時代は江戸となり百代(ももよ)の時を経た。

古くからみちのくの一角を治めてきた白垣(しらがき)藩は、その長い歴史に終止符を打とうとしていた。

藩主である白垣竜規(たつのり)は、家来たちからの忠義も厚く、民の平穏を第一に願う良き君主であった。彼の整った顔立ちと優雅な歩き姿、そして洗練された着物姿は、民の間でも広く知られていた。

ゆえに、誰もが白垣藩の繁栄を疑うことはなかった。

しかし、甚大な問題が一つ。それは藩主に世継ぎができないことであった。

六人の奥方は皆、ひとりずつ子をもうけた。しかし、水の事故に遭ったり奇病を患ったりして、皆、夭逝(ようせい)してしまったのだ。

二十余年にわたり住み込みで白垣藩に奉公していた上臈御年寄(じょうろうおとしより)尼音(あまね)は、幼子が逝去するたびに亡骸の前で顔を覆い、嗚咽をあげた。

尼音は隣国から高名な僧侶を呼び寄せた。僧侶いわく、「戦で散った敵方の武将たちの魂魄が、悪霊となって白垣に呪いをかけたのだ」とのことである。

確かに白垣藩は、戦国時代から隣国の赤羅門と剣を交え、多くの血を流していた。赤羅門は挑発的な密書を送りつけ、白垣の領地で略奪や人さらいを行っていたからである。

僧侶の悪霊話は、噂好きの奥女中から白垣藩中に広がった。ほんの数日で、白垣藩の誰もがその呪いを真実として信じ込んだ。

悪霊が相手では、手の打ちようなどあるはずもない。奥方たちは皆、悲しみの上塗りを恐れ、子をもうけることを拒むようになった。

御殿は厚い雨雲に覆われたかのように、悄然とした空気に包まれている。いよいよ家臣たちは危機感を募らせた。

「これでは白垣の伝統が、竜規様の代で終わってしまう!」
「家臣として、先代の藩主様たちに申し訳が立ちませぬ!」
「そのような事態に陥れば、自害するほかにすべはなし!」

暗礁に乗り上げた世継ぎ問題に終止符を打つべく、家臣たちは竜規に内密で策を練った。

――よし、新たな奥方を探そう。

家臣たちは藩の領地内を駆け巡り、丈夫で健全な女性を探し回った。

そして、ついに新たな奥方が選び抜かれた。側用人(そばようにん)である佐一(さいち)は竜規に願い出た。

「竜規様、どうかもう一度だけ、側室を迎えていただけませんか」

竜規は佐一の審美眼には一目置いている。しかし、唐突にそう言われても乗り気にはなれない。

とはいえ、藩の存続を思う家臣の努力を無下にするわけにもいかない。お気に召さなければ断ればよいでしょうと諭され、しぶしぶ首を縦に振った。

そして初会の日が訪れた。

竜規の目前でかしこまる娘は礼儀正しく、気品を備えているように見えた。

「竜規様、このたびはわたくしのような身分の者を御殿へお招きいただき、誠にありがとうございます。わたくしは寧々子(ねねこ)と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」

佐一は満足げに寧々子の身の上を明かす。

支那(しな)の国から伝わった唐手(からて)を教える道場に、範士の森末という者がおりました。寧々子はその者の娘ですが、幼少時より鍛えられていたようで、逞しさも胆力も、そんじょそこらの娘とは比べ物になりません」

しかし、寧々子という女子(おなご)は、この御殿という鳥籠で生きるには、あまりにもあどけなく、無知なように思えた。竜規は、厳格な作法や稽古事を叩き込まれ、すぐに音を上げるのではないかと懸念した。

けれど、それだけではない。今まで竜規が(めと)った娘たちは皆、初見の際に胸を躍らせているのがありありと伝わってきた。ところが、寧々子は平然としていて、心を乱す様子がまったくないのだ。

自身に興味を抱かない女など、奥方として迎える理由はひとつもない。すぐさまこの場から立ち去って欲しいとさえ思った。

「もうよい、下がれ。佐一から茶代を受け取り帰るがよい」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」

寧々子はすっと立ち上がり振り向いた。後ろ髪を引かれる様子は一切ない。けれど、その直後――竜規の目は寧々子の背中姿に釘付けとなった。

ほんの数歩にすぎなかったが、寧々子の足はしっかりと畳を踏みしめ、わずかな緩みも見せなかった。そんな隙のない歩を垣間見たのは、竜規が知る限り、一握りの高名な武将だけである。

