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穏やかな月日が巡り、御殿では寧々子が子を宿したらしいという噂が立った。しかし、寧々子に起きた異変もまた、皆の知るところとなった。
寧々子は心ここにあらずといった様子で、夜中に床を抜け出してさまようようになった。女中たちは幾度となく寧々子の後を追い、その理由を探ろうとした。
徘徊する寧々子は突然足を止め、しゃがみ込んで何かに話しかける。場所は殿舎の隅であったり、庭園の石灯籠の隣であったり、はたまた清流のほとりであったりとまちまちであった。
寧々子は耳をそばだてる女中に気づく気配はない。話に夢中なようで、時折笑ったり、悲しげにうつむいたりする。
女中たちはまもなく気づいた。寧々子の優しそうな声色は、あたかも子供に語りかけているようだと。そして殿舎の隅で呼びかける名に、女中たちは驚愕した。
――正彦様。
それは奇病を患い、五歳の若さで早世した、正室である弥生の子の名であった。しかもその殿舎は、正彦が息を引き取った場所である。
さらに庭園で語るときは「佐生様」、川のほとりでは「やこ様」と呼んでいた。寧々子が呼ぶ名は、たしかにそれぞれの場所で亡くなった子らの名であったのだ。
女中らは口々に噂をする。
寧々子様には、亡き子らが視え、その声が聴こえているのではないか。竜規様の子を宿したその日、天から特別な力を授かったのではないか、と。その噂もまた、奔馬のごとく御殿を駆け巡った。
まもなく奥方らは御書院に集められた。集いの令は正室の弥生からであった。その場には上臈御年寄の尼音も呼ばれた。
さっそく弥生が口火を切る。
「寧々子や、そなたにお尋ね申す」
「はい?」
「もしやそなたは、子らの魂魄が見えるのか?」
「魂魄、と申しますと?」
「ここにいる皆が、わが子を失っているのは聞いているであろう」
皆の視線が寧々子に釘付けになる。すると寧々子はゆっくりとうなずいた。
「やはり……わたくしに視えているのは、その子たちだったのですね」
刹那、側室のひとりであるみやがわっと泣き出した。
「ああ、どうかやこに会わせておくれ! たとえ抱きしめられずとも、もう一度言葉を交わしたいのじゃ!」
その願いは皆、同じであった。しかし、不安定に揺れた空気を律したのは弥生であった。
「お待ちなさい。それこそが呪いの権化かもしれません。憎き悪霊が、寧々子に憑いて子の幻影を見せているのかもしれません」
けれど寧々子に動揺はない。淡々と言い返す。
「いえ、そうではなさそうでございます」
「何故にそう言えるのか?」
「正彦様が、自分はある者に殺されたのだ、ほかの子らもそうなのだと語ったからです」
「なんですと!?」
皆は飛び上がるほど驚いた。たしかに最初に亡くなったのは弥生の息子、正彦であった。寧々子の言うことが正しいのであれば――。
弥生は息を荒くして寧々子に問いただす。
「寧々子、ならばそなたは子らを殺めた咎人が誰なのか、知っておるのか?」
しかし寧々子は困った様子で首を横に振る。
「今はわかりません。けれど明日の夜、その咎人が誰なのか知ることができるでしょう」
場がざわつくのも意に介せず、寧々子は続ける。
「正彦様が言ったのです。月が満ちる夜、子の刻に北山の祠で待っていると。そこで、自分を殺した者の名を教えるのだと」
「まことであるか!?」
「はい。ですから満月となる明日の夜、わたくしは祠を訪れてみるつもりです」
寧々子は立ち上がり、唖然とする奥方たちを残して御書院を後にした。
そして翌日、寧々子は夜の帳が落ちた山道をひとりで登り始めたのであった。
穏やかな月日が巡り、御殿では寧々子が子を宿したらしいという噂が立った。しかし、寧々子に起きた異変もまた、皆の知るところとなった。
寧々子は心ここにあらずといった様子で、夜中に床を抜け出してさまようようになった。女中たちは幾度となく寧々子の後を追い、その理由を探ろうとした。
徘徊する寧々子は突然足を止め、しゃがみ込んで何かに話しかける。場所は殿舎の隅であったり、庭園の石灯籠の隣であったり、はたまた清流のほとりであったりとまちまちであった。
寧々子は耳をそばだてる女中に気づく気配はない。話に夢中なようで、時折笑ったり、悲しげにうつむいたりする。
女中たちはまもなく気づいた。寧々子の優しそうな声色は、あたかも子供に語りかけているようだと。そして殿舎の隅で呼びかける名に、女中たちは驚愕した。
――正彦様。
それは奇病を患い、五歳の若さで早世した、正室である弥生の子の名であった。しかもその殿舎は、正彦が息を引き取った場所である。
さらに庭園で語るときは「佐生様」、川のほとりでは「やこ様」と呼んでいた。寧々子が呼ぶ名は、たしかにそれぞれの場所で亡くなった子らの名であったのだ。
女中らは口々に噂をする。
寧々子様には、亡き子らが視え、その声が聴こえているのではないか。竜規様の子を宿したその日、天から特別な力を授かったのではないか、と。その噂もまた、奔馬のごとく御殿を駆け巡った。
まもなく奥方らは御書院に集められた。集いの令は正室の弥生からであった。その場には上臈御年寄の尼音も呼ばれた。
さっそく弥生が口火を切る。
「寧々子や、そなたにお尋ね申す」
「はい?」
「もしやそなたは、子らの魂魄が見えるのか?」
「魂魄、と申しますと?」
「ここにいる皆が、わが子を失っているのは聞いているであろう」
皆の視線が寧々子に釘付けになる。すると寧々子はゆっくりとうなずいた。
「やはり……わたくしに視えているのは、その子たちだったのですね」
刹那、側室のひとりであるみやがわっと泣き出した。
「ああ、どうかやこに会わせておくれ! たとえ抱きしめられずとも、もう一度言葉を交わしたいのじゃ!」
その願いは皆、同じであった。しかし、不安定に揺れた空気を律したのは弥生であった。
「お待ちなさい。それこそが呪いの権化かもしれません。憎き悪霊が、寧々子に憑いて子の幻影を見せているのかもしれません」
けれど寧々子に動揺はない。淡々と言い返す。
「いえ、そうではなさそうでございます」
「何故にそう言えるのか?」
「正彦様が、自分はある者に殺されたのだ、ほかの子らもそうなのだと語ったからです」
「なんですと!?」
皆は飛び上がるほど驚いた。たしかに最初に亡くなったのは弥生の息子、正彦であった。寧々子の言うことが正しいのであれば――。
弥生は息を荒くして寧々子に問いただす。
「寧々子、ならばそなたは子らを殺めた咎人が誰なのか、知っておるのか?」
しかし寧々子は困った様子で首を横に振る。
「今はわかりません。けれど明日の夜、その咎人が誰なのか知ることができるでしょう」
場がざわつくのも意に介せず、寧々子は続ける。
「正彦様が言ったのです。月が満ちる夜、子の刻に北山の祠で待っていると。そこで、自分を殺した者の名を教えるのだと」
「まことであるか!?」
「はい。ですから満月となる明日の夜、わたくしは祠を訪れてみるつもりです」
寧々子は立ち上がり、唖然とする奥方たちを残して御書院を後にした。
そして翌日、寧々子は夜の帳が落ちた山道をひとりで登り始めたのであった。