時代は江戸となり百代の時を経た。
古くからみちのくの一角を治めてきた白垣藩は、その長い歴史に終止符を打とうとしていた。
藩主である白垣竜規は、家来たちからの忠義も厚く、民の平穏を第一に願う良き君主であった。彼の整った顔立ちと優雅な歩き姿、そして洗練された着物姿は、民の間でも広く知られていた。
ゆえに、誰もが白垣藩の繁栄を疑うことはなかった。
しかし、甚大な問題が一つ。それは藩主に世継ぎができないことであった。
六人の奥方は皆、ひとりずつ子をもうけた。しかし、水の事故に遭ったり奇病を患ったりして、皆、夭逝してしまったのだ。
二十余年にわたり住み込みで白垣藩に奉公していた上臈御年寄の尼音は、幼子が逝去するたびに亡骸の前で顔を覆い、嗚咽をあげた。
尼音は隣国から高名な僧侶を呼び寄せた。僧侶いわく、「戦で散った敵方の武将たちの魂魄が、悪霊となって白垣に呪いをかけたのだ」とのことである。
確かに白垣藩は、戦国時代から隣国の赤羅門と剣を交え、多くの血を流していた。赤羅門は挑発的な密書を送りつけ、白垣の領地で略奪や人さらいを行っていたからである。
僧侶の悪霊話は、噂好きの奥女中から白垣藩中に広がった。ほんの数日で、白垣藩の誰もがその呪いを真実として信じ込んだ。
悪霊が相手では、手の打ちようなどあるはずもない。奥方たちは皆、悲しみの上塗りを恐れ、子をもうけることを拒むようになった。
御殿は厚い雨雲に覆われたかのように、悄然とした空気に包まれている。いよいよ家臣たちは危機感を募らせた。
「これでは白垣の伝統が、竜規様の代で終わってしまう!」
「家臣として、先代の藩主様たちに申し訳が立ちませぬ!」
「そのような事態に陥れば、自害するほかにすべはなし!」
暗礁に乗り上げた世継ぎ問題に終止符を打つべく、家臣たちは竜規に内密で策を練った。
――よし、新たな奥方を探そう。
家臣たちは藩の領地内を駆け巡り、丈夫で健全な女性を探し回った。
そして、ついに新たな奥方が選び抜かれた。側用人である佐一は竜規に願い出た。
「竜規様、どうかもう一度だけ、側室を迎えていただけませんか」
竜規は佐一の審美眼には一目置いている。しかし、唐突にそう言われても乗り気にはなれない。
とはいえ、藩の存続を思う家臣の努力を無下にするわけにもいかない。お気に召さなければ断ればよいでしょうと諭され、しぶしぶ首を縦に振った。
そして初会の日が訪れた。
竜規の目前でかしこまる娘は礼儀正しく、気品を備えているように見えた。
「竜規様、このたびはわたくしのような身分の者を御殿へお招きいただき、誠にありがとうございます。わたくしは寧々子と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
佐一は満足げに寧々子の身の上を明かす。
「支那の国から伝わった唐手を教える道場に、範士の森末という者がおりました。寧々子はその者の娘ですが、幼少時より鍛えられていたようで、逞しさも胆力も、そんじょそこらの娘とは比べ物になりません」
しかし、寧々子という女子は、この御殿という鳥籠で生きるには、あまりにもあどけなく、無知なように思えた。竜規は、厳格な作法や稽古事を叩き込まれ、すぐに音を上げるのではないかと懸念した。
けれど、それだけではない。今まで竜規が娶った娘たちは皆、初見の際に胸を躍らせているのがありありと伝わってきた。ところが、寧々子は平然としていて、心を乱す様子がまったくないのだ。
自身に興味を抱かない女など、奥方として迎える理由はひとつもない。すぐさまこの場から立ち去って欲しいとさえ思った。
「もうよい、下がれ。佐一から茶代を受け取り帰るがよい」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
寧々子はすっと立ち上がり振り向いた。後ろ髪を引かれる様子は一切ない。けれど、その直後――竜規の目は寧々子の背中姿に釘付けとなった。
ほんの数歩にすぎなかったが、寧々子の足はしっかりと畳を踏みしめ、わずかな緩みも見せなかった。そんな隙のない歩を垣間見たのは、竜規が知る限り、一握りの高名な武将だけである。
「いや待て」
竜規はすぐさま寧々子を引き止めた。寧々子は足を止めて振り返る。
「なんでございましょう、竜規様」
「無理強いをするつもりはないが、この奥向きの暮らしを味わってみてはどうだろうか」
「それは……わたくしを奥方としてお迎えくださるということですか?」
「さようである」
意外だったのか、それとも心外だったのか、とにかく寧々子はきゅっと口元を引き結んだ。振り向いてその場に座り直し、深々と首を垂れる。
「御殿での暮らしは尼音がなんでも教えてくれる。思い悩んだら遠慮なく相談するがよい」
「竜規様のお心遣い、誠に嬉しく思います。それではひとつ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ、言ってみろ」
「呪いの噂とは、まことでございましょうか」
噂は民の間にも広まっていたようであった。
「そんな戯言、信じることはない」
「ああ、それは残念です。その呪いの真相を知りたくて、心を躍らせて訪れたのですが」
寧々子はまっすぐなまなざしで竜規を見据え、くすりと笑った。その度胸に、なるほど家臣たちの尽力は伊達ではなかったなと、竜規の心は少しばかり沸き立った。
以来、竜規は頻繁に寧々子と夜をともにするようになった。竜規にたいそう気に入られたのだろうと、奥方たちは寧々子をしきりに羨ましがっていた。
