白石は、アパートの小さな机のうえでパソコンを見ていた。

「これだ…」
見ていたネット記事には、九条本人が展示会で作品についての解説をするというイベント情報が載っていた。

彼は肩をすくめ、重い気持ちを振り払うように立ち上がった。外の寒さが肌に刺さるようだったが、彼にとってはもう、この展示会に行かずにはいられなかった。

興味だけではなく、何かを掴む感覚に取り憑かれたような気持ちだった。

「取材しないと、何も分からない。」

その言葉が白石の中で響く。白石は街の喧騒を避けるように、駅へと向かって歩き出した。地下鉄に乗り、少し重たい空気の中で無意識に時計を確認する。

美術館に近づくと、普段の白石ならば関わらないような、華やかな雰囲気が広がっているのが不思議に感じられた。

彼の世界では、取材対象の事件や人物のみに焦点を当てて、目の前にあるものに感情を揺さぶられることはほとんどなかった。

美術館に到着すると、冷たい空気が彼を迎えた。

扉を開けると、そこにはすでに何人かの来場者が集まり、展示室の中へと足を踏み入れようとしていた。

その静けさの中に、何か張り詰めたものを感じ取ると同時に、白石は自分の目的を再確認する。彼はじっとその美術館に向かって、足を踏み入れた。

展示室に響く静寂が、少しずつ集まる観客の間に期待と緊張をもたらしていた。

会場の一角には、いよいよ九条朔夜が登場するという解説イベントの準備が整い、その空気は微妙に重く、しかしその静けさが逆に人々の関心を引き寄せるようだった。

白石は、周囲の観客たちに混じり、身を引き締める思いでその場に立っていた。

展示会の主催者がマイクで告げた言葉が、心地よく響いた。

「本日、九条朔夜ご本人による作品解説を行います。どうぞ、作品について深く理解していただければと思います。」

一瞬の静けさの後、会場の空気が変わり、観客たちは息を呑んでその時を待った。

やがて、薄暗い展示室の中に、しっとりとした足音が響き渡る。九条朔夜がその姿を現した瞬間、周囲の観客の視線が一斉に集まる。

彼は、冷静な眼差しと落ち着いた歩調で、無駄のない動きでステージに上がった。

その姿がどこか儚げでありながらも、圧倒的な存在感を放っていることに、白石は自然と引き込まれるような感覚を覚えた。

彼は壇上に立ち、軽くマイクを握る。姿勢を正し、観客を見渡すと、九条の唇が静かに動いた。

「皆さま、本日はお越しいただきありがとうございます。」

その一言で、会場の空気がさらに張り詰め、観客は息を呑む。

そして、その場が九条の美貌に驚きの声を隠せなかった。九条の声は静かでありながらも、その中に力強さがあった。深いお辞儀をして、用意された上等な椅子に座る。

周囲の喧騒がまるで背景のように薄れていく中、彼の冷徹でありながらもどこか神秘的な佇まいが、まさにその場を支配しているかのようだった。

彼が座るその位置は、まるで彼が全てを見下ろしているかのように、常に冷静で高潔な印象を与えた。

「私の作品を見て、皆さんは何を感じますか?」

観客一人一人をじっくりと見渡しながら言葉を紡ぎ始めた。

その眼差しは冷静でありながらも、どこか深い情熱を感じさせるもので、彼の語る言葉がまるで時間を止めてしまうかのようだった。

「ただの彫刻、ただの芸術品だと思うかもしれません。しかし、私が作るこれらの作品は、ただ美しさを追求するためのものではありません。」

彼は、展示室の中に並んでいる彫刻たちを指し示す。その姿は、まるで自分の子どもたちを紹介するかのように、誇りを持っていた。

「悲しいことに、人生では避けられない被災や事故、事件、多くの命が奪われた瞬間、それらの出来事が私に深く影響を与えました。

私は人々の死が無意味ではなく、何かを意味するものだと感じたのです。」

彼は少し間を置くと、続けた。

「それから、私はずっとその気持ちを抱え続けていました。死後の世界がどうあるべきか、あるいは命とは何なのか。その問いを追い求めてきました。」

九条は少し身をかがめるようにして、一つ一つの彫刻を観客に見せていった。

彼が語る言葉が、まるでその彫刻たちが持つ力を語るようで、彼自身もその一部であるかのようだった。

「私の作品は、鎮魂歌であり、また、残された者たちへの祈りです。

人々がどんなに小さな命でも、その命が持っていた輝き、思いが消えていくことのないように。

この彫刻は、死者の尊厳を守り、永遠の形でその美しさを封じ込めるために作られたものです。」

九条の目には、一瞬だけ憂いが漂った。

彼の心の中にある深い悲しみが、その瞳に表れたように見えたが、すぐにそれは隠され、彼は再び冷静に観客たちを見渡す。