「いや待て」

竜規はすぐさま寧々子を引き止めた。寧々子は足を止めて振り返る。

「なんでございましょう、竜規様」
「無理強いをするつもりはないが、この奥向きの暮らしを味わってみてはどうだろうか」
「それは……わたくしを奥方としてお迎えくださるということですか?」
「さようである」

意外だったのか、それとも心外だったのか、とにかく寧々子はきゅっと口元を引き結んだ。振り向いてその場に座り直し、深々と首を垂れる。

「御殿での暮らしは尼音がなんでも教えてくれる。思い悩んだら遠慮なく相談するがよい」
「竜規様のお心遣い、誠に嬉しく思います。それではひとつ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ、言ってみろ」
「呪いの噂とは、まことでございましょうか」

噂は民の間にも広まっていたようであった。

「そんな戯言、信じることはない」
「ああ、それは残念です。その呪いの真相を知りたくて、心を躍らせて訪れたのですが」

寧々子はまっすぐなまなざしで竜規を見据え、くすりと笑った。その度胸に、なるほど家臣たちの尽力は伊達ではなかったなと、竜規の心は少しばかり沸き立った。

以来、竜規は頻繁に寧々子と夜をともにするようになった。竜規にたいそう気に入られたのだろうと、奥方たちは寧々子をしきりに羨ましがっていた。


穏やかな月日が巡り、御殿では寧々子が子を宿したらしいという噂が立った。しかし、寧々子に起きた異変もまた、皆の知るところとなった。

寧々子は心ここにあらずといった様子で、夜中に床を抜け出してさまようようになった。女中たちは幾度となく寧々子の後を追い、その理由を探ろうとした。

徘徊する寧々子は突然足を止め、しゃがみ込んで何かに話しかける。場所は殿舎の隅であったり、庭園の石灯籠の隣であったり、はたまた清流のほとりであったりとまちまちであった。

寧々子は耳をそばだてる女中に気づく気配はない。話に夢中なようで、時折笑ったり、悲しげにうつむいたりする。

女中たちはまもなく気づいた。寧々子の優しそうな声色は、あたかも子供に語りかけているようだと。そして殿舎の隅で呼びかける名に、女中たちは驚愕した。

――正彦(まさひこ)様。

それは奇病を患い、五歳の若さで早世した、正室である弥生の子の名であった。しかもその殿舎は、正彦が息を引き取った場所である。

さらに庭園で語るときは「佐生(さお)様」、川のほとりでは「やこ様」と呼んでいた。寧々子が呼ぶ名は、たしかにそれぞれの場所で亡くなった子らの名であったのだ。

女中らは口々に噂をする。

寧々子様には、亡き子らが視え、その声が聴こえているのではないか。竜規様の子を宿したその日、天から特別な力を授かったのではないか、と。その噂もまた、奔馬のごとく御殿を駆け巡った。

まもなく奥方らは御書院に集められた。集いの令は正室の弥生からであった。その場には上臈御年寄の尼音も呼ばれた。

さっそく弥生が口火を切る。

「寧々子や、そなたにお尋ね申す」
「はい?」
「もしやそなたは、子らの魂魄が見えるのか?」
「魂魄、と申しますと?」
「ここにいる皆が、わが子を失っているのは聞いているであろう」

皆の視線が寧々子に釘付けになる。すると寧々子はゆっくりとうなずいた。

「やはり……わたくしに視えているのは、その子たちだったのですね」

刹那、側室のひとりであるみや(・・)がわっと泣き出した。

「ああ、どうかやこ(・・)に会わせておくれ! たとえ抱きしめられずとも、もう一度言葉を交わしたいのじゃ!」

その願いは皆、同じであった。しかし、不安定に揺れた空気を律したのは弥生であった。

「お待ちなさい。それこそが呪いの権化かもしれません。憎き悪霊が、寧々子に憑いて子の幻影を見せているのかもしれません」

けれど寧々子に動揺はない。淡々と言い返す。

「いえ、そうではなさそうでございます」
「何故にそう言えるのか?」
「正彦様が、自分はある者に殺されたのだ、ほかの子らもそうなのだと語ったからです」
「なんですと!?」

