つい先日まで薄ピンク一色だった桜並木が、いつの間にか新緑の輝きに変わっていた。
 昨日雨が降ったせいか、青々とした葉の一枚一枚が太陽の光を乱反射させている。まっすぐ伸びる大学構内のメインストリートは、まるでイルミネーションで彩られているかのように(きら)びやかだ。
 初夏の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込めば、あるいはこの荒んだ心も晴れるかもしれない。そう思いはするものの、数歩行くたびにため息をついているという目も当てられない状況である。それが現在ひたすら落ち込みまくっている、三宅雪乃(みやけゆきの)の哀れな姿だった。

 学生課が運営するキャリア支援センターの入っているB棟という校舎を目指し、重い足取りでトボトボと歩く。情けない理由でアルバイトを辞めてしまい、新たな職を探さなければならなかった。
 三月末、一年間勤めた個別指導学習塾での講師の仕事を辞めた。なにがいけなかったのか、生徒たちからのレスポンスが(かんば)しくなく、成績を伸ばしてあげることができなかった。
 中学生の頃、数学を担当してくれていた女性教師に憧れ、雪乃は教師の道を志すようになった。山を切り開いて建てられた地方の公立教育大学にどうにかこうにかすべり込み、この春から二年生に進級した。
 少しでも教育現場について知っておきたいと思い、学習塾でのアルバイトを始めたものの、主に中学生の生徒たちがかかえる「わからない」という気持ちに寄り添うことがどうしてもうまくできなかった。なにがいけなかったのだろう、どうすればよかったのだろうと思い悩む日々を送るうちに、いつしか自分には教師という職が向いていないのではないかと考えるようになった。心の折れる音が、耳の奥ではっきりとこだました。

 鉛のような足を動かし、ようやくB棟の入り口にたどり着く。キャリア支援センターでは、アルバイトを含む求人情報を自由に閲覧することができる。
 大学進学を機に実家を離れ、品揃えの悪いコンビニがようやく一軒あるようなド田舎でひとり暮らしを始めた。実家からの仕送りだけでは心許(こころもと)ないのでアルバイトをしなければならないが、まともな職に就こうとすると自転車でかなりの時間をかけて市街地へと出る必要がある。三月まで働いていた学習塾も市街地のほとんど中心部、私鉄の駅の近くにあった。どこまでも貧乏学生に優しくない場所に建てられた大学だと、自分で選んでおきながらため息が出る。
 求人情報はネットでも検索できるが、大学のキャリア支援センターには大手の求人サイトには載っていない、大学生向けの求人情報が豊富にある。授業の都合などによって雇用条件に融通を利かせてくれるところも多く、インターンを兼ねて雇ってくれる企業さえあった。
 四月のはじめは学生でごった返していたB棟二階の学生課も、今日は比較的人の出入りが少ないようだ。ちょうど三時限目の授業中ということもあるだろう。午後二時半という中途半端な時間帯である今は、求人情報をゆっくりと眺めるにはもってこいだった。

 階段を上り、学生課の窓口の前を過ぎると、奥に別室の入り口が見えてくる。小会議室みたいなその場所こそ、目的地であるキャリア支援センターだ。
 開け放たれている扉をくぐると、パーティションを三枚、背中合わせの三角形に並べた掲示板が雪乃たち学生を出迎えてくれる。そこにはびっしりと求人情報が貼り出されているのだが、アルバイト情報に限らず、新卒者向け、それから卒業生――いわゆる第二新卒者向けの就職支援情報も掲載されていた。
 こんにちは、とキャリア支援センターの職員に挨拶される。雪乃も「こんにちは」と返し、早速掲示板の貼り紙に目を向けた。

「塾……じゃないほうがいいかな」

 教育大学という場所柄なのか、学習塾講師や家庭教師の募集が非常に多い。だが、もう一度別の塾で力を試してみようという気持ちには、今はとてもなれなかった。
 かといって、他にやってみたい仕事があるかというとそういうわけでもない。飲食店は大変そうだし、コンビニやドラッグストア、スーパーなどでの仕事もなんとなく気が向かなかった。
 なんの仕事をしよう。悩みながら貼り紙を眺めていると、ふと、ちょうど腰あたりの低い位置に貼られた紙の珍しい文言が目に留まった。


『家政婦募集』


 家政婦? というと、家事代行サービスのことだろうか。
 詳しい内容に目を通してみる。掃除、洗濯、炊事、買い出しと、やはり仕事内容は家事全般だ。給与については応相談、無料送迎付きとある。
 これなら私にもできるかも。雪乃は心が躍るのを感じた。ひとり暮らしを始めたので家事は人並みにこなせるし、料理もプロほどの腕はないが、それなりにおいしいものを作れる自信はある。

「あれ……?」

 だが、困ったことに採用担当者の連絡先が書かれていなかった。キャリア支援センターの窓口をちらりと見る。一体誰が、この不自然な貼り紙の掲載を許可したのだろう。

「見えるの?」
「わっ!?」

 その時、突然足もとから声がした。驚いて声を上げ、視線を落とす。
 赤い着物を身にまとった、おかっぱ頭の小さな女の子だった。首を後ろに折って雪乃を見上げる顔は、無表情だが丸い瞳がきらきらと輝いている。

「その貼り紙、見えるの?」
「え?」

 貼り紙というと、今見ていた『家政婦募集』の案内のことだろうか。

「み、見えるって……?」
「見える人は、特別。普通の人には、見えない」

 特別? 普通の人?
 話がさっぱりわからない。そもそも、この少女はどうしてこんなところにいるのだろう。
 雪乃は静かに膝を折り、少女と目線の位置を合わせようとしゃがみ込む。偶然なのか、貼り紙はちょうど少女の顔の高さにあった。

「こんにちは。あなたのお名前は?」
沙夜(さや)
「沙夜ちゃんね。はじめまして。私は雪乃」
「雪乃」
「うん。ねぇ、沙夜ちゃん。この貼り紙が見えるって、どういう意味?」
「あのー……」

