し酔ったような心地がした。
「鈴葉!」
鈴葉の取り巻きが集まってくる。琴葉は見つからないようにすっと離れた。彼女たちには嫌な思い出しかない。
「あら、鈴葉、今日は出来損ないさんも来ているの?どうして?」
見つかってしまった。こういう噂好きの令嬢たちというものは、本当にめざとい。
「そうなのよ、今回は特別に招待をいただいて、お姉様も来ているの。でも気にしないでちょうだい、私はあなたたちと一緒にいたいの。」
突き刺さるような軽蔑・侮蔑の視線。嘲りを含んだ不敵な微笑み。家族以外から向けられるそれは久しぶりで、この世の不条理を改めて実感した。
「失礼いたします。」
消え入るような声で呟くと、琴葉は踵を返して会場の端へ移動する。令嬢たちの乾いた高笑いが響いていた。
どこか隠れられるところはないか、どうせ自分が挨拶をする相手などいない。招待状だって神楽家を貶めるために出しているに違いない。そうだ、だって主催は浅桜だもの。
すると、中庭に出る扉を見つけた。恐る恐る扉を開けると、中庭には誰もいなさそうだ。ふわりと花の香りが漂う。琴葉は少し躊躇してから、足を踏み入れた。
ぐるりと庭を周ってみる。センスのある植え方で植えられている花を見て、琴葉はなんとなく才能について思いを巡らせた。きっと、色彩感覚が豊かな人が植えたのだろうな、と思い、自信の才能のなさに思わずため息が出る。
「こ…とは?」
びくりと琴葉の肩が揺れる。
「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったんだけど。」
声のする方を見ると、雅がいた。
「今日のパーティーに琴葉が来ているって聞いて、探していたんだ。僕、言わなきゃいけないことがあって。」
何か打ち明けられるのだろうか。ひどいことを言われるのかも知れない。琴葉は目を瞑った。
「婚約なんだけどさ、叔父さんのせいなんだ。僕は琴葉を助けたかったのに、邪魔されて、解消させられたんだ。手紙も送っているのに、届いていないだろう?きっと叔父さんに揉み消されているんだ。」
なんだ、そんなことか、と琴葉は目を開ける。わかっていたことだ。雅は優しいから、琴葉を見捨てるなんてことはできない。解消のきっかけは佑の死だろう。
「わかっています。雅さん、私は大丈夫です。」
「ごめん。それから…」
雅の瞳が揺れる。
「僕は諦めずに手紙を送り続けていたんだ。いつか琴葉に届いてくれたらいいって。そしたら、この間本家に呼び出されて。東北に飛ばされることになったんだ。」
どういうことだろう、耳に入った言葉が頭の中で意味を成さない。
「もう、本家には入ることができなくなった。当主権限だってさ。だから、ごめん。」
「もう、会えないのですか?」
琴葉は自分の元婚約者がいつか自分を救ってくれることを心のどこかで夢見ていた。その可能性が、これまで微かにあった光が、打ち砕かれたことに気づく。
「そう、だね。」
わかっていたことじゃないか。どうせ叶わない願いだって。また期待していたんだ。期待しないように、しないようにって気をつけていたはずなのに。
好きという感情はわからない。恋でもなかった。ただ、一緒にいるだけでよかったのに。
ああ、こんな時でも涙が出ないだなんて。
「雅さん、今までありがとうございました。素敵な時間でした。」
雅の顔が歪む。なんとか持ち直して、琴葉をまっすぐに見た。
「琴葉、今助けてやれなくてごめん。僕、東北で訓練して、いつか戻ってくるから、絶対。」
期待しないようにしないと。どうせまた玄に邪魔されるだけだ。そう思いつつ、琴葉は薄く微笑んで頷いた。
静寂が訪れる。1人に戻った中庭の空気は、琴葉の心とは裏腹に、澄み渡っていた。
慣れないヒールに足が疲れて、ベンチに腰をかける。終わる時間に戻ればいいと思い、琴葉はそこに居座ることに決めた。
どれくらいそうしていただろうか。コツコツと足音が聞こえ、思わずそちらを見る。スラリとした背丈、黒髪に赤く光る瞳。世間を知らない琴葉でもすぐにわかった。宝条珀だ。
