夜明けが訪れ、白石は目を覚ました。

寝不足の頭を振り払いながら、手帳と録音機をカバンに詰め込む。

鏡に映った自分を見つめ、ネクタイを締め直す。気を引き締めるように一度深呼吸をし、玄関を出た。

外の空気はひんやりと冷たく、早朝の静けさが広がっている。心の中で何度も繰り返してきた質問が頭を巡る中、白石は決意を新たに足を踏み出した。

白石が九条朔夜のアトリエに足を踏み入れると、息を飲むような静寂が彼を包み込んだ。

外の喧騒とはまるで別世界のように、室内には冷たい空気が漂い、どこか威圧感すら感じさせる。

目の前に広がる空間は、無数の彫刻やアートピースが整然と並ぶ異次元のようだった。

柔らかなスポットライトがそれぞれの作品を照らし、彫刻たちの影が床に長く落ちている。その中には、人間のようでありながらどこか夢幻的な存在感を放つものもあった。

「白石湊斗さんですね?」

背後から冷静な声が響いた瞬間、白石の肩がピクリと震えた。

振り返ると、そこには九条朔夜が立っていた。

彼は漆黒のスーツに身を包み、薄い笑みを浮かべている。

その目は鋭く、まるで相手の心の奥底まで見透かしてしまうような輝きを持っていた。彼の胸元には、あの赤い小さな花がなかった。

「お待ちしておりました。」

九条は一礼し、涼しげな声で続けた。

「お互いの時間を無駄にしたくありませんので、どうぞ座ってください。」

白石は一瞬、言葉を失った。予想していた以上に彼の存在感は強烈だった。彼の立ち振る舞いには、一切の無駄がない。

その動きひとつひとつが、何か決められたパフォーマンスのように完璧で、思わず圧倒される。

「ありがとうございます。」

ようやく声を絞り出し、白石は彼が指し示した椅子に腰を下ろした。

目の前のテーブルには、一冊のスケッチブックが置かれている。

ページの端が少し擦り切れ、長い年月を共にしたことが見て取れる。

九条はそのスケッチブックに手を置くと、指先で表紙を軽くなぞった。

「まず、あなたに知っていただきたいのは、私の作品に込められた思いです。」

彼の声は静かでありながら、部屋の隅々まで届くような力を持っていた。

「私の彫刻は、単なる形ではありません。それは時間、記憶、そして消えゆくものの痕跡を刻むためのものです。」

白石は一瞬、彼の言葉に引き込まれた。

「その痕跡というのは、人々の記憶のことですか?」

白石が尋ねると、九条は微かに笑みを浮かべた。

「記憶だけではありません。それは感情そのもの。

悲しみ、怒り、希望――人々が生きている証として放つ無数の感情が、私の作品に刻まれているのです。」

その言葉に、白石は心の中で小さな衝撃を受けた。

彼の作品が放つ独特の空気感は、この「感情の痕跡」に由来するのかもしれないと直感的に感じた。

「でも、どうしてそのような形で感情を表現しようと思ったのですか?」

白石は少し前のめりになりながら尋ねた。

九条はふっと視線を彫刻の一つに向けた。それは、被災で失われた人々の像を象徴しているように見える作品だった。

「私は、目の前で消えていったものたちを忘れたくない。そして、その痕跡を人々に感じてもらいたいのです。

美術館で立ち止まり、作品を見つめ、その意味を考える瞬間――それこそが、亡くなった人々への鎮魂となるのではないかと思うのです。」

彼の言葉には、揺るぎない信念が込められていた。

しかし、その背後にある何かを、白石は確かに感じ取っていた。

それは、彼自身の過去。彼が決して語ろうとしない何かが、彼を動かしている。

それを暴きたいという記者としての衝動と、そっとしておくべきではという感情が、白石の中でせめぎ合う。

九条は再び白石に向き直り、静かな声で言った。

「では、次の質問をどうぞ。」

彼の瞳に浮かぶ影を見つめながら、白石は一瞬躊躇したが、覚悟を決めて口を開いた。