 窓口の向こうから、先ほど挨拶を交わした女性職員が身を乗り出すようにして雪乃に声をかけてきた。

「どうかされましたか?」
「あ、いえ。この子が……」
「見えない」
「え?」

 今度は沙夜が雪乃と女性職員の間に割って入る。

「普通の人には、見えない。雪乃は特別だから、見える」
「見えるって……」

 もしかして、沙夜のことを言っているのか。沙夜の姿は、雪乃にしか見えていない?
 わけがわからず目を見開いた雪乃だったが、このままここにいるのがまずいということだけは即座に察し、「なんでもないです」と言ってそそくさとキャリア支援センターをあとにした。沙夜は掲示板の貼り紙を剥がし、カランコロンと下駄を鳴らして雪乃の後ろをついてくる。

 B棟の裏手は芝生広場になっていて、この時間は次の授業待ちの学生の姿がちらほらとあるだけでほとんど無人に近かった。
 広場を横切り、沙夜を従えてなるべく人の目につかない木陰の奥へと入り込む。改めて沙夜と向き合うと、雪乃はストレートに尋ねた。

「沙夜ちゃん……あなた、何者?」
「座敷わらし」

 なるほど、そうきたか。
 ドキドキと心臓が高鳴る中、雪乃は質問を続ける。

「それは、つまり……あなたは、人ではないということ?」

 沙夜はうなずき、「あやかし」と答えた。

「特別な人には、見える。普通の人には、見えない。雪乃は、特別な人。沙夜たちが見える人は、特別」

 驚きを通り越し、雪乃はそっと天を仰いだ。
 知らなかった。まさか自分に、あやかしなんていう人ならざる存在と通じ合える力があったなんて。そもそもこの世界には、あやかしなんてものが本当に存在していたのか。信じられない。話はそこからだ。

「雪乃」

 沙夜に呼ばれ、我に返った。

「うん?」
「来て」

 沙夜は手にしていた貼り紙を雪乃に差し出し、雪乃をまっすぐに見つめた。

「パパを助けて」
「パパ?」

 着物をまとうザ・和風なあやかしの口から「パパ」なんていうヨーロピアンな言葉が飛び出したことへの違和感が凄まじい。しかし、助けてと言った沙夜の言葉は、どこか真に迫っているように聞こえてならなかった。
 雪乃が答えるのを待たず、沙夜は芥子色(からしいろ)の帯に小さな手を突っ込んだ。イルカの調教に使うような長細い笛状のものを取り出し、口に(くわ)える。やはり笛であるようだ。

 ピイィィィィィ――!

 沙夜の手にすっぽり収まるサイズの笛から、耳をつんざく大音響が放たれた。雪乃は思わず両耳を手で塞ぐ。
 音が鳴り止み、いつの間にかぎゅっと瞑っていた目を開ける。遠くでおしゃべりとしている学生たちは、なにごともなかったかのように笑い合っていた。どうやら今の笛の()も、沙夜の言う『特別な人』にしか聞こえないものであったらしい。

「はーい、お待たせーっと」

 すると、ふたりの前に空からなにかが降ってきた。ストン、と音もなく地上に降り立ったそれは、なんとなく人の形をしているように見える。
 だが、人ではなかった。
 おおむね人間の姿形をしているけれど、その背中では大きくて真っ黒な翼がバッサバッサとはためいている。巨大な(からす)の羽のようだ。からだにまとうのは群青色の山伏装束、頭には先の尖った黒いお椀のような形をしたかぶり物・頭襟(ときん)がちょこんと鎮座している。顔立ちはどことなくやんちゃな印象を与える少年のようだった。

「まいどあり! 駕籠舁(かごかき)雄飛(ゆうひ)だよ。オイラを呼んだのはどいつだい?」

 幼い男の子特有の甲高い声で雄飛と名乗った翼の生えた少年は、「お」と言って雪乃に照準を合わせた。

「へぇ、こいつは珍しい。あんた、人間だろ?」
「え、あ、私ですか……?」

 雪乃のことである。驚きのあまり言葉を失い、目をぱちくりさせている雪乃を見て、(くちばし)を持たない烏のような少年はケラケラと愉快そうに笑い声を立てた。

「おもしれぇ。昔の櫻子(さくらこ)を見てるみてぇだ」
「櫻子?」
「あぁ。あんたの他にも、オイラたちのことが見える人間がいたんだよ。ついこの間、寿命が尽きて死んじまったけどな。人間は早死(はやじ)にだから」

 雄飛はからっとした口調で言う。なんとこたえたらいいものか、雪乃は引きつった愛想笑いを浮かべた。

「雄飛」

 沙夜が雪乃の隣で声を上げる。「おぉ」と雄飛はようやく気づいたかのような顔で沙夜を見下ろした。

「おまえか、オイラを呼んだのは。なんだよ、もう帰るのか?」
「うん。雪乃も一緒に連れて行ってくれる?」
「雪乃? この人間のことか?」

 沙夜はうなずく。

「パパのこと、助けてくれる人」
「あぁ、なるほど。弥勒(みろく)(にい)の入れ知恵か。(まどか)のやつ、くたばっちまってんだったよな」

 弥勒? 円? 話の流れから察するに、円というのが沙夜の言う『パパ』か。

「くたばってない」

 これまでずっと無表情だった沙夜が、ほんのわずかにムッとした顔になった。

「雪乃が来たら、元気になる」
「そうだな」雄飛が沙夜の頭を撫でる。
「円が元気になることは、オイラたちみんなの願いだ」

 沙夜を安心させるようにそう言うと、雄飛はスッと背筋を伸ばして雪乃を見た。

「オイラは(からす)天狗(てんぐ)の雄飛。駕籠舁をやってんだ」
「駕籠舁?」
「現代風に言えばタクシーだな。片道百円でどこへでも、どこまでも好きなところへ連れてってやる」

 片道百円? どこへでも、どこまでも?
 タクシーとしては破格の安さに、雪乃は惜しげもなく目を見開く。どこへでもということは、たとえばハワイに連れて行ってくれたりもするのだろうか。

「あんたにもこいつをやるよ」

 雄飛は先ほど沙夜が使った銀色の笛を雪乃に手渡す。

「行きたいところがある時は、この笛を鳴らしてくれ。オイラが連れてってやるからよ」
「片道百円で?」
「そう、片道百円で」

 雪乃は受け取った細長い笛を顔の高さに掲げ、しげしげと眺める。イルカの調教用に似ていると思ったのはあながち間違いではなく、イルカにしか聞こえない音が出るように、この笛も普通の人間には聞こえない音が出るのだ。あやかしと、あやかしの見える特別な人間にだけ聞こえる音が。