皆は飛び上がるほど驚いた。たしかに最初に亡くなったのは弥生の息子、正彦であった。寧々子の言うことが正しいのであれば――。

弥生は息を荒くして寧々子に問いただす。

「寧々子、ならばそなたは子らを(あや)めた咎人(とがにん)が誰なのか、知っておるのか?」

しかし寧々子は困った様子で首を横に振る。

「今はわかりません。けれど明日の夜、その咎人が誰なのか知ることができるでしょう」

場がざわつくのも意に介せず、寧々子は続ける。

「正彦様が言ったのです。月が満ちる夜、()の刻に北山(ほくざん)(ほこら)で待っていると。そこで、自分を殺した者の名を教えるのだと」
「まことであるか!?」
「はい。ですから満月となる明日の夜、わたくしは祠を訪れてみるつもりです」

寧々子は立ち上がり、唖然とする奥方たちを残して御書院を後にした。

そして翌日、寧々子は夜の帳が落ちた山道をひとりで登り始めたのであった。


時は、寧々子と竜規の初夜に遡る。

寧々子は寝間着をまとったまま布団の上で仰向けになり、すっかり固まっていた。その様子はまるで化粧箱にしまわれた日本人形のようである。

「身を捧げると決心したからには、後には引けません。さあどうぞ」
「覚悟を決めたところで申し訳ないが、余はおぬしと夜伽をするつもりなど毛頭ない」
「それでは何故、わたくしのところにおいでになったのですか?」

竜規はきょとんとする寧々子の隣にあぐらをかき、半身をかがめて耳元でささやいた。

「余の手足となってほしいのだ」
「どういう意味でございましょうか?」

寧々子は身を起こして膝を正し、竜規と向き合った。行燈の光に照らされた無垢な顔には、疑念と興味が入り混じっている。

「余の子らが皆、早世しているのは承知しているであろう?」
「はい。呪いのせいだと聞いています。心中をお察し申し上げます」
「では問うが、おぬしは呪いというものを信じるか」
「いいえ。呪いなどがあれば、将軍様は皆、とっくに死んでいるに違いありませんから」

竜規は的を射た答えに、いささか驚嘆の顔をした。

「さようであろうな。では、なぜ呪いについて尋ねたか、余の意図を汲めるか?」

寧々子は、目を細めてためらいなく答える。

「竜規様は、子らの死の理由が誰かの所業だとお考えなのでしょう」
「そうだ。察しが良いな」

竜規の漆黒の双眸が輝きを増す。

「ということは、わたくしに咎人を探させようと?」
「そういうことだ。なぜならおぬしはこの御殿で唯一、潔白な者だからな」

「そのような理由でわたくしを側室にされたのですね。腑に落ちました」
「おぬしは肝が据わっておるだけでなく、賢さも持ち合わせておるようだな」
「お褒めにあずかり嬉しゅうございます」
「しかし子らがいない今、どうやって咎人を突き止めるか……」

竜規は顎に手を当てて深く思案するが、良い手立てが浮かばない様子である。すると突然、寧々子の表情が光を帯びた。

「竜規様、わたくしに良い考えがあります。咎人が誰か、突き止める方法を思いつきました」
「なんと、それはまことか!?」
「ですが、うまく立ち回るためには御殿の者のことも、竜規様のお子さまのことも知らねばなりません。ですから毎夜、わたくしと床入り(・・・)して頂けませんか?」
「ははっ、夜伽のふりをして策略を立てるということか」
「さようでございます」

