にえのあしおとに関する伝承

(出典:地方伝承調査報告書「中四国沿岸部における災害と怪異の伝承」より抜粋)


「にえのあしおと」とは、特に津波や火災といった大規模な災害の後に現れるとされる、怪異的な現象に付けられた俗称である。

古くから中四国沿岸部の被災地において伝承されており、その存在は江戸時代の村落記録にもちらほらと見られる。

以下は、「にえのあしおと」について語られている代表的な特徴である。


・灰の声

伝承によると、大規模災害の後、遺灰や焼け残った瓦礫の中から「囁くような声」が聞こえることがあるとされている。

その声は、亡くなった人々の声や、明らかに人間のものではない低い音だと語られることが多い。

江戸時代の記録:

天明年間(1781-1789)に発生した大津波後の村落記録には、村人たちが焼け跡の灰の中から「やめて」「帰して」といった声を聞いたという証言が残されている。

当時の村人たちはこれを「亡者の嘆き」と恐れ、遺灰を持ち出すことを厳しく戒めたという。


・赤い目

「にえのあしおと」に触れた者は、次第に精神が蝕まれると言われている。その最も明らかな兆候が「赤い目」である。

伝承によると、囁きの声に長く耳を傾けた者や、遺灰を身近に置いた者の目が次第に赤く染まり、他者を裁くような冷たい目つきになるという。

口伝の一例:

「赤い目になった人は裁きの代弁者となる」と語られることが多い。赤い目を持つ者は他人の罪や過ちを厳しく指摘し、その者の罪を背負わせるような役割を担わされるという。

近代になり、「赤い目の者」と接触した人々が精神的に追い詰められるケースが報告されている。


・燃える水

津波や大火災の後、現場にいた人々が「水が燃えていた」と語る現象も「にえのあしおと」と関連付けられることが多い。

この現象は科学的に説明がつかないとされるが、伝承では「死者の怨念が集まり、自然の法則を歪めた」とされている。

昭和初期の記録:

昭和三陸地震(1933年)の後、ある漁村では「海が夜になると青白く燃え上がり、その中から泣き声が聞こえた」という話が語られている。

この現象を目撃した者の中には、精神錯乱をきたす者が多く出たという。


・浮き上がる家

最も忌まわしいとされる現象が「浮き上がる家」である。

この現象は「にえのあしおと」に取り憑かれた者が住む家が、津波や火災の後に異様な形で浮き上がることから名付けられた。

明治時代の口碑:

明治三陸地震(1896年)の後、被災地の村で「一家全員が取り憑かれた家」が瓦礫の山から浮かび上がるように現れたという記録が残っている。

この家の住民は全員赤い目をしており、近隣住民に不気味な言葉を繰り返していたという。

現代では、この現象は特に不安定な地盤や津波の流れによる偶然だとされるが、実際に目撃した者は「その家だけ異様に浮かび上がっていた」と証言している。



伝承研究家の間では、「にえのあしおと」は単なる民間伝承ではなく、被災地特有の集団心理やトラウマの影響による幻覚、幻聴ではないかという説が有力視されている。

しかし一方で、現代においても「囁き」を聞いた者の証言が後を絶たないことから、一種の怪異現象として解釈する者も多い。

「囁き」の要点:

・災害の際、多くの死者を出した土地で発生する。

・遺灰や瓦礫に近い場所で目撃される。

・被災者や遺族の感情が何らかの形で結晶化した現象である可能性がある。

最終的には、「にえのあしおと」が被災地における「語られざる恐怖」の象徴として、多くの人々の記憶に刻まれているのは間違いないだろう。

現在もその調査と解釈が進められているが、完全な解明には至っていない。


この伝承は、現代の都市伝説にも影響を与えており、現在でも被災地を訪れる人々の間で語り継がれている。


20Xx年 追記【赤い花についての伝承資料】

「赤い花」は、響霧町および中四国地方で語られる怪異の象徴であり、災害後の不気味な目撃談や失踪事件と結びつけられることが多い。

その姿は、赤い花を手にした少女として現れるというが、その存在は単なる幻覚や集団心理の産物とは言い難い。以下に、伝承や噂を基にした資料を記す。

・外見と特徴

赤い花を持った少女の目撃談は、共通して「裁くような赤い目をしていた」とされる。その目は、見る者に強烈な罪悪感や不安を与え、心を蝕むといわれている。川や海辺に佇む姿が多く目撃されている。

・行動と影響

「赤い花」を見た人々は、その後、不安や錯乱に陥り、最終的には行方不明となることがある。

その際、川や海の近くでその人物が最後に目撃されるケースが多い。

特に、失踪した人物が過去に何らかの罪を隠していた場合、この怪異がその罪を裁くために現れるという説がある。

【歴史と伝承】

この怪異に関する最古の記録は、江戸時代の地誌に記された以下の文章である。

「村の川辺にて赤き花を携ふる少女を見たり。此の者、何ゆえか水底に誘ひけむ、村人幾人か帰らず。」

この記録は、当時の災害後の混乱を反映したものと解釈されてきたが、現在でも同様の現象が語られる点から、単なる民話ではなく、怪異的現象である可能性が示唆されている。

・近年の目撃談

震災後の響霧町において、「赤い花」の目撃談が再び増加している。

ある住民は、「少女は災害の犠牲者の声を代弁し、その魂を浄化するために現れるのではないか」と語っているが、その一方で、「ただの怨念の集合体だ」とする住民もいる。

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注意:「赤い花」の存在を信じるか否かは個人の判断に委ねられる。しかし、赤い目を持つ少女に出会った者が精神的、肉体的な不調をきたす事例が多発していることから、目撃地への接近は推奨されない。