「それで」

 今度は沙夜に目を向けて、雄飛は尋ねた。

「円の家に帰るってことでいいか?」
「うん。お願い」
「じゃ、百円な」

 沙夜は着物の左袖に右手を入れ、白いがま口の財布から百円玉を一枚取り出し、雄飛に払った。

「まいど。さ、あんたも」
「えっ、私も?」

 差し出された雄飛の手を見て、雪乃は声を裏返す。

「円の家に行くんだろ? 片道百円だ」

 なるほど、相乗りで割り勘、というケチな乗り方はさせてもらえないというわけか。
 ……いや、そんなことより。

「ちょ、ちょっと待って」

 雪乃は沙夜の前にしゃがむ。

「ねぇ、沙夜ちゃん。私、全然状況を理解していないんだけど……?」
「雪乃、貼り紙見てた。パパのお手伝いをしてくれるんでしょ?」
「パパのお手伝い? それって、お掃除とか、お料理とか?」

 沙夜はこくりとうなずく。

「パパ、忙しい。櫻子が死んじゃったから」
「櫻子って、私みたいにあなたたちのことが見える人のこと?」

 今度は首を横に振られた。

「パパの、ママ」

 なんだって? 話がいきなり飛躍し、雪乃はいよいよ混乱した。

「えっと……、パパっていうのが円さんというお名前で、櫻子さんというのは、円さんのお母さん?」

 櫻子が人間なら、円というのは人間の男性、ということになろうか。そして櫻子と円は雪乃と同じようにあやかしの姿が見えるので、座敷わらしである沙夜とともに暮らし、沙夜は円を「パパ」と呼んで慕っている。三人の関係をまとめると、こんな感じか。さらに現在、円は櫻子を亡くしたことで家事もままならないほど多忙を極めるようになってしまった、と。

「パパには、お手伝いが必要」

 沙夜が真剣な顔で雪乃に訴えかけてくる。

「パパ、仕事が忙しい。力が弱くなってきてる。たくさん眠らないと、死んじゃう。だから、雪乃に助けてほしい」

 死んじゃう、という言葉はまたしても真に迫っていた。命が危ぶまれるほど多忙な生活というのはいったいどんなものかと理解に苦しむけれど、沙夜が円の身を案ずる気持ちに嘘がないことだけは確かだと思った。

「わかった」

 立ち上がり、雪乃は大きくうなずいた。

「とりあえず、お話だけでも聞きに行きます。でも私、これから四時限目の授業があって……」

 雪乃がそう言うが早いか、沙夜はがま口財布から百円玉を取り出し、雄飛に手渡した。

「これで、ふたり分。雪乃も一緒に連れて行って」
「まいどあり。さ、乗った乗った!」
「えぇ?」

 一瞬のうちに、雄飛の姿が巨大な烏に変化(へんげ)した。沙夜と雪乃、ふたりを背に乗せてもまだ()きスペースがありそうなほど背中が広い。
 沙夜が雪乃の右手を握り、漆黒の羽を大きく広げる烏の雄飛めがけてタッと駆け出す。カッカッカッと下駄を鳴らして走り込み、右足で踏み切って高らかに跳び上がった。

「うわぁっ!」

 沙夜に手をつながれたままの雪乃も一緒になって宙を舞い、気がつけば雄飛の背中にすっぽりと収まっていた。沙夜が前、雪乃が後ろと連なり、乗馬の要領で羽の付け根あたりに跨がる。履いていたパステルブルーのロングスカートがめくれやしないかと一瞬不安になったけれど、そんな些細なことを気にしている場合ではない。雪乃はまさに今、巨大な烏の背に乗って大空へ舞い上がろうとしているのだ。

「振り落とされんなよ、お嬢さん方!」

 雄飛は楽しげに声を上げ、バサァッ、と羽を派手に動かして飛び立った。ぐんぐんスピードを上げ、真っ青な初夏の大空を、快調に風を切って駆け抜けていく。

「いやあぁぁぁぁああ――っ!」

 叫び声は蒼穹(そうきゅう)に溶け、雪乃はひたすら目を瞑り、雄飛の漆黒の背中に必死になってしがみついた。
 三つの影が音もなく消えた芝生広場の木々たちは、なにごともなかったかのように、穏やかにその葉を風に揺らしていた。



 どのくらい空を飛んでいただろうか。時間にして五分と経っていないように思う。大学から距離が近かったのか、あるいは時速何百キロというレベルで移動したのか、いずれにせよ、短い空の旅だったことは間違いない。
 全身に吹きつけていた風が止み、雪乃はおそるおそる目を開けた。
 鬱蒼とした森の中だった。生い茂る木々の幾重にも重なる葉が太陽の光をほとんど遮り、真昼とは思えないほど薄暗い。だが、葉の隙間から細く差し込む光の筋は幻想的で、まるで光のシャワーを浴びているようだ。
 これまで体験したことのない、浮世離れした美しい光景に目が(くら)む。静謐(せいひつ)の中にピンと張りつめる森林の澄み切った空気には目に見えない不思議な力が宿っているようで、心がすぅっと浄化されていくのを感じた。気持ちいい。

「ほい、到着」

 雄飛が烏への変化を解き、乗客だった雪乃・沙夜とともに二本の足で地面に立つ。踏みしめた足もとは雑草であふれかえり、青汁のようなにおいがして夢から覚めた。

「じゃあな、沙夜、雪乃。今後ともどうぞご贔屓(ひいき)に」

 大きな烏ではなく、出会った頃の少年の姿に戻った雄飛があどけない笑みを浮かべて言う。その顔を、雪乃は目をまんまるにして凝視した。
 他のパーツは出会った頃のままなのに、鼻だけがびよんと前方に伸びている。おそらく誰もが「天狗」と聞けば想像する立派な長い鼻が顔の中央に堂々と居座っていて、彼が烏天狗であることを嫌というほど思い知らされた。

「雄飛」

 沙夜が自らの鼻をさす。「おっと」と言って、雄飛は長い鼻の先端を右手で軽くこすった。シュルルッ、と瞬時に鼻は縮まり、出会った頃の雄飛の顔になる。タネも仕掛けもありすぎる手品を見せられているようだった。