行燈の光が寧々子の瞳を妖しく光らせる。けれど竜規もまた、寧々子の立言(りつげん)に胸を躍らせていた。

「よかろう。おぬしのひらめきに余もかけてみるとするか」

以来、ふたりは夜な夜な語り合い、時にとりとめのない話も交えつつ、細部まで策略を練り固めていった。

そしてすべての準備が整った頃、寧々子は竜規との床入りを最後にした。なぜなら寧々子は子をもうけたふりをする必要があったからだ。


寧々子が最中(もなか)の月が描きだす森の夜道を登り始める。半刻ほど進んでいくと、ついに石造りの祠へと辿り着いた。祠の前に立ち尽くし気を張り巡らせる。

もしも竜規の言うとおり、子らが殺されていたのだとしたら、咎人は寧々子が子らと言葉を交わせると知って戦慄を覚えたに違いない。そして、こう思案することだろう。

――このままでは、己の所業が白日の下に晒されてしまう。その前に寧々子を亡き者にしなければ。

だが御殿で始末するのは難しい。毒殺しようにも毒見役がついている。

けれど好都合なことに、寧々子はひとりで祠に向かうと言いだした。ならば後をつけて祠の前で始末し、悪霊のしわざに見せかければよい――。

すると背後に人の気配を感じた。同時に寧々子は確信した。やはり竜規様の子らは殺されたのだと。

振り向いた寧々子の瞳に人の姿が映る。それは誰よりも身を粉にして奥方のために尽くしてきたはずの者――上臈御年寄の尼音であった。寧々子は尼音の正体に目星がついた。

「あなたは赤羅門の隠密だったのですね」

この荒れた森の中、足音を消して追うこと自体、並大抵の者では不可能である。紛れもなく忍びの所業であった。

「ききき、アタシが姿を見せたのはなぜだかわかるかい?」

血をねだる魔物のような顔つきで、その手には鈍く光る小刀が握られている。

「わたくしを殺すつもりなのでしょう」
「そのとおり。腹の子と一石二鳥じゃわい。先立った子らの霊も喜ぶじゃろうて」

舐めるように下腹へと視線を向ける。

「残念ですが、わたくしは子を宿しておりません。それに竜規様の子の霊などどこにもおりません」
「はぁ?」
「なぜならすべて、咎人をおびき寄せるための策略だったのですから」
「なんじゃと!?」

同時に背後で土を踏みしめる音がした。尼音が振り返ると、打刀を携えた竜規の姿が目に映った。

「まさか白垣に尽くしていたおぬしが、呪いの元凶だったとはな。子の亡骸の前で顔を覆ったのは、笑いを堪えていたということか」

竜規は怒りに打ち震えていた。赤羅門の隠密が御殿に溶け込み、白垣の血を絶やそうとしていたことを許せるはずがない。ならばそれを呪いだと言挙(ことあ)げた僧侶もまた、尼音の回し者に違いない。

「我が子らの恨み、とくと味わうがよい!」

打刀に手をかけ身構える。だが尼音は不敵な笑みを浮かべてみせた。

「竜規殿まで現れるとは、むしろ願ったり叶ったりじゃ。――殺れ」

ひゅん、と茂みの中から何かが竜規の顔めがけて飛んできた。竜規はすぐに気づいて身を翻し、かろうじてそれを避ける。背後の木に突き刺さったのは手裏剣だった。

茂みの中から四人、忍刀(しのびがたな)を手にした黒装束の者が姿を現した。

「備えあれば憂いなしじゃな」
「余を殺めようというつもりか? 不届き者めが!」

尼音は一陣の風の如く、寧々子の背後に回り込んで刀を首元に突き付けた。

「きゃあ!」
「仲良きことはええことじゃ。ふたりとも露となれば、アタシが疑われることもないからな」

尼音は寧々子と竜規がこの場で刺し違えたように見せかける腹づもりだ。そして何食わぬ顔で御殿に戻り、ふたりの死を知った時に、呪いが降りかかったのだと嘆くのだろう。

尼音の謀略を悟ったふたりは視線を交わし、互いに瞼で静かにうなずいた。

竜規は剣を下段に構えて精神を研ぎ澄ませた。尼音は目を血走らせ、嬉々として叫ぶ。

「竜規殿よ、白垣の土となれぇぇぇ!」

四人の忍がいっせいに竜規へと飛び掛かる。だが竜規は身動きひとつせず、間合いを図りつつ力を溜める。刃先が己を引き裂く寸手のところで、ついに剣技を繰り出した。

――白垣流奥義、詩仙繚乱斬(しせんりょうらんざん)

剣を鋭く回転させ、天に向かって斬り上げる。豪快な剣圧が風刃の竜巻を起こし、忍らを容赦なく切り裂いた。飛び散る血しぶきは舞う花弁のようで、舞い上がる風に乗って月夜の空に華やかに咲き誇った。

「なぬうっ!?」

燦爛な剣術で散る血は一瞬、尼音の視界を奪い取った。刹那の隙を寧々子は見逃さなかった。

――森末流秘儀、山吹の天露返(あまつゆがえ)し!

寧々子は小刀を持つ尼音の手を取り押さえ、肘をみぞおちに突き立てる。腰が折れたところで間髪入れず手刀を喉に突き込んだ。さらに力の抜けた腕を掴んで背中に回してねじり上げ、足をかけて地面に押し倒す。こぼれ落ちた小刀を蹴り飛ばした。