「あなたが作る彫刻は、なぜすべて人々の『断片』に見えるのですか?それは、完全な形を避けているようにも感じられるのですが。」

九条はその言葉にわずかに眉を動かし、薄く笑みを浮かべた。

「それが人生だからです。」

その瞬間、室内の空気が一層張り詰めたような気がした。

九条の言葉が、これまでの静けさを一気に飲み込むように響き渡る中、白石はさらに深く問いを投げかける準備を始めていた。

白石は九条の言葉を反芻した。

「それが人生だからです。」

この短い答えの中に、彼の作品の核となる哲学が凝縮されているように感じた。

だが、その真意を探るには、さらに深く掘り下げなければならない。

「断片的であることこそ、人生そのもの、ということでしょうか?」

白石は慎重に尋ねた。

九条は一瞬だけ目を閉じた後、静かに答えた。

「そうです。人生は決して完璧な形を取ることはありません。

何かを失い、何かを得て、それを繰り返しながら、人は進んでいく。

私が作るのは、その一瞬の輝きです。断片だからこそ、見る人がそこに自分を重ねられる。」

彼の声には、一切のためらいがなかった。

彼の中にある確固たる信念が、まるで彫刻のように形を成しているように感じられた。

だが、その言葉の背後には、どこか説明しきれない哀しみが潜んでいる。

「それでも、九条さんの作品は美しい。」

白石は思わず漏らした。

「美しさは、そこにある悲しみを引き立てるための対比ですか?」

九条は少し驚いたように眉を上げた。

そして、テーブルの上に置かれていたスケッチブックを開くと、一枚のラフなデッサンを白石の目の前に差し出した。

そこには、崩れた建物の残骸の中に咲く一輪の花が描かれていた。その花は、まさしく九条が胸元に飾っていた赤い花にそっくりだった。

「これは…?」

白石はそのデッサンを見つめながら言葉を失った。

九条は静かに微笑んだ。

「この花は、生と死の狭間に咲くものです。悲しみの中にも、必ず小さな希望がある。それが私の信念です。そして、それを表現するために私は作品を作り続けている。」

その瞬間、白石の中でこれまで感じていた九条の作品の冷たさが、別の形を取って見え始めた。それは冷たさではなく、むしろ鋭く切り取られた感情そのものだった。

「あなたがこうして私に直接話してくれることは、とても貴重だと感じます。」

白石は言葉を絞り出した。

「でも、あなた自身は何かを失ったことがあるのですか?」

九条はその問いにしばらく沈黙した。

そして、スケッチブックを閉じると、その表紙を静かに撫でながら言った。

「失わなければ、私は作れなかったでしょうね。」

その答えはあまりに曖昧で、だが十分に重みを持っていた。

九条の瞳が一瞬だけ揺らいだことを、白石は見逃さなかった。

部屋の中に再び静寂が訪れる。

二人の間には、彫刻たちの影が長く横たわっている。その影は、まるで彼らの会話が生んだ何かを象徴しているかのようだった。

白石は改めて覚悟を決め、ノートに次の質問を書き込むためのペンを握り直した。

九条朔夜という男性の真実に近づくためには、まだいくつもの壁を乗り越えなければならないと感じながら。

「それでは、もう少しお時間をいただけますか?」

九条は白石の真剣な眼差しを見つめ、再び薄い微笑みを浮かべた。「どうぞ、続けてください。」

そして、静寂を切り裂くように、二人の対話が再び動き出した。

九条は薄い微笑みを浮かべたまま、白石の言葉を待っている。

その姿勢は、まるで静かに訪れる波を受け入れる岸辺のようだ。

白石は、これまでにない緊張感を覚えつつも、彼の目に映る真実を見逃さないようにと決意を新たにした。

「九条さんの作品が『鎮魂歌』であるとおっしゃいましたが、それは被災や大きな喪失だけを指しているのですか?