「つい忘れちまうんだよな、鼻を短くするの。せっかく弥勒兄にやり方教えてもらったのに」

 ポリポリと頭をかくと、雄飛は今度こそ「じゃあな」と言ってどこかへ飛び去っていった。背中に生えた漆黒の翼から、何枚かの黒い羽根が抜け落ちた。

「来て」

 沙夜が雪乃の手を引いた。促されるままにからだの向きを反転させると、一軒の平屋が建っていることに気がついた。
 瓦屋根の立派な建物だった。現代風の二階建て住宅とは違い、横に長く造られている。
 平屋の奥に、一回り小ぶりの建物もあった。母屋と離れ。そんな風に見える。
 沙夜は雪乃の手を握ったまま歩き出し、母屋の引き戸をガララと開けた。下駄を脱いで上がり(かまち)を上がり、膝をついて脱いだ下駄を丁寧に揃える。その小さな姿をまじまじと見つめながら、しつけが行き届いているなぁと感心していた雪乃に、沙夜は上がれと目で訴えかけてくる。

「お、お邪魔します……」

 雪乃も履いていたネイビーのパンプスを脱いで揃える。沙夜は左右に分かれている短い板張りの廊下を右へ行き、すぐにぶつかった扉の向こうへと消えていく。
 慌てて追いかけると、そこは居間であるようだった。畳敷きの八畳間で、楕円形のちゃぶ台と四枚の座布団が中央に、書棚と文机(ふづくえ)は端に寄せて整然と並べられている。窓のある壁際には薪をくべて使う暖炉が、対面(といめん)の壁には高さ一メートルほどの立派な振り子時計が置かれていた。

「や! にんげん!」
「にんげん! にんげん!」

 天から降ってきた突然の奇声に、雪乃はおもいきり肩をびくつかせた。声のした頭上を見上げると、黄色がかった二つの明かりがゆらゆらと楽しげに揺れていた。

「ちょ、提灯(ちょうちん)……?」

 キャハハと笑い声を立てる二つの明かりは、祭りなどで見かける提灯だった。縦四十センチほどのやや大きめなそれには各々(おのおの)二つのぎょろ目と一つの口がついていて、笑い続ける口からはベロリと長い舌がはみ出している。

「提灯オバケの、(よう)(めい)

 沙夜が二つの提灯を指さして言った。

「沙夜と同じ。パパの家に住んでる」

 なるほど、この山奥に電気が来ているとも思えないし、彼らが住み着いているというのは明かり取りにちょうどいい。あるいは円や櫻子がお願いして住んでもらっているのかもしれない。
 頭上でキャハキャハ笑い続けているオバケたちに、雪乃は「こんにちは」と挨拶してみる。陽と明は笑うばかりで、彼らが動くたびに光と影の塩梅(あんばい)が変わった。

「ここで待ってて」

 沙夜は再び廊下へ出て行こうとする。

「パパ、起こしてくる」

 引き戸を開け放ったまま、沙夜は玄関の前を通過し、別の部屋へと消えていった。家に上がってすぐ左手に引き戸があり、その先はどうやら寝室らしい。
 背負っていた黒地のリュックを足もとに置き、改めて雪乃は通された居間をぐるりと見回してみた。
 物が少ない分、片づいているようには見える。しかし、そこかしこに降り積もった埃の山は看過しがたく、長い間掃除がされていないことを物語っていた。沙夜の言うとおり、家の中がひどく汚れていることに気を回す余裕がないほど、家主の日々の生活は切羽詰まっているようだ。
 まもなくして、沙夜がひとりで戻ってきた。

「パパ、起きない。いつもの時間にならないとダメ」
「いつもの時間って?」
「四時」

 雪乃は腕時計に目を落とす。まだ三時にもなっていない。

「一時間か……」

 それだけたっぷり時間があれば、掃除くらいはしてあげられる。居間だけでなく家中が埃だらけだろう。やりがいがありそうだ。
 私がここへ呼ばれたのは、家政婦として働くため。まだ雇い主に会っていないし、働くと決まったわけでもないけれど、どうせ時間を持て余すんだから、少しでもできることをしてあげられたら喜んでもらえるに違いない。

「沙夜ちゃん」

 そうと決まれば、さっそく行動だ。

「お水の出るところ、教えてくれる?」



 電気どころか、この家は水道設備も近代式だった。スマートフォンが普及した現代で、まさか手こぎポンプで井戸水を汲み上げさせられるとは思わなかった。
 台所にあったのは蛇口を捻って水が出る流し台ではなく、ポンプを数回上下させるとキンキンに冷えた井戸水が出る旧式のものだった。あまりに古風な生活様式に、映画の世界にでも入り込んでしまったのではないかと勘違いしそうになる。当然のようにガスも来ておらず、料理をするにはかまどで火を起こす必要があった。
 居間は玄関と同じ南側に面しており、台所は居間のすぐ北側。そこから建物の裏手に出られる勝手口が造られている。沙夜の説明によれば、台所、風呂場、トイレといった水回りが同じ北側に集められているようで、利便性に富んだ設計になっていることに雪乃は小さく感動した。

「うわっ」
 台所には雑巾らしいものが見当たらず、風呂場を覗いたら思わずそんな声が出た。
 脱衣所の床に、タオルや衣類がうずたかく積み上げられていた。山の頂上は雪乃の膝よりもずっと高い。どうやら洗濯も(とどこお)っているらしい。

「まさか、これ……全部手洗い……?」

 電気が来ていないなら当然、全自動洗濯機は置いていないだろう。信じられない。映画どころか、おばあさんは川へ洗濯に、の世界だ。
 しかし、この量である。洗濯機に入れるにしても一回で済むかどうか。いったい何日分ため込んだことやら。やると決めた気持ちが途端に萎える。
 たまらず、雪乃は沙夜の手を借りることにした。

「沙夜ちゃん、この家にある袋、かき集めてきて」
「袋?」
「うん。カゴでもいいよ。とにかく、ここにある服を全部入れられるくらいたくさんの入れ物がほしいの」
「わかった。探す」