勝負は瞬く間に決した。竜規は打刀の切っ先を尼音の襟に当て、帷子(かたびら)を引き裂いた。背中には赤羅門の家紋の焼き印があった。

「忍ならばこの場で自害するのもよかろう。だが、赤羅門の仕業と分かった以上、おぬしの亡骸をもって徳川に通告し、藩を潰してもらうこととする」

幕府に忠義を尽くしてきた白垣が願えば、徳川も黙っていないだろう。

「ならば潰される前に潰してくれるわ! ワタシの伝令が途絶えれば、察した赤羅門の兵力が集結するじゃろうて!」

すると、寧々子は尼音の猛りを意に介さず、ゆったりと尋ねた。

「竜規様はさきほど、『子の亡骸の前で顔を覆ったのは、笑いを堪えていたということか』とお怒りになりました。それはあなたの本心だったのでしょうか」

すると、尼音の表情は果実が潰れるように、ぐしゃりと歪んだ。その変化に、寧々子は尼音の心情を悟った。

「尼音は子らの世話係でもあったはず。建前とはいえ、面倒を見ていた以上、子らは懐いていたのでしょう」

「むっ、ぐっ……」

尼音がうめきを上げて顎を震わせる。小刻みに打ち鳴らす歯の音は、呵責に耐えている証左のようでもあった。

「それなのに責務のためとはいえ、子を殺めることに胸が痛まぬはずはありません。子らのことを想うのであれば、こんな悲劇は二度と起こさないでほしい。長年、密偵を務めるほど赤羅門に尽くしてきた尼音なら赤羅門を止められるかもしれません。いえ、あなたの命を懸けて止めてくださいませんか」

寧々子の説伏が功を奏したのか、鬼夜叉のような尼音の表情は痛みにもがく老婆の顔へと変わっていった。殺伐とした雰囲気が陽光を帯びた(もや)のように消えゆくと、竜規も殺気を消し、剣を引いて鞘へと収めた。

「よいか、寧々子が言ったとおり、二度と白垣の地に手を出さないよう、赤羅門を説得するのであれば見逃してやる。おぬしが無駄な痛みに終止符を打つのだ」

竜規が目で合図をすると寧々子は尼音から離れて身を引いた。

「敵の指図など受けてたまるか! と言いたいところだが、その頼みだけは聞いてやろう。なにせ、子らの亡霊に呪われたらかなわんからな!」

尼音はそう言い捨てると、死に損ないの鼠のような姿でひょこひょこと森の奥へと逃げていった。

ようやっとふたりは緊張を緩め、互いに顔を見合わせる。

「寧々子よ、おぬしは優しすぎるな。あんな咎人を見逃すなんて」
「あら、竜規様だって同じようなものではありませんか。いつだって首を刎ねられたものを」
「白垣の将来を考え、最善の選択をしたまでだ」
「さようでございますか」

竜規は、見上げてほほ笑む寧々子に気づいているのかいないのか、すんとした顔で尼音の消えた森を眺めている。

「しかし、おぬしの唐手はなかなか見事ではないか」
「竜規様こそ壮麗な剣術でございました。これで呪いは消え去りましたね」
「確かに。だが、そうなればおぬしはもはや用無しだ」
「あら、なぜでございましょうか?」

不思議そうな顔をする寧々子。

「おぬしは余の側室など望んでおらんであろう? ならば御殿に縛られる理由などもうなかろう」

それは御殿という鳥籠から抜け、自由に広き世空(よぞら)を翔べという、竜規の粋な計らいにほかならない。

「竜規様は世継ぎがほしいのではございませんか?」
「いや、余はそれ以上にほしいと思っていたものを、図らずとも手に入れたようなのだ」

意味ありげな言い回しに、寧々子は眉根を寄せて首を傾げた。

「それはなんでございましょう?」
「それは――友という存在だ」

竜規にとって、寧々子は側室などではなく、まさに戦友と呼ぶべき間柄であった。寧々子は一瞬、驚いたが、すぐさま柔和な笑顔に戻ってうやうやしく答える。

「それは恐れ多きことでございます」
「そう思われるのは嫌か?」
「いえ、嬉しくて――初夜よりもお恥ずかしゅうございます」

竜規は日本人形のような寧々子の姿を思い出す。

「あの時、おぬしは恥じらっておったのか?」
「当然でございましょう、これでも女ですから」

そう言って月光の下で肩をすくめる寧々子は可愛らしく、竜規は今になって勿体ないと後ろ髪を引かれる気分だった。けれど、寧々子を手放す決心を微塵も後悔していない。

「では友の証として、おぬしが祝言を挙げる折には、たんと見舞いを持って馳せ参じよう」
「結構でございます。かつての主が祝いの場に現れるなど、まさに修羅場ではありませんか」
「はっはっは、それはそうでござるな」