それとも、もっと個人的な…たとえば、九条さん自身の喪失感とも関係があるのでしょうか?」

その問いに、九条は一瞬まぶたを閉じ、深い呼吸をする。

それはまるで内側にある感情を整理するための儀式のようだった。

そして再び目を開くと、彼の声はどこか遠い場所から響いてくるような、淡い響きを帯びていた。

「私の人生は、喪失の連続でした。

津波で街が崩れ、人が消え、そこに残ったのはただの瓦礫と静寂。それは私にとって、世界そのものが壊れてしまったような感覚でした。」

彼の言葉は、どこか平坦で抑揚のないものだったが、その背後には深い痛みがにじんでいた。

白石は彼の顔をじっと見つめながら、その痛みを拾い上げるように耳を傾ける。

その言葉の重みが、部屋の中の空気をさらに密度のあるものに変えた。

白石はペンを握る手に力が入るのを感じながら、彼の言葉を一字一句ノートに書き留めた。

「九条さん、あなたの作品が人々に感動を与える理由が、少しだけわかった気がします。」

白石は真剣な表情でそう言った。

「でも、それだけではない何かがあるようにも思えるんです。あなたの中にあるもうひとつの真実を、ぜひ聞かせていただけませんか?」

九条の目がわずかに細まり、口元に微かな笑みが浮かぶ。

それは、試されているのは自分ではなく、この記者の側だという暗黙の宣言のようでもあった。

「真実とは、常に多面的なものです。」

彼は少し声を低くして言った。

「あなたが求める答えが、必ずしも私の言葉の中にあるとは限りませんよ。」

その言葉に白石は一瞬怯むも、すぐに気持ちを奮い立たせた。

「それでも構いません。私は、この対話の中で何かを掴むつもりでいます。」


九条の言葉が部屋に静かに溶け込み、再び訪れた沈黙を破るのは、白石自身の使命感だった。

彼は九条の視線を受け止め、慎重に次の質問を考える。

そして彼自身の直感が、この場で試されていることを痛感していた。

「ひとつ、気になることがあります。」

九条の薄い眉がわずかに動いた。その視線は、まるで鋭い刃物のように白石に注がれる。

「先日、テレビで拝見したとき、あなたの胸ポケットに赤い花が入っていましたよね。あれにも、何か特別な意味があるんですか?」

九条の手元でカップが小さく揺れた音がした。彼は数秒間沈黙を保ち、カップを置くと、目線を白石に固定した。

その瞳には、一瞬だけ迷いのようなものが浮かんだが、すぐに冷たい仮面をまとった表情に戻る。

「あなたにとって、あの花は大切なもののように見えたんです。それが、あなたの作品とどう繋がっているのか知りたくて。」

白石の返答は慎重だった。彼は九条の反応を伺いながら、次の一言を考えていた。この問いがどこまで踏み込むことになるのか、自身でも分からないまま進んでいた。

九条は短く息をつき、視線を少しだけ外すと、窓の外を見つめた。その横顔は、まるで遠い過去を思い出しているようだった。

「ただ、ポケットに入れていたそれについては、特に意味はありません。たまたま、いただいたものだっただけです。」

その言葉は整然としていたが、どこか引っかかるものがあった。九条が答えながら視線を避ける仕草は、彼が本心を語っていない証拠のように思えた。

「そうですか…。」

白石は一度下を向き、考えを巡らせた。

この問いが九条にとって、単なる好奇心以上の意味を持っていることは明らかだった。だが、それ以上踏み込めば、確実に彼の警戒心を煽るだろう。

室内に緊張が漂う中、九条は再び白石を見据えた。

「質問の意図が分からないわけではありません。ただ、私の持ち物に関して詮索されるのは、少々気分が良いものではないですね。」

その言葉には、明確な線引きが込められていた。白石は頷き、深追いしないことを決める。だが、その胸には、あの赤い花の謎がより一層大きく膨らんでいくのを感じていた。

「気にしないでください。センスが悪いとよく言われますから」

九条はじっと白石を見つめたまま、静かに微笑んだ。その笑みは、温かさや親しみとは違う、何かを見透かすような冷ややかなものであった。

けれど、その端正な顔立ちに浮かぶ微笑は妙に魅力的で、白石は不意に言葉を詰まらせた。

「まあ、そこまで気になるというのなら…」

九条はそう言いながら肩を軽くすくめ、視線を窓の外に一瞬だけ流した。

「けれど、私はあなたの期待に添えるような話は持っていませんよ。単なる偶然であり、些細な事柄です。」

