白石は、九条のアトリエの前に立っていた。足元の冷たい石畳を踏む音が、静かな夜の街の中でひときわ響く。

アトリエの窓から漏れるほのかな光が、何かを示唆しているような気がしてならなかった。彼の心の中には、長い調査の中で積み上がった数々の疑問が渦巻いていた。

だが、その足元に、何かが引き寄せられるように感じられた。視線を下ろすと、目の前にひとりの少女が立っているのが見えた。

その姿は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。少女は、小柄で、黒い髪を肩まで伸ばしており、その目はどこか遠くを見つめるようにぼんやりとしていた。

赤い花の存在を思い出し、白石の胸が少し高鳴った。

「あのときの…澪ちゃん?」

声をかけると、少女はゆっくりと顔を向けた。目が合うと、その表情は驚きもなく、どこか穏やかなものだった。

「…おじさん!まえに九条せんせのお店にいたひとだ!」

白石は少し戸惑いながらも、冷静を装い、言葉を続けた。

「どうしてここに?」

少女はしばらく白石を見つめた後、にっこりと微笑んだ。

その笑顔には、どこか懐かしさが漂っているように見えた。白石はその笑顔に、何か引っかかるものを感じた。

少女は、少し恥ずかしそうに言った。

「みおは、九条せんせのおともだちだから。」

その言葉が、白石の胸に衝撃を走らせた。友達? その少女が言う「友達」が、どんな意味を持つのか──

「おうちにいるときは、ゆうちゃんになるの。」

少女は、ぽつりとそう言った。

その言葉が、白石の中で何かを決定的に繋げた。篠宮悠生は、ただの友人ではなかった。九条にとっては、彼が心の拠り所であり、人生の中で最も大切な存在だったはずだ。

そして今、この少女が言った「ゆうちゃん」という言葉。どうして、こんなにも自然に出てきたのか──そのことが白石には不気味なほどに感じられた。

「君、篠宮悠生のことを知ってるのか?」

白石の声は、少し硬くなっていた。

少女はその問いに、少し首をかしげた。

「篠宮悠生…っていうの?」

彼女の目は、しばらく白石を見つめた後、わずかに困惑した様子を見せた。

「でも、ゆうちゃんって呼ばれるのが、好きだったから…」

その言葉に、白石は冷や汗を感じた。どこか無邪気なその少女の言葉の裏に、何かが隠されているような気がした。

しかし、それを追及することが今はできない。白石は一瞬、胸の中で葛藤を覚えた。だが、最終的に彼は冷静さを取り戻し、口を開いた。

「…君は、九条に何を教わったんだ?」

少女はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。

「昔からいっしょの、おともだちのゆうちゃんだって。小学校も、中学校も、高校もいっしょ!おとなになったみたいでうれしいの」

その言葉に、白石は深い疑念を抱いた。これはただの偶然ではない。

「あかいおはなは、おともだちのあかしだって!」

白石は頭を抱えた。こんなに小さな少女に、なんて重荷を与えているんだ。

「君、一人じゃ危ない。お母さんはどこに?」

「おうち!」

そう指差したのは九条のアトリエであった。

そう言い残し、白石は急いで足早にアトリエの方へ向かう。背後から少女の視線を感じながらも、その問いの答えを知るためには、今すぐにでも九条と向き合う必要がある。



白石がアトリエの扉に手をかける直前、背後から足音が近づいてくるのを感じた。振り返ると、そこには少女の母親らしき女性が立っていた。

その目には、何か決意のようなものが宿っており、その表情には警告の色が濃かった。白石は心の中でひと息つきながらも、無意識にその足を一歩踏み出した。

「あなたが調べていること、無駄にしないほうがいいわ。」

彼女の声は冷たく、鋭い刃のように白石に突き刺さった。その声には、聞き覚えがあった。

「佐藤さん……」

何かを言うべきか悩む間もなく、女性は静かに続けた。

「九条朔夜は、ただのアーティストじゃない。彼が何をしているのか、あなたにはわからない。」

その言葉が白石の胸に響く。だが、彼は冷静に答えた。「僕が知りたいのは、彼が何を隠しているのかです。」

「それは、知ってはならない。」

母親の声が低く、警告の色を強めた。

「あなたがどれだけ掘り下げても、真実は見えてこない。無駄なことをしているだけよ。」

白石はその言葉に反応せず、静かに前を見据えた。彼は心の中で確信を持っていた。これ以上引き下がることはできない。

そして、この警告が彼にとっては、逆に真実に迫るための手がかりになると感じていた。

「すみませんが、僕は行かせてもらいます。」

白石はそのままアトリエの扉に向き直り、強く押し開けた。

扉の向こうには、予想以上に冷たく、静かな空間が広がっていた。薄暗い中で、冷気と湿気が絡み合うような不気味な空気が漂っている。

白石の心拍数が少しだけ上がったが、それでも彼は一歩を踏み出した。

奥に続く廊下を進むうちに、壁の間から微かな音が聞こえてきた。その音は、まるで何かがひっそりと動いているような、不安を掻き立てるものだった。

白石はその音の方向に目を凝らし、ゆっくりと足を進める。