深淵病(しんえんびょう)ーー。
 一度眠りにつくと、次に目覚めるのはいつになるか分からない病気だ。
 彼女がその病気になって、季節は二週した。


 今でも、彼女と過ごした一年間の思い出は、記憶の中からすぐに引っ張り出すことができる。
 一年間の日々は、十八年しか生きていないぼくにとって、何ものにも代えがたい大切なものとして胸に刻まれ、指針になっている。これからの人生で、困難に直面するたびに、きっと、何度も引っ張り出すことになるだろう。
 ぼくは日課である、あのときの三人で作った楽曲を聴くために、スマートフォンを手に取った。
 その楽曲は、ぼくと彼女――彼女の名前は、天野美音(あまのみお)。それに、親友である大峰海斗(おおみねかいと)の三人で初めて作った楽曲だ。
 もう、何度、リピートして聴いただろうか。イヤフォンをつけ、スマートフォンを操作して、再生ボタンをタップする。馴染みのイントロが流れてくる。目を閉じて、メロディに心身を委ねる。
 今聴くと、あまりにも陳腐で稚拙な曲だ。だが、あの頃にしか表現できない、瑞々しさ、不安や葛藤、焦燥感などの様々な感情が、この楽曲には凝縮されている。
 ふいに、部屋の中に夜風が吹き込んだ。生温い風が頬を撫でていく。
 窓越しに空を見やると、鈍色をした月と目が合った。ため息をひとつ吐く。
 ぼくはスマートフォンで現在時刻を確認した。真夜中に近い時間だった。
 ぼくにとって憂鬱な時間帯。夜はいつも漠然とした不安を引き連れてくるから。一度眠りにつき、次に目覚めるときは、決まって夜の深いときだ。
 曲が終わりに近づくにつれて、ぼくの意識がまどろんでいく。
 ぼくはいつの間にか、眠りの世界の縁まで来ていた。
 彼女の歌声だけが、今も、ぼくを眠りの世界まで連れて行ってくれる。


 ずいぶんと久しぶりに訪れた病院は、そこ特有の消毒剤の匂いが鼻についた。
 わずかに顔をしかめてみたが、そんなことで匂いがどこかへいくわけではない。ぼくは、気を取り直すために、息をひとつ吐いた。
 ふいに視線を感じ、ぼくは視線の方に顔を向ける。清掃スタッフの女性と目が合った。女性はぼくを不審に思ったのか、手を止め、淀んだ目で、ぼくのことを審査するかのように視線を這いつくばせた。ぼくはとっさに会釈をし、足早にその場を立ち去った。
 ぼくの心臓は今までにないほど早鐘を打っている。清掃スタッフの女性に、怪訝な視線を向けられたからではない。
 ぼくが病院に来たのには、明確な理由がある。
 先日、珍しい相手から電話がかかってきたからだ。  
 ディスプレイに表示された名前を見て、ぼくの鼓動は軽く鳴った。
 普段のぼくなら電話に出なかっただろう。だが、そのときは、なぜか、スマートフォンの画面に引っ張られるように、通話ボタンをタップした。
「もしもし、菅本里香(すがもとりか)と申します。結城健(ゆうきたける)さんの番号で間違いないでしょうか?」
「えっ、あっ、はい。間違いないですけど……」
「よかった。あの、私のこと、覚えている、かな……? 天野美音の友達の――」
 天野美音。ぼくの心臓はその名前を聞いて勢いよく飛び跳ねた。魚が水の中から飛び出すように。
「覚えているよ。天野さんに、なにかあった?」
 ぼくは動揺を隠すために、なるべく平板な声でそう言ったが、菅本さんにはかえって動揺が伝わったようだった。
 彼女は、しばらくの間、無言だった。ぼくに心の準備をさせるために、気を遣ってくれたのかもしれない。その沈黙は穏やかなものだったから。
「美音が、目覚めたの。目覚めはしたんだけど、またすぐに眠ってしまって……」
「そうなんだね」
 ぼくはそう言った後、奥歯を噛みしめた。
「美音が目覚めたときに、あることを言ったんだけど、そのまま伝えるね。『健を連れてきて。そう言えば彼には伝わるから』って、美音はそう言ったの」
「そう……」
「来てもらえる?」
「もちろん」