そして、そのまま穏やかな手つきでカップを持ち直し、冷めた紅茶を一口飲んだ。その動作の一つひとつが洗練されていて、どこか作為的な優雅さすら感じさせる。

九条はカップを置き、再び視線を白石に戻す。その目は、やや挑発的に細められた。

「さあ、次の質問は何ですか?」

言葉の最後には、微かに唇の端が上がる小さな笑みが添えられた。

白石は静かに言葉を紡ぐ。

「作品を表現するという行為そのものが、九条さんにとってはどれほどの代償を伴うものなのか…。そこに触れることはできますか?」

九条はしばし考えるように天井を見つめた。そして、やがて低い声で答える。

「代償、ですか。」

彼は手元のスケッチブックに目を落とし、その表紙を指先でゆっくりとなぞった。

「創造には必ず代償があります。それがどれほどのものかは、私自身にも測りかねることがあります。

ただ、私がその代償を引き受けることで、誰かが何かを見つけられるのなら――それで十分だと思っています。」

白石はその答えに深く引き込まれる一方で、九条の言葉の裏に隠された真実を探るための道筋がさらに複雑になったことを感じた。

「最後にお聞きします。」

白石は、これまでよりも一層真剣な表情で口を開いた。

「九条さんがこれほどまでに作品に込める思い、その源は一体何なのでしょうか?」

九条は白石の目をじっと見つめ、その問いに向き合うようにして口を開く。

「私の源――それは、消えていくものへの執着かもしれません。

消えてしまう記憶、消えてしまう存在、それらを留めておくことは誰にもできません。

でも、私はその瞬間を形にすることで、それを忘れられないものにしようとしているのです。」

その言葉は、九条の作品そのものを体現しているかのようだった。

白石はその重みを胸に抱えながら、メモを取り終える。九条の声が止んだその瞬間、部屋には再び深い静寂が訪れた。

「今回、白石さんのインタビューを受けようと思ったのは、以前書かれていた記事を拝見していたからです」

「それは…光栄です」

「いえ、きっと赤裸々に書かれていたから負い目を感じられているかもしれませんが、私は感動しましたよ。私の作品を見て、あれだけ理解をしてくれる方は、少ないですから」

白石は九条の言葉に一瞬言葉を失った。自分の記事が彼の目に留まり、さらにその中で何かを感じ取ってもらえていたという事実が、心の奥に小さな温かさを灯した。

「ありがとうございます…。」

白石は視線を落としながら、小さく息を吐いた。

「正直、あの記事を書くとき、僕はただ自分の感じたことをぶつけただけでした。

でも、それが九条さんに届いていたなら、書いた甲斐があったと言えるかもしれません。」

九条は軽く頷き、柔らかな声で続けた。

「文章には、その人自身の姿が現れます。

あなたの文章には、情熱だけでなく、知性や誠実さも感じられました。それが、今回の取材を受ける決め手でした。」

白石は胸の中で複雑な感情が渦巻くのを感じた。

九条の言葉は純粋な賛辞でありながら、自分が彼の作品にどれだけ真剣に向き合わなければならないかを再確認させられるものでもあった。

「僕の記事が、九条さんにとって何か意味を持っていたのなら、それ以上のことはありません。」

白石は微笑みを浮かべながら言ったが、その笑みの裏には、自分が挑むべき課題の重みがにじんでいた。

「今日のお話を基にして、さらに深い記事を書きたいと思います。それが、九条さんに応える唯一の方法だと思っています。」

白石は静かに立ち上がり、一礼した。

「今日お話を伺えたこと、私にとっても大きな意味を持つと思います。」

九条は頷き、柔らかな笑みを浮かべた。

「どういたしまして。良い記事を書いてください。」

その別れ際の言葉は、どこか白石の肩を軽く叩くような優しさを感じさせるものだった。

白石は九条の言葉の意味を噛みしめながら、冷たい夜の風の中へと歩み出した。

九条は再び軽く頷くと、そのまま部屋を後にした。白石は静かにその背中を見送る。

あの短い会話の中で、自分が何か大きなものに触れたのではないかという予感が胸に広がっていた。

冷たい風が吹き込む廊下を歩きながら、白石は自分が抱えているコーヒーの温かさを改めて感じた。

それは、これから自分が進むべき道の一部として、九条との対話の中で得たものだった。

外に出ると、冬の夜空に星がちらちらと輝いていた。その光景を見上げながら、白石は次のステップを考え始めた。

九条の言葉が心に残る中、自分が書くべき記事のイメージがゆっくりと形を成し始めるのを感じた。