あの宝条珀がこちらに向かってくる。まっすぐ琴葉に向かって歩みを進めて来ているのだ。息を潜めるくらいしかできない。
「隣、いいか?」
びくりとして、慌てて頷く琴葉。珀はどかりとベンチに座る。
「俺は宝条珀。お前、名前は?」
「し、がらき、こ、琴葉、です……」
緊張してカタコトになってしまう。
「神楽……。そうか、お前神楽家だったのか……。パーティーは嫌いか?」
「……好きではありませんね。あまり参加しませんし。」
「そうか。俺も嫌いでな。しばらくここにいてもいいか?」
こくこくと頷く。緊張はするが、珀の隣は不思議と心地良い。何か会話をしなくては、と思うも、会話の種が何も出てこない。沈黙が続いた。
珀がこちらを見ているのに気がつく。また慌てて珀の方を向くと、吸い込まれるような瞳で見つめられる。
「綺麗な目してんだな。」
「え?」
急に褒められて驚く。アホみたいな顔を晒してしまったかも知れないが、いきなり言ってきたのだから仕方ないだろう。
「さあ、そろそろ終わりみたいだな、戻ろうか。」
パーティーが終わる時間が近づいてくる。ハッとして会場に戻ろうと立ち上がると、すでに珀はずんずんと歩いて行ってしまっていた。なんだったのだろう……と不思議に思うが、聞くこともできなかった。
「ちょっと!どこに行ってたのよ!そろそろ迎えがくるんだから早く戻ってきなさいよね!」
鈴葉の声に、一気に現実に引き戻される。何を期待していたのだろう。私は無能力者。神楽家の出来損ない。期待なんてするだけ無駄だ。
「申し訳ございません。」
また、謝罪を繰り返すだけの日常に戻るだけ。
別に嫌な仕事だとは思わない。暖かくなってきて、虫が増えてきているのだけは嫌だけれど。
いつも通りほうきで地面を掃いていると、珍しく執事が声をかけてきた。
「琴葉様、玄様がお呼びです。至急、手を清めて服を着替えて、執務室へ。」
玄が琴葉を呼びつけるなんてことはほとんどない。怒られることは日常茶飯事だが、改まって何か言われることはないので、琴葉は慌てて自分の行動を振り返りながら、着替えるために自室に戻った。
「失礼いたします。」
玄の執務室に入ると、すでに鈴葉と母親である神楽冴がいた。
「もう遅いわね!学園に間に合わなくなってしまうじゃないの。」
鈴葉の文句はいつものことだ。謝罪をしっかりして流す。
「鈴葉、来週のパーティーの招待状はもう受け取っているな。浅桜家主催のものだ。」
パーティーなんて私には無縁の話だ。なぜここに来させたのだろう。
「琴葉の分の招待状が届いた。正式なものだ。浅桜とは決して良好とは言えない間柄だが、パーティーの招待が来たら参加しないのはご法度だ。だから、今回は琴葉にも参加してもらう。」
「お父様!?どういうことですの?お姉様がパーティーに出たら神楽家が笑い物になってしまうだけだわ!」
これは琴葉も鈴葉に全く同感である。もう何年もパーティーなど出ていない。社交マナーも習ったことなどないため、年頃の女性としてふさわしい行動などできるはずがない。
「私がパーティーに参加するのですか?」
「そうだと言っているだろう、何度も言わせるな。ドレスは鈴葉のものを借りて着て行きなさい。最低限の化粧もメイドにやってもらえ。鈴葉と一緒に行動しては、鈴葉が一緒になって笑われてしまうから、1人でいなさい。」
「そうよ!私にはお友だちがいるんだから、お姉様は1人で大人しくしていてちょうだい?私に迷惑かけないでよね。ドレス貸してあげるんだから。もう、お父様ったらどうして琴葉にはドレスを買ってあげないの?」
ドレスを貸すこと自体には不服そうだが、琴葉がまるで神楽家の娘として扱われていないことにいつも通り優越感に浸る鈴葉。
「承知いたしました。」
玄は琴葉がパーティーに着ていけるようなドレスを一着たりとも持っていないこともわかっていたのだ。また鈴葉のものを貸してもらうという状況を作り出して、鈴葉が怒るのもわかっているだろうに。そうまでしてもやはり、琴葉を娘だと認めたくないのだろうか。
