白石は響霧町美術館の控室でのやりとりを引きずったまま、美術館周辺を歩いていた。

スタッフの奇妙な態度が頭から離れず、何かを見落としているのではないかと考え込む。

ふと、響霧町美術館が建つ四国のこの山奥でも、かつて大きな津波の被害を受けたことを思い出した。ニュースや書籍で見た古い記録が、頭の片隅に蘇ったのだ。

「もしかして、何か関係があるのかもしれない……。」

白石はひとつの仮説を立て、地元の歴史を調べることを思いついた。

美術館近くの小さな町にある図書館なら、過去の災害についての記録が見つかるかもしれないと考えた。

小さな図書館は、山奥に似つかわしい静かな場所だった。

受付で「響霧町地区の歴史や災害に関する資料はありますか?」と尋ねると、司書は驚くほど手際よく、古い新聞記事や地元史が詰まった書棚を案内してくれた。

「こちらに、過去の被災に関する記録があります。津波被害についても記載されていますよ。」

白石は感謝を告げ、山積みになった資料を机に運び、目を通し始めた。

資料によると、響霧町周辺では約半世紀前に大津波が発生し、町全体が壊滅的な被害を受けたという。

多くの住民が亡くなり、その後、長らく町はゴーストタウン同然だった。

再建には数十年を要し、完全に復興することはなかったが、現代ではわずかな住民が戻り、美術館を含む観光施設が建てられたことで、辛うじて町が息を吹き返していた。

白石は、手元に広げた古びた新聞のページを見つめながら、胸の中に重い感覚を覚えていた。

その紙面には、響霧町町を襲った被災の記録が残されていた。地震、津波、そして壊滅的な被害――。

被災地の写真が無残な現実を映し出し、荒れ果てた街の中で生き残ったわずかな子どもたちの姿が掲載されていた。

「九条…朔夜。」

白石の視線は、一枚の写真に釘付けになった。

そこには高校生頃の若かりし九条が写っている。彼は泥まみれで疲れ切った表情を浮かべながらも、腕の中に赤いジャケットを抱えていた。

そのジャケットは、ひどく汚れていたが、どこか大切そうにしっかりと抱きしめられている。その様子は、見る者の心に刺さる何かを持っていた。

ここ、響霧町は九条の地元だった。

展示会に訪れる人々の妙な反応を思い出す。

「響霧町の人々は、九条を守ろうとしているのか……」

記事には、被災で九条の家族や多くの命が失われ、彼と他数名だけが奇跡的に助かったことが記されている。

救助隊が彼らを発見したとき、九条はそのジャケットを手放さなかったという証言も載っていた。

「赤いジャケット…そして赤い花。」

白石は無意識に口にしていた。その赤い花のイメージが頭に浮かび、展示会で見た九条の作品が次々に思い出される。

確証はないが、点と点が繋がり始めている感覚がした。

九条が被災を背景に作品を生み出していることは、彼自身が語った「鎮魂歌」という言葉からも察せられる。

しかし、赤い花が何を意味しているのか、その真相にはまだ霧がかかっている。

白石は新聞を折り、机の上にそっと置いた。心の中では、九条がどのような人生を歩んできたのかを知る責任を強く感じていた。

そして、もし赤い花が彼の失われた家族や故郷、そして被災の悲劇を象徴しているのだとしたら――それをどう記事に表現すべきなのか。

「次は、当時の関係者や記録をもっと調べる必要がある。」

白石は手帳にメモを取りながら、行動計画を立て始めた。九条の過去を紐解くことは、彼の作品の真髄に触れる鍵になる。

だが、それは同時に、九条がずっと隠してきた心の奥底を暴くことにも繋がるかもしれない。その覚悟を胸に、白石は新たな調査に乗り出す決意を固めた。

静まり返った部屋の中で、彼のペンの音だけが響いていた。その音が、九条の人生を追う白石自身の道を象徴しているかのようだった。