 沙夜が姿を消すと、雪乃は衣類の山の中から一番使い古していそうな黄ばんだフェイスタオルを一枚抜き取った。ラッキーなことに、山の中からエプロンが見つかったので拝借する。軽く手ではたいてから身につけた乳白色のそれには、ところどころ食べ物や調味料などで作った染みがあった。
 使い古しのフェイスタオルを持って台所に戻ると、壁に並べて掛けてある調理器具の中からキッチンばさみを選び取る。本当は布を切ってはいけないのだろうが、些細なことだ。ざくざくとはさみを入れると、タオルは二つに分かれた。
 一枚を水で濡らし、まずは台所から磨いていく。油汚れまで取ろうとするとキリがないので、今日はひとまず軽く埃を拭き取るだけの作業に留めておくことにした。

 台所が終わると、次は居間だ。ちゃぶ台や文机、書棚、置き時計の上を丁寧に拭いていく。文机の隅に色鮮やかな千代紙が置かれていて、沙夜が折り紙遊びでもするのか、と微笑ましい気持ちになった。
 縁側に出られる大きな窓を開ける。陽射しはほとんど差し込まず、見渡す限り深い森だ。
 座布団を手に取り、一枚ずつパンパンと素手でおもいきりはたいた。埃が舞ってくしゃみが出る。マスクがほしい。
 掃き掃除もしたいなと思い、掃除道具を探しに廊下へ出る。袋を求めてパタパタと走り回る沙夜にちょうど出くわし、箒とちりとりの置き場所を尋ねたら、「納戸(なんど)」と玄関の向かい側にあるほとんど壁と同化した扉を指さしで教えてくれた。
 五十センチほどの短い柄がついた棕櫚(しゅろ)(ぼうき)で、畳の目に沿って隅から隅へと掃いていく。壁と床の境界や窓の(さん)、部屋の四つ角にたまった埃は濡らしたタオルで拭い取る。こんもりと積もった埃をちりとりですくうと、ゴミ箱が見当たらなかったのでひとまずちりとりごと窓の外へ置いておく。

「雪乃」

 沙夜が両手いっぱいに袋らしいものをかかえて居間に戻ってきた。(とう)で編んだ持ち手付きのカゴ、麻布(あさぬの)のトートバッグ、特大サイズの米袋と、なかなかユニークなものまである。

「ありがとう、沙夜ちゃん」

 沙夜からごっそりそれらを受け取り、雪乃は再び脱衣所へ向かう。足もとにカゴやバッグを並べ、衣類の山を少しずつ崩してはカゴの中へほいほい小気味よく突っ込んでいく。衣類の中に浴衣や甚兵衛がちらほら混じっていて、これらは別でクリーニングに出したほうがいいだろうかと思ったけれど、ええい面倒だ、一緒に洗っちゃえと見なかったことにした。
 山の(ふもと)が見えてくると、そこには籐のカゴがあった。なるほど、脱いだ服はここへ入れるのがこの家のルールらしい。洗い物が多すぎて見事に埋もれてしまっていたけれど。

 結局、洗濯すべき衣類はカゴ二つとバッグ一つに収まった。居間へ戻ると、雪乃はリュックの中からスマートフォンを取りだした。

「うそ」

 画面に明かりを灯して愕然とした。圏外の表示が出ている。

「さすが、山の中」

 あやかしたちとひっそり暮らしていくにはいい環境かもしれないが、バリバリの現代っ子である雪乃にとって、携帯電話が使えない暮らしなどそう簡単に受け入れられるものではない。軽い気持ちで最寄りのコインランドリーを検索するつもりが、出鼻をくじかれ、途方に暮れた。

「おーい、沙夜ー。いるかー?」

 その時、玄関のほうから声がした。聞き覚えのない、若々しくて男らしいテノールボイスだ。
 沙夜が居間の扉を振り返ると同時に引き戸が開いた。グレーのパーカーに白いトップス、下はロングジーンズで、髪は冴え冴えとした金髪という若者だった。

「弥勒」

 沙夜が言うと、現れた若者・弥勒は「よ」と沙夜に片手を挙げた。

「おぉ、この子か。雄飛に聞いたぜ、家政婦候補が見つかったって」

 スマートフォン片手に立ち尽くしている雪乃に、弥勒は少し目を大きくしてピュウと嬉しそうに口笛を吹いた。

「なんだよ、えらいべっぴんさんじゃねぇか」

 軽快な足取りで歩み寄ってきた弥勒が雪乃の髪をすくい上げる。胸のあたりまで長く伸ばし、明るめの茶色に染めた髪だ。彼は手の中の髪にそっと顔を近づけると、くんくんと恥ずかしげもなくにおいをかいだ。

「うーん、最高。美人のにおいだ」

 変態か。うっとりと目を瞑る弥勒から雪乃は一歩距離を取るが、弥勒はめげる様子もなく雪乃の肩にふわりと腕を回してきた。

「なぁ、円が起きるまで暇だろ? オレとお茶でも行かねぇか? 駅前にあるうまいケーキの食える店、連れてくからさ」

 雪乃はおもいきり頬を引きつらせる。言葉も出ない。今どきの若者かと思いきや、前時代的もいいところだ。こんなにもどストレートなナンパを仕掛けてくる人なんて、どこを探したら見つかるだろう。

「弥勒」

 沙夜が無表情のまま声を上げる。

「雪乃、これから洗濯」
「雪乃? へぇ、雪乃ちゃんっていうのか、お嬢さん。かわいい名前だな」

 弥勒はナチュラルに雪乃の名を褒め、笑う。雪乃は愛想笑いを返しながら、沙夜のおかげで名案が閃いた。スマホがダメなら、このあたりに詳しい人に聞けばいい。

「あの……弥勒、さん?」
「おう、なんだ」

 肩を抱かれたままだった弥勒の腕をそっとはずし、雪乃は弥勒の瞳を覗き込むように見つめて言った。

「ここから一番近いコインランドリーの場所を教えてくれたら、お茶、お付き合いします」



 オレは(きつね)だ、と弥勒は言った。

「人間の血は混ざってない。純粋なあやかしだよ」
「じゃあ、その姿は……?」

 十六キロ用の大きな洗濯機に衣類をせっせと放り入れながら尋ねた雪乃に、弥勒は自慢げに鼻の下をさすりながらこたえた。

「うまいだろ。人の姿に化けてんだ。オレは人間も、人里での暮らしも好きだからよ」

 なるほど、つり目なところなど、言われて見ればどことなく狐っぽい顔をしている。ひょっとすると、頭髪の黄金(こがね)色は地毛だろうか。
「ということは」

 声をひそめ、雪乃はそわそわしながら周りを見る。仕上がりを待つ客がふたり、備え付けのベンチに座ってテレビを見たり本を読んだりしていた。

「あなたのことは、あの人たちには見えていないんですか?」
「いや、見えてるよ」
「え?」
「人の姿をしていれば見える。オレたちあやかしが人間と一緒に暮らすには、人への変化を習得することが絶対条件なんだ」

