明らかに穏やかならない叫び声。
ピケもそれに気付いて耳をピンと立て、声のした方にブンッと首を振る。
俺も釣られてそちらに視線を移し、木々の間を縫うように目を凝らすと、遠方に不穏な景色が広がっているのが見えた。
自立歩行する大きな赤い花の怪物と、それに追われている女の子の光景。
「植物種の魔物か……」
自立歩行している赤花は、開いた花の中心に大きな口を持っており、女の子を食べようと歯を見せながら大口を開けている。
人食い花とでも呼ぶべきその魔物に追われている女の子は、一本に結んだ青髪を揺らしながら、息も絶え絶えになって逃げ回っていた。
助けなきゃ、と思ったその時、俺の気持ちが伝染したのか、真横で一瞬の風が吹く。
気が付けば視線の先ではピケが疾走していて、木々の間を高速で縫って魔物と女の子の元に駆けつけて行った。
――ズバッ!
「えっ?」
いよいよ女の子の背中が捉えられそうになったその寸前、ピケの爪はぎりぎりで魔物に届き、赤い花を真っ二つに斬り裂いた。
赤い花弁がひらひらと舞い、魔物の消滅と共にそれらが消える中、間一髪で助かった女の子は腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまう。
助かったことについては安堵しているようだったが、突然目の前に現れて救ってくれたピケに困惑している様子でもあったので、すかさず俺は駆けつけて説明することにした。
「そ、その狼、うちの子だから。怖がらなくても大丈夫だよ」
同じ人間の俺が姿を見せたからか、少女は今度こそ安心したようにほっとした表情を見せる。
近くで見ると、遠くからでは朧気だった少女の姿が鮮明に目に映る。
後ろで一本に結んだ青髪。同色のつぶらな瞳。上背は160ほどだがかなりの童顔で、歳の程は俺よりも二つ三つくらい下だろうか。
窮地から脱した直後で、力なく地べたに座り込んでおり、目の端には僅かに涙まで滲んでいる。
そんな少女を助けたピケはこちらに近づいてきて、『褒めて!』と言わんばかりに俺の手に白い頭を押しつけてきた。
俺は「お疲れ様ピケ」と労わりながらよしよしと頭を撫でてあげる。
素早い反応に的確な魔物討伐。ピケの戦闘能力がそこらの魔物と比べてだいぶ高いということが、今回の戦いでまた改めてわかったな。
俺だけだったらこの女の子を助けることができていなかったかもしれないし。
そんなことを考えていると、少女が俺の方を見ながら、改まった様子で口を開いた。
「あ、あの、助けていただいて、ありがとうございます……!」
「お礼ならこのピケに言ってあげて。素直な子だから、頭撫でながら褒めてあげるとすごく喜ぶし」
少女はおもむろに立ち上がると、恐る恐るといった様子でピケの頭に手を伸ばす。
白い頭と少女の手が触れると、ピケは嬉しそうにぐいぐいと頭を押しつけた。
青髪の女の子は安堵した様子でピケの頭を撫で始めて、「ありがとうございます」とお礼の言葉を口にする中、俺は少女の格好を見ながら人知れず疑問を抱いていた。
白いチュニックの上に気休め程度の木皮の胸当て。黒いパンツの腰部分には小さなナイフを一本携えているだけで他に武装らしいものは無し。
魔物が蔓延るこの場所で、あまりにも無防備な格好と言わざるを得なかった。
たまたま迷い込んでしまった? いやだとしてもこんなに森の深部に近い場所まで来るだろうか?
それらの疑問を解消するべく俺は問いかけることにする。
「どうして女の子が一人で、こんなに森の深くにいるのかな? 魔物とかいて結構危ないと思うんだけど」
「あっ、その、この森の奥地に少し用事があったもので……」
「用事?」
そんな軽装で?