竜規は天を仰ぎ、晴れ晴れとした顔で笑った。



寧々子が去った後の御殿はしばらく、女中たちの噂話で持ちきりであった。

「子らの死はやはり悪霊の仕業であった。悪霊は寧々子様に憑き、子の姿に化けて惑わせていた。気づいた尼音は寧々子様を追い、身を挺して悪霊を払ったのだ」と。

奥方らは咽び泣いて尼音の死を嘆いた。そして寧々子は尼音の死を己の責任と悔いて御殿から身を引いたのだと、皆はそう語っていた。

竜規は信頼のおける佐一以外にはけっして真相を明かさなかった。寧々子の活躍が知られれば、寧々子は御殿から離れることができなくなってしまう。尼音や赤羅門への恨みが火種となり、新たな戦いが起きてしまうと懸念したからだ。そうなれば寧々子が巻き込まれることは必至であった。

悪霊の仕業として皆が納得していれば、平穏な日々が訪れるのだろうという竜規の目論見である。竜規はこれでよいのだと自身に言い聞かせながらも、ときおり寧々子と過ごした日々を思い出し、空虚な気持ちになっていた。


穏やかな日々が過ぎて行ったが、ある日、佐一が慌てた様子で上間に駆け込んできた。

「竜規様、大変でございます! 先祖代々伝わる宝物が、忽然と姿を消しました!」

「なんと、まことか!?」

「はい。金品のみならず、天橋立を描いた掛軸も、黄金の甲冑も、宝刀の柳雫も、です!」

御殿はさっそく蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。いったい誰の仕業なのかと御殿中の者は躍起になって犯人探しをしたが、まるで手がかりはつかめなかった。

宝物庫から貴重な宝玉が忽然と姿を消したのはある月夜のことだった。その痕跡はまるで霧が晴れたかのように消え去り、竜規はこの神秘的ともいえる不可解な事件に頭を悩ませた。

考えた末、竜規は家臣たちを集め、意見を求めた。皆が考えあぐねる中、唯一提案を口にしたのは佐一であった。

「竜規様、この謎を解く方法がひとつだけございます」

「佐一、言ってみろ」

佐一は慎重に考えた末に閃いたかのような雰囲気で提案した。

「恐れながら、側室をひとりもうけることで、御殿の内情を探るのはいかがでしょうか」

佐一の口元が緩む。呼応するように竜規も口角を吊り上げた。

「側室か……疑いのない者を招くというのは、悪くない考えだ。だが、切れ者でなければ務まらないだろう。そんな候補者がどこにいるというのだ?」

竜規はあえて渋ってみせる。だが、ふたりの脳裏に描かれる者に相違はないはずであった。

「竜規殿がお気を悪くなさらないのであれば、ひとり心当たりがございます。ただ……応じるかどうかはかの者(・・・)次第でございます」

かの者(・・・)が誰を指すのかなど、竜規は重々承知の上でとぼけている。佐一は竜規の面目を保つために、竜規の望む方策を己の提案として示してみせたのだ。

「まったく、勿体つけおって。心当たりがあるというのか?」

「おそれながら、ひとりだけおります」

だが、かの者(・・・)の首を縦に振らせるためには相応の理由が必要である。なぜなら、かつてかの者(・・・)がこの御殿に足を踏み入れたのは、謎めいた匂いに誘われたからであった。

しかし竜規は佐一の意見に賛同し、「まあよい。ここは佐一に任せるとしよう」と答えた。佐一は「では、城下町中で最も美しく、そして気高き女性を見つけ出してみせます」と宣言しすぐに準備に取り掛かった。

数日後、竜規の眼前に佇んでいたのは寧々子であった。竜規は吹き出しそうになるのを必死にこらえていた。おそらくは佐一が謎を匂わせ、寧々子はその匂いに誘われてきたはずだ。そうでなければ、この狭苦しい世界にふたたび足を踏み入れることなどなかったであろうから。

寧々子はやはり若々しくて美しく、その笑顔にはどこかいたずらっぽさが漂っていた。寧々子は初見のようにうやうやしく竜規に挨拶をし、くすっと面白そうに笑った。その笑い声は、まるで竜規の心との間の垣根を平然と飛び越えてゆくようであった。

大胆不敵にも竜規に向かい、こう言ってのける。

「竜規様との夜伽、お待ちしております。どうかわたくしを楽しませてくださいませ」

竜規の胸中に飛来するものは、謎解きに対する期待と愉悦の感情なのか、はたまた寧々子に対するえもいわれぬ情愛の感情なのか――。

それもまた、御殿の謎のひとつであった。

(第一話 了)