そして何よりもパーティーに出るだなんて!幾年ぶりかわからないパーティーに心臓のあたりが憂鬱な気分で支配されていくのを感じながら、琴葉は執務室の扉を閉めた。
※ ※ ※
パーティーの日の朝。
季節に合わない深めの赤のドレスと鈴葉には似合わなかったらしい余ったメイク道具を持って、新人のメイドが2人、琴葉の部屋に現れた。つい最近入って来たばかりで、掃除用具を渡す時に一度だけ声をかけたことがある。まだ家の暗黙の了解が染み付いていないのか、他のメイドとは違って2人とも普通に話してくれたのを覚えているから、少しほっとした。
急いで支度をしてもらう。スキンケアをすることなどないため、2人が顔を見合わせて、色々頑張っているのが鏡越しにわかった。別にパーティーで何をするわけでもないのだから、そこまでしなくてもいいのに。
ヘアケアももちろんしていない。黒髪は鏡越しでもわかるくらいにバサついている。鈴葉はピンクに近いふわふわの髪で生まれてきたというのに、琴葉は黒髪ストレートというなんの面白みもない髪を持つ。双子とは信じられないほどに似ていないのだ。
「お姉様!早くしてよ!一応会場には一緒に行かなきゃいけないんだからさあ、お姉様がのんびりしてると私に迷惑がかかるんだけど!」
仕上げをしているところで、鈴葉の苛立った声が扉の向こうから聞こえる。
「申し訳ございません。今参ります。」
メイドに礼を言って、扉を開ける。
「まあ!ほんっとに似合ってないわね。今日は絶対に私に恥かかせないでよね!」
予想していた通り文句を言われる。専属の運転手が車を駐めて待っていたので、鈴葉の次に乗った。昔はいつも隣にいたのに、今では鈴葉がずっと先を走っているような気がする。
今回は神楽家と同等レベルの権力を持つ浅桜家が主催のパーティーである。なぜそこに呼ばれたのか、そもそももう何年も貴族令嬢として生きていない琴葉の存在をなぜ浅桜が知っているのか。得体の知れない不安が湧いてくるが、どうせもうこれっきりだ。今回琴葉の様子を知れば、もう誰も招待してこないだろうから。
招待状を見せて会場に入る。豪奢なシャンデリア、香水の混ざった少しきつい匂い、目がチカチカするほどに鮮やかな色とりどりのドレス。久しぶりの感覚に、少し酔ったような心地がした。
「鈴葉!」
鈴葉の取り巻きが集まってくる。琴葉は見つからないようにすっと離れた。彼女たちには嫌な思い出しかない。
「あら、鈴葉、今日は出来損ないさんも来ているの?どうして?」
見つかってしまった。こういう噂好きの令嬢たちというものは、本当にめざとい。
「そうなのよ、今回は特別に招待をいただいて、お姉様も来ているの。でも気にしないでちょうだい、私はあなたたちと一緒にいたいの。」
突き刺さるような軽蔑・侮蔑の視線。嘲りを含んだ不敵な微笑み。家族以外から向けられるそれは久しぶりで、この世の不条理を改めて実感した。
「失礼いたします。」
消え入るような声で呟くと、琴葉は踵を返して会場の端へ移動する。令嬢たちの乾いた高笑いが響いていた。
どこか隠れられるところはないか、どうせ自分が挨拶をする相手などいない。招待状だって神楽家を貶めるために出しているに違いない。そうだ、だって主催は浅桜だもの。
すると、中庭に出る扉を見つけた。恐る恐る扉を開けると、中庭には誰もいなさそうだ。ふわりと花の香りが漂う。琴葉は少し躊躇してから、足を踏み入れた。
ぐるりと庭を周ってみる。センスのある植え方で植えられている花を見て、琴葉はなんとなく才能について思いを巡らせた。きっと、色彩感覚が豊かな人が植えたのだろうな、と思い、自信の才能のなさに思わずため息が出る。
「こ…とは?」
びくりと琴葉の肩が揺れる。
「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったんだけど。」
声のする方を見ると、雅がいた。