 雪乃は納得してうなずいた。どうりで他の客が雪乃の様子を怪しまないはずだ。
 お金を入れて――洗濯と乾燥で千五百円かかった――洗濯機を回し始めた雪乃は、弥勒に尋ねた。

「円さんというのは、どんな方なんですか?」
「どんなって」

 弥勒は少し迷うように視線をさまよわせてから答えた。

「優しいヤツだよ。人間の住む世界――オレたちは『人里』って言葉を使うけど、そこでの暮らしに興味を持ったあやかしのために、人里での暮らし方を教えてる」
「人里での暮らし方?」
「そう。読み書きそろばんを教えたり、人間がつくったルールを学ばせたり、人間への上手な化け方を教えたりね」
「化け方? あれ、円さんって人間なんじゃないんですか?」
「人間だよ。半分は」
「半分?」
「あぁ。母親が人間だからな」
「母親って、確か、櫻子さん?」
「そう。成田(なりた)櫻子。若い頃は……いや、ばあさんになってからも、雪乃ちゃんと同じくらいべっぴんだった。姿も、心も。あの八雲(やくも)の旦那が惚れたくらいだからな。最高にいい女だったよ」
「八雲?」

 弥勒がうなずく。

「白銀の毛並みが立派な(おおかみ)でな。力の強いあやかしで、オレたちの集落の頭領みたいな存在だった。あやかしのくせに人間が大好きで、ひと目惚れした相手も人間だった」
「それが、櫻子さん」
「そういうこと」
「それじゃあ……?」

 ご明察、と弥勒は言った。

「雪乃ちゃんがこれから会おうとしている男は、八雲の旦那と櫻子の間に生まれた子……つまり、円に流れる血の半分は、あやかしの血ってことだ」

 大型洗濯機がぐるんぐるんと回っている。雪乃は目を見開いた。
 半分は人間で、半分は狼のあやかし。
 それが、雪乃の雇い主になるかもしれない男。
 頭が勝手に、恐ろしいものを想像してしまう。人間の顔に、狼のからだ? 狼の頭に人間のからだ? どちらでもなかったとしても、きっと見た目はひどくおぞましいに違いない。小刻みに肩が震えだす。

「心配することないって」

 急に怯えだした雪乃を見て、弥勒はケラケラと笑って雪乃の背を優しく叩いた。

「なんかとんでもないバケモンを想像してるみたいだけど、あいつはそんなんじゃないから。見た目はフツーの男だよ、基本的に」
「基本的に、って?」
「そいつは会ってからのお楽しみ」

 意味ありげな笑みを浮かべると、弥勒は「さぁさぁ!」と言って雪乃の背後に回り、両肩に手を乗せた。

「ここで洗濯機が止まるのを待っててもつまんねぇし、早くケーキ食いに行こうぜ」
「ケーキ?」
「あれ? コインランドリーの場所を教えたら、デートに付き合ってくれる約束でしょ?」

 期待に満ちた眼差しに、とても逃げられそうになかった。



 雄飛の背に乗るのも三度目となれば慣れたもので、いつしか雪乃は上空から地上の景色を楽しめるくらいの余裕が持てるようになっていた。
 そうして気づいたのは、円やこのあたりのあやかしたちが暮らす山は、雪乃の通う大学からそれほど遠く離れていなかったことだ。道が整備されていないので自力で登ることは難しいし、円の住む家は山深くに建てられていたので、ここと麓を行き来するにはどうしても雄飛の手を借りることになる。往復二百円。回数を重ねれば高くつきそうだが、他に交通手段がないので払うしかない。

「ありがとう、雄飛くん。助かったよ」

 すっかり乾いた洗濯物の入ったカゴを漆黒の背から下ろしながら、雪乃は雄飛に礼を言った。カゴの一つは弥勒が持つのを手伝ってくれた。

「まいどあり。またいつでも呼んでくれよな」
「今日は大儲けだな、雄飛」

 弥勒がニヤニヤしながら茶々を入れた。烏への変化を解いた雄飛は「まぁね」とまんざらでもない風で応える。

「これでハンバーガーが食える」
「ポテトもな」
「コーラも」

 ニシシと笑い、雄飛は「じゃあまた」と言ってどこかへ飛び去って行った。今度は烏ではなく人の姿に化けて人里へ下り、ハンバーガーを買いに行くのだろうか。

「人間のおかげだよ、オレたちが食事の楽しさを知ったのは」

 母屋に戻りながら、弥勒が穏やかに微笑みながら話してくれた。

「オレたちあやかしは、腹が減ったり眠くなったりすることがない。だから、食事っていう習慣は未知のものだったんだ。けど、八雲の旦那や櫻子が食事の楽しさを教えてくれてさ。いろんなものを食わせてくれた」

 引き戸を開け、弥勒は「ただいま」と言った。居間から出てきた沙夜が「おかえり」と今や見慣れた無表情で出迎えてくれる。

「雄飛なんてわかりやすいだろ。あいつが金を稼ぐ理由は、うまいメシを食いたいから。人間と同じように、人間らしく暮らすつもりは毛頭なくて、ただうまいメシのためだけに働いてる。あいつの取る客は、常時人に化けて人里で暮らし、人間の使う金を持っているやつだけなんだ」

 へぇ、と雪乃は感心して声を漏らす。人もあやかしも、生き方は個人の自由に委ねられているというわけか。
 三人で居間に戻り、きれいになった洗濯物を畳んでいく。半分ほどを畳み終えたところで、振り子時計がボーンボーンと重低音を響かせた。四時だ。

 ジリリリリリリリ――ッ!