 ぼくにはそう答える以外になかった。
 恩人である彼女がそう言ったのならば。
 彼女が入院したのは二年ほど前だ。彼女は現代の医学では治すことのできない病に冒されている。
 深淵病。
 いつの頃からか、そう呼ばれるようになった。
 その病は、一度眠りにつくと、次に目が覚めるのはいつになるのか分からない。原因は解明されていない。ここ数年で患者が増え始めた謎の病だ。
 彼女の病室の前につくと、菅本さんが部屋の前で待っていた。菅本さんは丸メガネをかけていた。当時、メガネはかけていなかったはずだ。
 菅本さんだと分かったのは、彼女が極端に小柄で華奢な女性だったからだ。その部分がぼくの記憶の奥にしまってあった。
「お久しぶりです」
「久しぶり」
 ぼくがそう言うと、菅本さんは深いお辞儀をした。ぼくは会釈した。
「私は外にいるね」
「わかった」
 ぼくは彼女の病室のドアを三回ノックした。彼女が反応をするわけないのだが。
「失礼します」
 ぼくは小声でそう言い、ドアをゆっくりと開けた。
 病室の中は驚くほど簡素だった。
 病室に備え付けてあるものしかない印象だ。目についたものといえば、ベッド脇のテーブルに、ぽつんと置いてある写真立てぐらいだ。
 彼女は色味の薄い世界で静かに眠っていた。
 ぼくは備え付けの椅子に腰を下ろす。
 しばらくの間、彼女の眠っている姿を、ぼんやりと眺めた。
 彼女は二年間のほとんどの時間を眠りに費やしているせいか、最後に会ったときの印象とは少しだけ変わったように感じる。だが、彼女を形作るものは何も変わっていないし、何ひとつ損なわれていない。
 眠っていても、彼女のまつ毛の長さや、艶のある黒髪。そして、雪を想起させるような白い肌。それらを見ただけで、ぼくの体温は一瞬で上昇した。
「久しぶりだね。天野さん」
 ぼくの声が届いているか分からないが、ぼくは彼女の名前を呼んだ。
「今も聴いているよ。三人で作った曲。毎日、必ず聴いている」
 ぼくはそう言うと、椅子から立ち上がり、さきほどの写真を手に取った。透明な写真立てに収められているそれは、三人の人物が写っている。ぼくと彼女と親友の大峰海斗の三人。写真を撮ってくれたのは菅本さんだ。
 三人とも、それぞれが違う表情をしている。
 海斗が彼女の肩に腕を回して、それに照れた彼女はほんのり頬を赤くしている。僕はというと、驚いた様子で目を丸くして、そんな二人を見ていた。その瞬間が写真に切り取られていた。 
 ふいに視界の隅を何かが掠めた。ぼくはその何かに視線を合わせた。
 どこから入ってきたのか、見たこともない色をした蝶だった。蝶の放つ輝きは、その蝶が持つ生命そのものに感じた。
 ぼくは病室の中を優雅に華麗にひらりひらりと飛び回る蝶に目を奪われた。
 吸いつくように蝶の動きを目で追っていると、窓際で羽根を休め始めたので、ぼくは窓を開けて蝶を元の自由な世界に放とうとした。
 蝶は外の世界に吸い込まれるように自然と羽ばたいていった。
「来てくれたんだね」
 ぼくは視線を外の世界から彼女に移した。
「うん」
「ありがとう、健。また眠りについてしまうから、お願いを聞いてほしいの。私を助けて」
「ぼくにできるかな……」
 ぼくは視線をさまよわせて言った。
「大丈夫。健なら」
「どうして、天野さんは、そんなにぼくなんかのことを……」
「信用しているし、信頼してるよ。わたしは。健とは、いろんな経験をしたもん」
 彼女は儚げな微笑みを浮かべて言った。
 そんな彼女を見て、ぼくの胸は急激に締めつけられた。
「できる限りのことはしてみるよ」
「ありがとう、健。きっと健にしかできないことだと思うから。私を夢の世界から連れ戻して。もう、あまり時間が残ってなさそうなの……」
 彼女は、二年前からは想像できないような、か細い声で言った。 
「わかった」
「ごめんね、健」
「どうして、謝るの?」
「健には迷惑をかけてばかりだから」
「それは、ぼくのセリフだよ」