「今日のパーティーに琴葉が来ているって聞いて、探していたんだ。僕、言わなきゃいけないことがあって。」
何か打ち明けられるのだろうか。ひどいことを言われるのかも知れない。琴葉は目を瞑った。
「婚約なんだけどさ、叔父さんのせいなんだ。僕は琴葉を助けたかったのに、邪魔されて、解消させられたんだ。手紙も送っているのに、届いていないだろう?きっと叔父さんに揉み消されているんだ。」
なんだ、そんなことか、と琴葉は目を開ける。わかっていたことだ。雅は優しいから、琴葉を見捨てるなんてことはできない。解消のきっかけは佑の死だろう。
「わかっています。雅さん、私は大丈夫です。」
「ごめん。それから…」
雅の瞳が揺れる。
「僕は諦めずに手紙を送り続けていたんだ。いつか琴葉に届いてくれたらいいって。そしたら、この間本家に呼び出されて。東北に飛ばされることになったんだ。」
どういうことだろう、耳に入った言葉が頭の中で意味を成さない。
「もう、本家には入ることができなくなった。当主権限だってさ。だから、ごめん。」
「もう、会えないのですか?」
琴葉は自分の元婚約者がいつか自分を救ってくれることを心のどこかで夢見ていた。その可能性が、これまで微かにあった光が、打ち砕かれたことに気づく。
「そう、だね。」
わかっていたことじゃないか。どうせ叶わない願いだって。また期待していたんだ。期待しないように、しないようにって気をつけていたはずなのに。
好きという感情はわからない。恋でもなかった。ただ、一緒にいるだけでよかったのに。
ああ、こんな時でも涙が出ないだなんて。
「雅さん、今までありがとうございました。素敵な時間でした。」
雅の顔が歪む。なんとか持ち直して、琴葉をまっすぐに見た。
「琴葉、今助けてやれなくてごめん。僕、東北で訓練して、いつか戻ってくるから、絶対。」
期待しないようにしないと。どうせまた玄に邪魔されるだけだ。そう思いつつ、琴葉は薄く微笑んで頷いた。
静寂が訪れる。1人に戻った中庭の空気は、琴葉の心とは裏腹に、澄み渡っていた。
慣れないヒールに足が疲れて、ベンチに腰をかける。終わる時間に戻ればいいと思い、琴葉はそこに居座ることに決めた。
どれくらいそうしていただろうか。コツコツと足音が聞こえ、思わずそちらを見る。スラリとした背丈、黒髪に赤く光る瞳。世間を知らない琴葉でもすぐにわかった。宝条珀だ。
あの宝条珀がこちらに向かってくる。まっすぐ琴葉に向かって歩みを進めて来ているのだ。息を潜めるくらいしかできない。
「隣、いいか?」
びくりとして、慌てて頷く琴葉。珀はどかりとベンチに座る。
「俺は宝条珀。お前、名前は?」
「し、がらき、こ、琴葉、です……」
緊張してカタコトになってしまう。
「神楽……。そうか、お前神楽家だったのか……。パーティーは嫌いか?」
「……好きではありませんね。あまり参加しませんし。」
「そうか。俺も嫌いでな。しばらくここにいてもいいか?」
こくこくと頷く。緊張はするが、珀の隣は不思議と心地良い。何か会話をしなくては、と思うも、会話の種が何も出てこない。沈黙が続いた。
珀がこちらを見ているのに気がつく。また慌てて珀の方を向くと、吸い込まれるような瞳で見つめられる。
「綺麗な目してんだな。」
「え?」
急に褒められて驚く。アホみたいな顔を晒してしまったかも知れないが、いきなり言ってきたのだから仕方ないだろう。
「さあ、そろそろ終わりみたいだな、戻ろうか。」
パーティーが終わる時間が近づいてくる。ハッとして会場に戻ろうと立ち上がると、すでに珀はずんずんと歩いて行ってしまっていた。なんだったのだろう……と不思議に思うが、聞くこともできなかった。
「ちょっと!どこに行ってたのよ!そろそろ迎えがくるんだから早く戻ってきなさいよね!」
鈴葉の声に、一気に現実に引き戻される。何を期待していたのだろう。私は無能力者。神楽家の出来損ない。期待なんてするだけ無駄だ。
「申し訳ございません。」
また、謝罪を繰り返すだけの日常に戻るだけ。