 振り子時計の音に、けたたましい音が重なった。廊下の向こうから聞こえてくる。扉越しにも凄まじい音で、雪乃は顔をしかめて耳をふさいだ。

「なに、この音……!」
「目覚ましだよ、円のな」

 弥勒の解説どおり、耳をつんざく轟音は段階を追って少しずつ小さくなっていった。
 一、二、三、四。
 最後まで残っていたのは聞き覚えのある電子音、携帯電話のアラーム音だった。目覚まし時計四つに携帯のアラーム。そこまでしないと起きられないということか。
 アラーム音はしばらく鳴りっぱなしだった。痺れを切らした沙夜が「見てくる」と言い、居間を出る。弥勒が小さく息をつき、その表情にはわずかに影が落ちたように見えた。
 居間の扉も、玄関を挟んで反対側の寝室の扉も開け放たれたままで、かすかに沙夜の声が聞こえる。

「パパ、大丈夫?」
「ん」
「四時。仕事の時間」
「ん」
「お客さん、来てる」
「ん?」
「人間」
「え!」

 ガチャン、となにかがぶつかる無機質な音がした。目覚まし時計でも倒しただろうか。「やっと起きたか」と弥勒がつぶやくのとほぼ同じタイミングで、携帯のアラーム音が止んだ。

「人間? 誰?」

 弥勒よりいくらか低い、耳にすぅっと馴染む美声が沙夜に尋ねた。

「雪乃」
「雪乃?」
「パパのお手伝い、してくれる人」

 ドタドタとふたり分の足音が響く。まもなくして、沙夜を従えたひとりの男が居間の敷居を跨いだ。

 現れたその人物とまっすぐに目が合う。
 一八〇センチほどの長身に、薄墨(うすずみ)色の着物に濃紺の帯を合わせた着流し姿だった。混じり気のない真っ黒の髪は短すぎず長すぎず、目鼻立ちのはっきりした顔によく似合っている。切れ長で大きなふたえの瞳も、髪の色と同じ、吸い込まれてしまいそうなほど深い闇を思わせる漆黒だ。
 きれいな男の人だった。年の頃は雪乃より少し上だろうか。洋服を着ていたらあるいは大学生にも見えそうだ。

 この人が、円さん――。

 弥勒の言っていたとおり、どこからどう見ても人間の男性としか思えなかった。それも、目の覚めるような美青年である。半分は狼のあやかしなのだと事前に教えられていなければ、一生気づくことはないだろう。

「すみません、お待たせしてしまって」

 やや低い美声が、雪乃に向かって申し訳なさそうに言葉を紡いだ。「い、いえ」と雪乃は慌てて立ち上がった。

「はじめまして、三宅雪乃と申します。こちらこそ、勝手にお邪魔しちゃってごめんなさい」

 声が裏返りそうだった。「とんでもありません」と応じた円の声が落ちついていて、慌てふためいている自分が恥ずかしくなる。

「はじめまして、成田円と申します。たいしたお構いもできませんが、ゆっくりしていってください」

 穏やかに微笑みかけられ、雪乃は頬が紅潮するのを感じた。胸の鼓動が速くなる。
 円は雪乃の足もとに目を向けた。淡々と洗濯物を畳み続けていた弥勒が顔を上げ、「よ」と円に挨拶した。

「どうだ、体調は」
「はい、よく眠りましたので問題ありません。というか、ごめんなさい。洗濯、やってくださったんですか」
「オレじゃねぇよ。礼なら雪乃ちゃんに言いな」

 円は目を大きくして雪乃を見た。

「あなたが」
「いえ、私というか、コインランドリーの洗濯機が、です」
「そんな」

 円は慌てて寝室へと戻り、黒いビジネスバッグを提げて戻ると、こちらも黒い革の長財布から一万円札を取り出して雪乃に手渡してきた。

「申し訳ありません、お手間を取らせてしまって。あの量の洗濯物、持って歩くのも大変だったでしょうに」

 これで足りますか、と円は一万円札を押しつけるように雪乃の右手に握らせる。「待ってください」と雪乃は円の手を押し戻した。

「こんなにいただけません。私が勝手にやったことですから」
「ですが」

 円は室内をなめるように見回す。

「ひょっとして、掃除も……?」
「はい。拭き掃除と掃き掃除を少しだけ」

 あぁ、と円は頭をかかえた。

「本当に申し訳ありません。お客様に掃除や洗濯をさせるなんて」
「お客様じゃない」

 円の後ろに隠れるように立っていた沙夜が言った。

「雪乃、パパのお手伝いする人」
「お手伝い?」
「弥勒が言った。パパには、お手伝いが必要って」

 円は弥勒を睨むように見る。対する弥勒は涼しい顔だ。

「沙夜になにを吹き込んだんですか」
「たいしたことじゃねぇよ。おまえの力が戻るまで、家政婦を雇ってこの家の管理を任せたらどうだって進言しただけだ。そうしたら沙夜が雪乃ちゃんを見つけてきて」
「沙夜」

 円は静かに片膝をつき、沙夜とまっすぐに視線を重ねた。

「ダメじゃないか、勝手に」
「だって」
「だってじゃない。人間に迷惑をかけてはいけないといつも教えているでしょう」

 沙夜は下唇をかみしめ、「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で言った。今にも泣き出しそうな雰囲気だが、沙夜の表情に大きな変化はない。

「あの」

 悪くなりかけている空気に耐えかね、雪乃は思わず円に声をかけた。

「私、迷惑だなんて全然思ってません。大学でアルバイトを探していたところを、たまたま沙夜ちゃんに声をかけてもらったんです。お掃除やお洗濯なら、私にもできるかなって」

 アルバイト、と円はしゃがみ込んだまま雪乃の言葉をくり返す。「そういうことだ」と言って立ち上がったのは弥勒だ。

「教師の仕事を辞めるつもりがねぇんなら、せめて家事くらいは助けてもらえよ、雪乃ちゃんに。おまえは半分人間だ。オレたちとは違う。妙なところで意地張ってっと、マジでくたばっちまうぞ」
「別に意地を張っているわけでは」