「健は変わらないね」
「天野さんこそ」
 ぼくがそう言うと、彼女は少しだけ口元を緩め、目を閉じた。数秒間ほど、そうしていた彼女が、ゆっくりと目を開ける。その目には、少しだけ、人が生きたいと想う強さのようなものが感じ取れた。
「私には、何ができる?」
「天野さんには、手を少しだけ借りる」
「手?」
 彼女はそう言うと、横になったまま、両手を自分の胸よりも高い位置に挙げた。
 ぼくは露わになった彼女の手首を見て、息が止まりそうになった。ただでさえ細かった手首が、痛々しいほどに細くなっていたからだ。
「うん……」
「こんな手で、よければいつでもお貸ししますわよ」
 彼女はおどけた風に言った。
 彼女は、先の見えない状況でも、ぼくを気遣ってくれている。ぼくは、静かに拳を握りしめた。
「ありがとう。じゃあ、左手を借りてもいい?」
「もちろん」
「天野さんの手に、ぼくの手を重ねるんだけど……」
 ぼくは自分の手のひらを見てから言った。ぼくは手汗をかいていた。そんな手で彼女に触れることに抵抗があったし、何より、彼女に、ぼくの能力を使うことに抵抗があった。もし、ぼくの力が悪い方に影響して、彼女の身に万が一のことが起こったら。
「もしかして、今さら、手を重ねるぐらいのことを、ためらっているの?」
「まあね」
「あいかわらず、健は奥手なのね。でも、少し安心した。その様子じゃ悪い虫はついてなさそう」
 彼女は柔らかな顔をして言った。
 彼女の言葉のひとつひとつが胸に響き渡る。ぼくは決意した。
「いまから、天野さんの夢の中に、入らせてもらう」
「それが、健の特別な力なのね」
 彼女は表情ひとつ変えずに言った。
「驚かないんだね……。それに、いきなりこんなことを言われたら、普通は信じないんじゃないかな?」
「健は、信じてくれたでしょう? 私と亮が兄妹だってことを」
「でも、それとこれとは……」
「わけが違う?」
「うん……」
「同じよ。私は私が信じたいものを信じる。ただ、それだけのこと」
「わかった。それなら、ぼくはぼくにできることを精一杯してみる」
「うん。お願いします」
「あと、夢の中に入るためには、歌を歌ってもらう必要があるんだ……」
「歌? 私が歌うの?」
「そう、鼻歌でもかまわないから」
「わかったわ。私からもひとつだけいい?」
「うん」
(りょう)に会ってきてほしいの。連絡先は里香に聞いて」
「亮に?」
 亮は彼女の義兄だ。最近、SNSで話題になっているバンドのボーカルを担当している。
「そう。彼に会えば何か病気についても分かるかもしれないから」
「わかった。じゃあ、そろそろ、はじめよう」
「無理を言ってごめんね」
 彼女はそう言うと、鼻歌を歌い始めた。
 ぼくは自分の左手を彼女の右手にそっと重ね、深呼吸をした。力みを抜くために。 
 ぼくは意識を彼女の鼻歌に集中させる。
 少しずつ、意識が輪郭を失っていく。
 彼女の歌声は相変わらずだった。軽く歌っているだけなのに、心の深い部分に直接響いてくる。
 ぼくは、いつの間にか、眠りの世界に落ちていた。

 
 痛い。冷たい。痛い。寒い。
 身体に、冷たくて硬い何かが、ぶつかってくる。
 意識を夢の世界に集中させる。
 ゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。そこは純白と言えるほどの世界が一面に広がっていた。
 目が眩むほど世界は輝いて見える。
 ぼくは何度か瞬きをして目をならした。
 身体に衝突していたのは、雹のような雪だった。
 夢の世界でも感覚は現実世界そのままだ。
 ぼくは手をかざし、防御壁を作った。どうにか視界だけは確保することができた。
 ここはどこだろう。
 辺りを見回しても、目印となるような建造物は見当たらない。
 しばらくのあいだ、ぼくは当てもなく進み続けた。
 手足がかじかみはじめた頃。平屋ばかりの一角が、視線の先に見えてきた。
