白石湊斗は、キーボードを叩く手を少し休め、ひと息ついた。

モニターに映し出されているのは、彼が昨日送信した記事の反響を示す、急速に増えていくコメントとシェアの数だった。

画面を見つめる彼の目は、いつものように鋭さを保ちながらも、心の中で安堵の息を漏らしていた。

「やった、やったぞ…!」

記事は九条朔夜の展示会について詳細に語ったもので、その魅力と不気味さ、そして本人登壇イベントの情報を加えて、彼自身の哲学を浮き彫りにしていた。

白石が現場で感じた感覚を反映しつつも、その背後に潜む微妙な違和感を読者に伝えることで、単なる美術評論を超えた、深いインパクトを与えることができたようだ。

「こんなに反響があるなんて…」

彼は小さく笑い、肩の力が抜けるのを感じた。

これまでの数ヶ月、業績が振るわなかったが、努力がようやく実を結んだ瞬間だった。

上司からのプレッシャーが肩にのしかかり、心が萎えそうになった日々も、この一記事の成功で報われた気がした。

SNSでも、この記事の内容は話題になっていた。

以前の彼にとっては想像もできなかった状況だった。

仕事場に戻ると、同僚からも軽い羨望の眼差しを向けられ、白石は少し照れくさく感じたが、それが心地よくもあった。

しかし、ひっかかることもある。あれだけの来場者がいたにもかかわらず、体調不良について触れている人物は少数であった。

「これで、しばらくは安心だな。」 彼は心の中で呟いた。

普段はあまり感情を表に出さない白石だったが、今の心の中には少しだけ余裕が生まれていた。

仕事の合間にコーヒーを一口飲みながら、彼は次に何を取り上げるべきかを考え始めた。

今後の記事でさらなるインパクトを与え、次の大きなプロジェクトへとつなげる。その思いが、彼に新たな活力を与えていた。

デスクの上には、ちらりと昨日の取材で撮った写真が散らばっている。

その中には、九条朔夜が展示会の中で語っている瞬間を捉えたものもあった。

その目を見開いている九条の姿が、あたかも何かの真実に触れたかのように深い意味を含んでいるように感じられ、彼はしばらくその写真に見入った。

「次は、あの狂気のような美しさを掘り下げるべきか…」

白石は、次なる取材に向けて、心の中で計画を立てながら、深い満足感を味わった。




白石湊斗が実家のドアを開けると、どこか懐かしい匂いが漂ってきた。

無機質なオフィスの空気とはまるで異なる、温かみのある家庭の匂いだ。それは、母親が作る料理の匂いでもあり、父親が休日に時折読んでいた新聞の匂いでもあった。

都心のアパートは、白石が一人で暮らすためには十分な広さだが、どこか殺風景で、まるで物語の無い舞台のような感じがする。

家具はシンプルで、必要最低限のものしか置いていない。

小さなキッチンの隅には、食器を洗い終えたばかりの皿が無造作に重ねられているが、それでも彼は無駄に散らかすことなく、どこか整然としている。

今日は、仕事が終わった後に実家に寄る予定だった。

父親と母親は今でも元気で、家族が集まることは珍しくない。

しかし、白石はあまり家庭に長居することを好まない。何度も言ってきたことだが、家族との関係は、彼にとってどこか気恥ずかしく、息苦しい。

両親は、白石が若い頃から頑張り屋で真面目な子供だと褒めてくれていた。

だが、その期待に応えようとするあまり、彼はいつも「家族」という枠から少し距離を置いていた。

家で食事を取るときも、どこか自分だけが外の世界を持っているような気がして、無意識に会話が少なくなることが多い。

母親がリビングで、白石を待ちながらソファに座っている。

彼女は優しい微笑みを浮かべて、彼が帰るのを待っていた。

白石が扉を開けると、母親は「おかえりなさい」と温かく声をかけ、テーブルに並べられた手料理を指さす。

「今日はあなたの好きなものを作ったのよ。」

「ありがとう、母さん。」

白石は軽く頷きながらも、少し遠くのテーブルを見つめた。

両親との食事は、いつも何となく食べるという形になり、会話が途切れがちになる。彼は無理に話そうとはしない。

父親が新聞を読んでいる横で、母親が食事を運んでくる。その間、白石は黙って食事を続ける。

父親は時々、「最近、どうだ?」と声をかけることがあるが、白石はその問いに簡単な返事をするだけだ。

やがて会話が続かなくなり、しばらく静かな時間が流れる。

家庭の中では、息苦しさがわずかに漂っているが、それでも家の温もりは心地よく、白石は何となく居心地の良さを感じていた。

「最近、仕事は順調なの?」と母親が聞いた。

「まあ、なんとか。今月は少し良さそうだよ。」と、白石はつかの間の安心感を口にした。

その後も、二人の温かい食事と静かな時間が続いたが、白石の心の中では常に、家族にどう向き合っていくべきか、という漠然とした迷いがあった。

家族の期待に応え、またそれに縛られることなく、自分の道を進むことができるのか。

白石はそんな問いに向き合いながら、皿を手に取った。皿を片付けている間に、父親が話しかけてくる。

「なんだあのしおれた花は。」

浩二は、思わず言葉を漏らした。彼の声は軽蔑と不快感が混ざったもので、その感情がどこから来ているのかテレビ画面を見た。

テレビの画面に映し出されたのは、またもや九条朔夜の展示会に関するニュースだった。

白石湊斗の父、浩二は、ビールの缶を手にしながらリビングのソファに座り、無表情で画面を見つめていた。

その目線が、ふと画面に映る九条の姿に引き寄せられる。

九条の姿は、静かで冷徹な美術家として、視聴者に与える印象とは裏腹に、そのシャツのポケットに赤い小さな花が突き刺さっている。

浩二はその花をじっと見つめ、どこか納得のいかない表情を浮かべた。

「あんなものを持って、みすぼらしいな。美術家のクセに。」

その赤い花は、父にとってはただの飾りにしか見えなかった。しかし、白石はその花に思わず目を止めた。心の中で何かが小さく震えた。

「花なんて、何の意味があるんだ。あんなの持ってても芸術には見えん。」と、浩二は冷たく言った。

それは、少し前に展示会で出会った少女のことだった。

少女は、友達に花を渡すと言っていた。

その花が、今、テレビ画面で映る九条のポケットに入っているのを見た瞬間、白石の心は何かに引き寄せられるような感覚を覚えた。

あの少女が言っていた言葉が、どうしても耳の奥で鳴り響いていた。

彼女が友達に渡すはずだった花が、まるで九条の手の中で意味を持っているかのように、画面を通して白石に突き刺さった。

九条が言葉を発し、インタビューの中で自分の作品や展示について語り始めた。

その冷静で、まるで感情を感じさせない声の響きが、白石の頭の中で響いていたが、視線はそのポケットの赤い花から離れようとしない。

「偶然か?いや、しかし……」

白石の心の中にわだかまりが残った。

「九条に娘はいないはずだ。じゃああの子はなんだ?」