「私は、この作品たちが、ただの芸術ではなく、亡き人々の魂が静かに安らいでいく場所であってほしいと願っています。

美しさとは、その中に秘められた力によってこそ、深く感動を与えるものだと思うのです。」

彼の言葉は静かでありながら、ひとつひとつが確信に満ちていた。

会場にいる誰もが、その真摯な語りかけに息を呑んで耳を傾けていた。

「私にとって、これらの彫刻は単なる表現のための手段ではありません。それは、生命の消えた場所に光を灯すためのものです。」

彼は手を広げた。

「この美しさが、訪れたすべての人々の心に残り、そして誰かが感じてくれるなら……それが私の作品の目的です。」

観客たちはしばらく沈黙し、九条の言葉を飲み込んでいた。

その場にいた者たちは、何か胸の奥にしっかりと響くものを感じ取ったようだった。

しかし、その一方で、誰もが感じていたのは、九条の言葉の裏に隠された、言葉にできないほどの悲しみと哀悼の思いだった。

その瞬間、白石は思わず息を呑み、心の中で疑念と不安が交錯するのを感じていた。しかし、同時に彼もまた、その美しさに強く引き寄せられていた。

「それでは、九条さんにご質問のある方はいらっしゃいますか?」

一人の男性が手を上げる。風貌からするに記者ではなく九条のファンだろう。

「九条様の作品には、美しさだけでなく、どこか禍々しい絶望のような雰囲気を感じます。これも先ほど答えられていた犠牲への怒りを表しているんでしょうか」

九条は、まるでその言葉を吟味しているかのように微細に瞳を動かした。その静けさの中に、何か深遠で強烈なものを秘めていると感じさせる。

すこしの間を持って、ようやく、彼の声がその静寂を破った。

「芸術とは、単なる形を超えて人々の心に触れるものだと思います。

美しさは確かに重要ですが、それ以上に、作品が持つ力—それは死者の魂が込められたものとしての力です。私の作品が与える感情や衝撃、それが人々を動かすのです。」

その言葉は、まるで彫刻のように一言一言が堅固で、冷徹でありながらもその美しさを湛えていた。他者が言葉を挟む間もなく、九条はさらに語り続ける。

「これらの彫刻は、ただの物体ではありません。それぞれが、人々の持つ『美』を永遠に留めるために創り出されたものです。」

白石は、その言葉にどこか違和感を覚えながらも、引き込まれていく自分を感じていた。

来場者たちは、無言で彼の解説に耳を傾け、その眼差しはまるで、九条自身の作品のように、どこか生気を失っているように見えた。

「美は死の中にこそ存在する。そして、私たちはその美を、永遠に保つために、彫刻という形に託しているのです。」

一息ついた後、九条は再び観客の目を捉えた。その目には、冷徹な決意が宿っているようだった。

彼の言葉は、聞く者すべてを圧倒し、引き込んでいく。穏やかな声色の中に、ただならぬ力強さが感じられる。

それは、まるで彼の内に潜む狂気すらも含んでいるかのようだった。彼の瞳はどこか遠くを見つめ、視線の先に何かを確かめようとするような表情を浮かべていた。

観客はその圧倒的な存在感に、少し言葉を失っていたが、しばらくしてから記者らしき人物が慎重に尋ねる。

「しかし、九条さんの作品が引き起こす体調不良や、観客の間での不安感についてはどうお考えですか?」

その問いに、九条は微動だにせず、やがてふと静かに口元に微笑を浮かべた。その笑みには、どこか遠慮のない冷徹さが漂っていた。

「芸術には、時として不安や混乱をもたらすことがある。それこそが、変革の兆しなのです。

人々はその美しさに魅了されると同時に、恐れや違和感を抱く。美は、その絶対的な存在感で、我々の心を揺さぶる力を持っています。

それが、まさに芸術の力。もしその力に不安を感じるのであれば、それは美を受け入れる覚悟が足りないということです。」

その冷徹な言葉が空気を支配し、周囲の静寂がさらに深くなる。

九条の顔に浮かぶ微笑は、どこか宗教的な儀式を感じさせるほど神秘的で、彼の内に秘められた情熱と狂気が一瞬だけ顔を覗かせたかのようにも見えた。

「私の展示会に賛否両論があるのは理解しています。しかし、私は信じているのです。美とは、その背後にある情熱があってこそ成り立つものだと。」

九条がそのまま微笑み、静かに会場に向かって手を広げた。

「どうぞ、この美しさを感じてください。私の作品を、あなた方自身の目で確かめ、そして、その美しさを心に刻んでいただければと思います。」

イベント終了のアナウンスが響いた。

静かな足音が、美術館の広い空間に響き渡る中、微笑みを浮かべて人々を見送る九条の姿はすでにその美術館の作品群の一部となったかのように溶け込んでいった。