古くからみちのくの一角を治めてきた白垣藩は、その長い歴史に終止符を打とうとしていた。
藩主である白垣竜規は、家来たちからの忠義も厚く、民の平穏を第一に願う良き君主であった。彼の整った顔立ちと優雅な歩き姿、そして洗練された着物姿は、民の間でも広く知られていた。
ゆえに、誰もが白垣藩の繁栄を疑うことはなかった。
しかし、甚大な問題が一つ。それは藩主に世継ぎができないことであった。
六人の奥方は皆、ひとりずつ子をもうけた。しかし、水の事故に遭ったり奇病を患ったりして、皆、夭逝してしまったのだ。
二十余年にわたり住み込みで白垣藩に奉公していた上臈御年寄の尼音は、幼子が逝去するたびに亡骸の前で顔を覆い、嗚咽をあげた。
尼音は隣国から高名な僧侶を呼び寄せた。僧侶いわく、「戦で散った敵方の武将たちの魂魄が、悪霊となって白垣に呪いをかけたのだ」とのことである。
確かに白垣藩は、戦国時代から隣国の赤羅門と剣を交え、多くの血を流していた。赤羅門は挑発的な密書を送りつけ、白垣の領地で略奪や人さらいを行っていたからである。
僧侶の悪霊話は、噂好きの奥女中から白垣藩中に広がった。ほんの数日で、白垣藩の誰もがその呪いを真実として信じ込んだ。
悪霊が相手では、手の打ちようなどあるはずもない。奥方たちは皆、悲しみの上塗りを恐れ、子をもうけることを拒むようになった。
御殿は厚い雨雲に覆われたかのように、悄然とした空気に包まれている。いよいよ家臣たちは危機感を募らせた。
「これでは白垣の伝統が、竜規様の代で終わってしまう!」
「家臣として、先代の藩主様たちに申し訳が立ちませぬ!」
「そのような事態に陥れば、自害するほかにすべはなし!」
暗礁に乗り上げた世継ぎ問題に終止符を打つべく、家臣たちは竜規に内密で策を練った。
――よし、新たな奥方を探そう。
家臣たちは藩の領地内を駆け巡り、丈夫で健全な女性を探し回った。
そして、ついに新たな奥方が選び抜かれた。側用人である佐一は竜規に願い出た。
「竜規様、どうかもう一度だけ、側室を迎えていただけませんか」
竜規は佐一の審美眼には一目置いている。しかし、唐突にそう言われても乗り気にはなれない。
とはいえ、藩の存続を思う家臣の努力を無下にするわけにもいかない。お気に召さなければ断ればよいでしょうと諭され、しぶしぶ首を縦に振った。
そして初会の日が訪れた。
竜規の目前でかしこまる娘は礼儀正しく、気品を備えているように見えた。
「竜規様、このたびはわたくしのような身分の者を御殿へお招きいただき、誠にありがとうございます。わたくしは寧々子と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
佐一は満足げに寧々子の身の上を明かす。
「支那の国から伝わった唐手を教える道場に、範士の森末という者がおりました。寧々子はその者の娘ですが、幼少時より鍛えられていたようで、逞しさも胆力も、そんじょそこらの娘とは比べ物になりません」
しかし、寧々子という女子は、この御殿という鳥籠で生きるには、あまりにもあどけなく、無知なように思えた。竜規は、厳格な作法や稽古事を叩き込まれ、すぐに音を上げるのではないかと懸念した。
けれど、それだけではない。今まで竜規が娶った娘たちは皆、初見の際に胸を躍らせているのがありありと伝わってきた。ところが、寧々子は平然としていて、心を乱す様子がまったくないのだ。
自身に興味を抱かない女など、奥方として迎える理由はひとつもない。すぐさまこの場から立ち去って欲しいとさえ思った。
「もうよい、下がれ。佐一から茶代を受け取り帰るがよい」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
寧々子はすっと立ち上がり振り向いた。後ろ髪を引かれる様子は一切ない。けれど、その直後――竜規の目は寧々子の背中姿に釘付けとなった。
ほんの数歩にすぎなかったが、寧々子の足はしっかりと畳を踏みしめ、わずかな緩みも見せなかった。そんな隙のない歩を垣間見たのは、竜規が知る限り、一握りの高名な武将だけである。
「いや待て」
竜規はすぐさま寧々子を引き止めた。寧々子は足を止めて振り返る。
「なんでございましょう、竜規様」
「無理強いをするつもりはないが、この奥向きの暮らしを味わってみてはどうだろうか」
「それは……わたくしを奥方としてお迎えくださるということですか?」
「さようである」
意外だったのか、それとも心外だったのか、とにかく寧々子はきゅっと口元を引き結んだ。振り向いてその場に座り直し、深々と首を垂れる。
「御殿での暮らしは尼音がなんでも教えてくれる。思い悩んだら遠慮なく相談するがよい」
「竜規様のお心遣い、誠に嬉しく思います。それではひとつ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ、言ってみろ」
「呪いの噂とは、まことでございましょうか」
噂は民の間にも広まっていたようであった。
「そんな戯言、信じることはない」
「ああ、それは残念です。その呪いの真相を知りたくて、心を躍らせて訪れたのですが」
寧々子はまっすぐなまなざしで竜規を見据え、くすりと笑った。その度胸に、なるほど家臣たちの尽力は伊達ではなかったなと、竜規の心は少しばかり沸き立った。
以来、竜規は頻繁に寧々子と夜をともにするようになった。竜規にたいそう気に入られたのだろうと、奥方たちは寧々子をしきりに羨ましがっていた。