 ぼくは意識ごと刈られそうな吹雪のなか、そこに向けて重たい足を踏み出した。
 寂れ果てたところだった。平屋から人の気配は感じられない。吹雪の音と、強い風が平屋に当たって物悲しい音を出している。
 空には鈍色の雲が、自分たちの定位置だと言わんばかりに鎮座している。
 ぼくはなぜか心が締めつけられた。
 ふいに、新しい音が聞こえた気がした。
 ぼくは音がした方向に視線を向けた。
 そこには、今にも瓦解しそうな平屋が、ぽつんと一棟建っていた。建っていたというよりも、後から設えられたプレハブ小屋のように、どこか物悲しささえ漂わせていた。
 ぼくは歩を進めて、その平屋に近づく。
 窓にはカーテンはかかっていなかったので、容易に家のなかを覗き込めた。
 家のなかには、青年と少女がいた。青年に抱きかかえられるようにして、少女が眠っている。
 青年の少女を見つめる目には、優しさや慈悲深さのようなものがこもっているように感じる。青年に見守られて、少女は安心しきって眠っているようだ。
 ぼくはこの二人を知っている。直感がそう告げた。
 ぼくは胸が締めつけられて苦しくなった。
 その場を立ち去ろうと思って、踵を返そうとしたときだった。
「起きたか?」
 少女が目を覚ましたようで、青年が少女に声をかけた。
「うん」
「なにか食べるか?」
「食べるって、なにもないのに?」
 少女は青年の問いに問いで返した。
「また、とってくる」
「それはだめ。お母さんが帰ってくるのを待ってよう」
 少女がそう言うと、青年は鼻を鳴らした。
「あいつに期待をするのはやめることだな。美音」
 青年がその名で少女を呼んだ瞬間。ぼくの心臓が、どくん、と脈打った。
 やはりそうだ。
 この二人は。
 幼い頃の、亮と彼女だ。
「もう、お母さんをあいつなんて言ったらだめだよ。亮君」
 彼女はそう言うと、ことさら優しい目をして亮を見つめた。
 亮はその目に耐えかねたのか、
「わかった」
 とだけ言って、彼女を抱き寄せた。
 彼女は、へへっ、と聞こえてきそうな笑顔で亮に体を預けた。
 ぼくはその様子を見て、胸が千切れそうになった。二人の強固な絆を見て。
 ぼくは息苦しさを覚え、天を仰ぐ。
 空には分厚い雲が一面に敷き詰められている。
 ぼくは早く夢から抜け出したくなった。どうして、彼女は、この夢をぼくに見せるのだろうか。
 夢から抜け出す方法はひとつしかない。
 自分を殺すこと。
 そう、夢の中で自殺するしか、他人の夢から抜け出す方法はないのだ。それは、他人の夢に入り込ませてもらう、代償だ。
 ぼくは二人の住処かから離れて、似たような造りの家の窓ガラスを素手で割った。
 喉元を切り裂くのに、ちょうどよさそうなガラス片を手に取る。
 夢の中とはいえ、自分を殺すことは、やはり怖い。何度か経験しても、決して慣れるものではない。
 ぼくは深呼吸をして、喉元にガラス片を突き刺し、喉を切り裂いた。
 相変わらず、辺り一帯、吹雪いている。このまま、眠っても死ねたな、と思った。
 遠のく意識の中。
 どこからか、彼女の歌声がきこえた気がした。 


 目を覚ますと、目の前にはさきほどまでぼくと会話していた彼女が、静かな眠りについていた。ぼくは自分の喉元に、恐る恐る手を伸ばす。
 分かっていることだが、いつも通りの皮膚の感触が、そこにはあるだけだ。
 ぼくは鳴り止まない鼓動を鎮めるために、何度か深呼吸をした。
 彼女に訊きたいことはある。だが、それは今ではない気がした。
 ぼくは彼女に、
「また来るね」
 とだけ告げて、病室を出た。
 病室を出ると、眉尻を下げた菅本さんと視線が合った。何か言いたげな顔をしていたが、彼女は一度だけ深く頷いた。
 ぼくは彼女にお辞儀をして病院から出た。
 外に出ると、生温い風が一筋吹いた。
 空を見上げると、鈍色をした雲が遠くの空に広がっている。
 ぼくは雲から視線を逸らし、息をひとつ吐いて帰路についた。