彩菜と俊煕は、次の扉を開けて進んだ先で再び見知らぬ空間に足を踏み入れた。空は薄暗い灰色に覆われ、霧が重く立ち込めている。どこからか響く鈍い音が耳に届き、まるで心臓の鼓動が外界に漏れ出しているような感覚を覚えた。
「ここは…どこだろう。」彩菜は不安そうに呟いた。
俊煕は慎重に周囲を見渡しながら進んだ。「試練は終わってない。ここもその一部だろう。」
彼の声には冷静さがあったが、その瞳の奥にはわずかに迷いが見えた。俊煕はいつも自信に満ちた態度を取るが、彼自身もまた何かに追われているように見える。そのことに彩菜は薄々気づいていた。
霧の中を進むうちに、目の前に大きな木が姿を現した。その木は奇妙な形をしていて、無数の枝が螺旋状に絡み合いながら空に向かって伸びている。その中心には大きな空洞があり、そこから淡い青白い光が漏れていた。
「…行かなきゃいけないんだね。」彩菜が小さな声で言う。
俊煕は彼女の肩を軽く叩き、短く答えた。「俺が先に行く。お前はここで待て。」
「そんなの嫌だ。私は一緒に行く。」彩菜はきっぱりと言い切った。その目には、試練を乗り越えてきた強い意志が宿っていた。
俊煕は一瞬彼女を見つめたが、それ以上何も言わず、木の中心に足を踏み入れた。彩菜もその後に続いた。

過去の扉
木の空洞を抜けると、周囲の景色が一変した。そこには、俊煕の幼い頃の記憶が広がっていた。薄暗いアパートの一室で、小さな男の子が窓際に座り込んでいる。その顔には深い孤独の影が落ちていた。
「これ…俺の部屋だ。」俊煕が低い声で呟いた。
彩菜は彼の横顔を見つめた。その表情には苦しみと葛藤が混じり合っている。
「俊煕…」
彼は彩菜の声に答えず、記憶の中に歩み寄った。部屋の中には一人の少年がいて、小さな机に向かって絵を描いていた。その手は細く、震えている。
突然、隣の部屋から怒鳴り声が響いた。それは大人の男性の声で、罵声とともに何かが床に叩きつけられる音がした。少年は怯えたように身を縮め、描いていた絵を隠そうとした。
「これが…俺の記憶だ。毎日がこうだった。」俊煕は拳を握り締め、唇を噛んでいた。
彩菜は胸が締め付けられる思いで、そっと彼の背中に手を置いた。「俊煕、大丈夫…？」
彼は苦笑を浮かべた。「大丈夫なわけないだろ。でも、今さら逃げるつもりもない。」
その瞬間、部屋の奥からまた別の場面が映し出された。雪が降る寒い日に、少年が小さな弟の手を握りしめて歩いている。その表情には必死さが滲み、弟を守ることだけが彼の心を支えているように見えた。
「弟…」俊煕の声がかすかに震えた。「俺にとって唯一、大切にできたものだった。」
彩菜は彼の横顔をじっと見つめた。その目には悲しみと後悔、そして何かを守ろうとする強い意志が宿っていた。

決断の時
突然、声が響いた。
「俊煕、君の記憶を選びなさい。守り続けた弟との思い出を残すのか、それともこの痛みを手放すのか。」
その声は冷たく、容赦がなかった。俊煕は拳を握りしめ、答えを出すことを迫られていた。
「弟の記憶を手放すなんて…できない。でも、この痛みを抱えたまま前に進むのも…」
彩菜は彼の手をそっと握り、自分の試練を思い出していた。「俊煕、私は自分の過去を受け入れることを選んだ。あなたも、痛みを抱えて進む強さがあるはず。」
俊煕は彼女の言葉にしばらく沈黙した後、深く息を吸い込んだ。
「分かった。俺はこの記憶を抱えたまま進む。この痛みが、俺が生きてきた証だから。」
その言葉とともに、記憶の光景が消えていった。再び現実の木の空洞に戻り、二人は互いに疲れた表情で頷き合った。

次の一歩
「…ありがとう、彩菜。」俊煕が小さな声で言った。
彩菜は微笑みながら答えた。「一緒に進むって決めたんだから。」
二人は再び前を向き、次の道へと歩き出した。その背中には、それぞれの痛みと希望が交差していた。