 円と弥勒が睨み合い、険悪なムードが流れ始める。
 そんな中。

「教師?」

 その言葉に、雪乃は反応せずにはいられなかった。

「あの、円さんのご職業って……?」

 みんながそう呼ぶのでうっかり「円」と呼んでしまったが、円は特に嫌がる素振りも見せず、きれいな微笑みを(たた)えて答えた。

「夜間部の定時制高校で、教員を」
「えぇ!」

 驚かざるを得なかった。こんな偶然があるだろうか。

「すごい! 実は私も……」

 教師を目指しています、と言いかけて、途端に自信がなくなった。
 一年間働いた学習塾での経験が、雪乃を教師という夢から遠ざける。生徒との意思疎通がうまくいかず、教えることの難しさだけをひたすら痛感しただけの時間。教師という職が向いていないのではないかと、不安と焦りが募るばかりの日々だった。

「雪乃さん」

 円も雪乃をファーストネームで呼び、静かに立ち上がった。

「もしかして、麓の教育大学にかよっていらっしゃるのですか?」
「はい。この四月から二年生です」

 そうですか、と円は微笑む。

「不思議なご縁に恵まれましたね」
「え?」
「実は僕の母も、同じ大学を卒業した国語科の教員だったんですよ」
「本当ですか」
「はい。僕は母に憧れて、教師の道を志しました。かくいう僕も、あの大学の卒業生です」
「そうだったんですか」

 本当に不思議な縁だ。雪乃は心が大きく揺さぶられるのを感じてやまなかった。
 憧れ、という言葉が胸に突き刺さる。
 雪乃もそうだった。中学時代の恩師に憧れ、教師になろうと決めた。あんなに本気だったのに、あの頃の情熱はどこへ消えてしまったのだろう。

「雪乃さん」

 しばらく黙ってしまっていると、円が雪乃との距離をそっと縮めた。

「もしよかったら、家政婦としてではなく、うちの塾で働きませんか?」
「塾?」
「えぇ。週末の夜限定ですが、この建物の裏手にある離れで、あやかしたちに読み書きそろばんを教える時間を設けているんです」

 思い当たる節があり、雪乃は弥勒を振り返る。

「もしかして、さっき言ってた?」

 あぁ、と弥勒はうなずいた。

「オレや八雲の旦那みたいに、人間と仲よく暮らしていきたいと思ってるヤツらを集めて、円は人里での暮らし方をみんなに教えてるんだ。平日は高校での授業があるから、週末限定でな」
「もともとは父が始めた塾なんだそうです」

 円は伝聞調で弥勒の句を継ぐ。

「人間好きだった父は、人間の暮らしのすばらしさについて他のあやかしたちに説くこともまた好きだったそうで、それがいつしか発展して、よりよい人里での暮らしについてみんなで考える寄合(よりあい)みたいなものになっていったのだとか。その最終形態として、人間との穏やかな共存を望むあやかしたちのために、人間としての正しい暮らし方やルール、必要最低限の能力を教える塾になったそうです。父の死後は母が、母の死後は僕が跡を継ぎ、今に至ります」

 円の語り口は穏やかだった。母の櫻子だけでなく、父の八雲もすでにこの世にはいないというが、悲しみに暮れる様子はおくびにも出さない。別れの時から多くの時間が経過しているのだろう。
 円は困ったような笑みを浮かべる。

「お恥ずかしながら、母と違って僕は体力面に少々不安がありまして、ひとりで大勢のあやかしたちを相手にするのはなかなか大変なんです。なので、教師の道に進もうとされているあなたにお手伝いいただけたら、とても助かるのですが。もちろん、お給料はきちんとお支払いします」

 はい、と円は手にしたままだった一万円札を差し出してくる。心がぐらりと揺れたのは、お金のせいではなかった。
 今はまだ、誰かになにかを教える気になれそうもない。ましてやあやかしなんていう未知の存在を相手にするなど、うまくやれる自信がまるでなかった。
 反面、これは大きなチャンスかもしれないと思う気持ちもあった。定時制高校といえば、現役生である十代の子たちだけでなく、二十代、三十代、それ以上の成人した生徒も在籍している。さまざまな年代の生徒を相手にしている円からなら、学ぶことも多いだろう。自分に足りなかったものが、あるいは円のもとでなら見つかるかもしれない。そんな期待も確かにある。
 でも――。

「では、こうしましょう」

 煮え切らない雪乃を見かね、円が顔の横でピンと人差し指を立てた。

「明日はちょうど土曜日です。雪乃さん、一度『(ゆい)』に見学にいらっしゃいませんか?」
「結?」
「父の創設した塾の名です。人とあやかしとの良きご縁を結ぶための学び()だから、『結』」
 素敵な名前だと思った。それだけで少し興味が湧いた。
 雪乃の表情が変わったのを見逃さず、円は笑顔でたたみかけてくる。

「開講は午後六時。ご自宅まで雄飛をお迎えに向かわせますから、タクシー代わりにお使いください。費用はこちらで負担します」
「はい。あの……ありがとうございます」

 見学に来ないかと誘われていただけのはずが、なぜか参加することが決定した流れになっている。弥勒といい円といい、この界隈の人たちはどうしてこう、少々強引なところがあるのだろう。

「持ち物は特にありません。服装も、裸でなければどんな服でお越しいただいても結構です」
「はっ……!?」

 裸。
 一気に顔が熱くなる。クスクスと円は笑った。

「では、雪乃さん。明日、お待ちしています」

 漆黒の瞳に射貫かれ、雪乃の心臓が小さく跳ねる。
 優しい眼差しだった。嫌なことをすべて忘れさせてくれるような、あたたかみのある光を感じる。
 胸が高鳴る。この人のもとで学んだら、未来が切り開けるかもしれない。停滞している今が、明るい未来にきっとつながる。そんな気がしてならない。
 だって、今この時がすでに、これまでまったく想像していなかった未来なのだから。

「はい。よろしくお願いします」

 今度は迷わず、雪乃ははっきりと返事をした。円も、弥勒も、なかなか表情の変わらない沙夜でさえ、嬉しそうに笑った。
 人間の世界について学びに来るあやかしたち。どんな愉快な生徒が集まるのだろう。
 雪乃の心は、いつしか楽しみな気持ちでいっぱいになっていた。