という疑念が顔にあらわれていたのか、少女は腰のナイフに触れながら「あははぁ」と乾いた笑みをこぼした。
「やっぱりちょっと無防備すぎですよね。でも私の力で扱える武器が、これくらいしかなかったので」
「それなら冒険者に護衛を頼むとかした方がよかったんじゃないかな? 森の深部に進むほど魔物は多くなるし……」
「そうしたいのは山々だったんですけど、生憎お金があまり無くて。それに私なら一人でも大丈夫かなって思ったんです」
何やら強気な発言だと思ったが、その根拠を聞いて俺は納得した。
「私、【盗賊】の天職を授かっていて『隠密』のスキルを使えるんです。姿や臭いを薄くして足音も完全に消せるので、魔物に気付かれずに森の奥に進めるかなぁと思ったんですけど……」
「あぁ、さっきみたいな植物種の魔物は、視覚や聴覚じゃなくて周囲の温度の変化で生き物の気配を探るから、『隠密』のスキルじゃ警戒を掻い潜れないんだよ」
他の天職でも存在感を希薄にするようなスキルがあるけれど、そのほとんどが植物種の魔物に対して効果がない。
あまり自分のスキルを使い慣れていない人は、割とやりがちなミスだ。
見たところこの子は冒険者というわけじゃないみたいだし、『隠密』のスキルを使う機会は今までまったくなかったんじゃないかな。
「魔物についてあまり詳しくないので、まさかあんなに簡単に見破られるとは思いませんでした。不覚です」
「それなら尚更、一人で森に入るべきじゃなかったと思うんだけど? 金銭的な問題で護衛を雇えなかったからって、どうして危険を冒してまで森の奥に……?」
今一度その真意について尋ねると、少女は僅かに目を伏せながら答えた。
「お母さんの病気を、治してあげたくて」
「病気?」
「数年前にとある病気にかかってしまって、それ以来少し手足が痺れているんです。日常生活は問題なく送れるんですけど、金属細工師として働いていたお母さんは、症状のせいでその仕事を辞めるしかなくて……」
この子のお母さんは金属細工師なのか。
貴金属を細工して装飾を施したり宝石をあしらったりする、細かい技術を要する職人業。
となれば、手足に痺れを引き起こす病気は致命的なものと言える。
手は職人の命そのものなので、その病一つで完全に職人生命を絶たれることになるのだ。
「それで今は別の仕事をしながら、女手一つで私を育ててくれているんですけど、細工師としての仕事を忘れられずにいるみたいで……」
「不本意な形で職人業を畳んだのなら、その未練は当然のものだと思うよ」
「はい、私もそう思います。だから私はお母さんに、またもう一度細工師としてお仕事をしてもらいたいなって思っていて……」
次いで彼女は、伏せていた顔を上げて、この森を見渡しながら続けた。
「そんな時にダマスクの町の近くの森で、『万能薬の薬草が採れる』という噂を聞いたんです」
「えっ、そんなものがあるの?」
「はい。その薬草で作った薬は、百病百毒に効くと言われていて、実際に多くの病人や被毒者を元気にしている万能薬と知られています。なのでお母さんの病気を少しでも楽にしてあげられたらと思って、薬草の群生地などよく調べてこの森に来ました」
なるほど、そんな事情があったのか。
それなら確かに危険を冒したのも理解できるし、金銭的な問題で護衛を雇えなかったのも納得だ。
女手一つの家庭環境を鑑みれば、易々と護衛を雇ったりはできないだろう。
そもそもお金に余裕があれば、その万能薬自体を大枚をはたいて手に入れることもできるだろうから。
そしてそれができなかったからこそ、彼女は自分の手で万能薬の薬草を採りにこの森にやって来た。
軽率な行動ではあるけれど、とても勇敢な子のようだ。
「ですけど、私一人ではその薬草を見つけることはできませんでした。魔物にも簡単に見つかってしまいましたし、逆に『天涙草(てんるいそう)』は希少素材で全然見つかりませんでしたし、こんな危ないことをするべきではなかったと今は猛省しています」
少女は落ち込んだようにため息を吐いてから、俺の方に向き直って改まった様子で言った。
「私はこのまま、大人しく町に帰ることにします。改めて今回は、助けていただいてありがとうございました」
そう言って、彼女は森の出口に向かって歩き出そうとする。
俺は僅かな逡巡ののち、立ち去ろうとする少女の背中に声をかけた。
「その薬草、俺が代わりに採りに行こうか?」