目を覚まして起き上がると、中年の男女と高校生くらいの女子が俺を見た。

 三人の心配そうな眼差しを受け、俺は自分の記憶がはっきりしないことに気がつく。

「だ」

 女子が、何かを決意したように声を発した。

「大丈夫……? お兄ちゃん」

 それが合図であるかのように、中年の男女も俺に寄り添うようにして声をかけてくる。

「平気か? 無理はするな」
「……意識は、はっきりしてる? 私たちのこと、わかる?」

 その様子に俺は、確信せずにはいられない。

「父さんと母さんと──ええと、妹の……」
「……メイカだよ」

 メイカは静かに微笑んだ。

 みんな、俺の家族だ。俺の大切な家族。優しい家族。

 ないはずの記憶が、頭の奥底で確かにそうだと告げている。

 俺はずっとずっと、みんなに会いたかったんだ。





【十五分前】


「『英雄たる者が希望の扉を開くでしょう』……?」

 私の声が、しんとした部屋に溶けてゆく。

 父親と母親の方を見ると、私がたった今読んだ文章が書かれている看板のようなものを呆然と眺めていた。

 私たちは、全員が同じような服を着ていた。真っ白で何の飾り気もなく、入院したときに着させられる病衣に似ている。

 部屋は一辺が五メートル程の正方形に思えた。壁は無機質なコンクリートの打ちっぱなしで、床にはビニール製のシートが貼られている。

 私も、おそらく父親と母親も、この状況を理解できずにいる。私たちは、見知らぬ部屋でほぼ同時くらいに目を覚ましたのだ。

 部屋には一つ、重厚な扉がある。その上に、宗教じみた言葉の刻まれた看板が掛けられている。扉は当然のように開かないし、看板は調べようにも手が届かなかった。

 それから気になったものといえば、部屋の隅に一つだけ穴が空いていたことと、金属製の箱があったくらいだ。穴は床にあり、直径二十センチ程だろうか。箱は靴が入るくらいの大きさで、鍵でもかかっているのか、開けることはできなかった。

「どういうことなんだ、これは。お前たち、何か知らんのか」
「知らないわね」
「くそっ、大切な商談があるんだぞ……おい、今何日の何時だ?」
「知りませんってば。私だって用事があるのに困ってるのよ」
「だったらもう少し協力したらどうだ! お前、さっきから何もしていないじゃないか」
「ちょっと、うるさいよ……!」

 久々に顔を会わせたが相変わらずな様子の父親と母親に、私は心底苛立った。そんなに騒いだら、起きてしまうかもしれないのに。そうしたらどうするつもりなんだ。

 私の悪い予感が当たったのか、そいつは小さく呻きながら身体をよじらせる。

「ねぇ、聞いて。わかってるよね? 私たちは家族(・・)だよ。可能性に賭けるしかないんだから──」

 その時、そいつが起き上がった。静かで無駄のない動作に思わず身震いする。信念を感じさせる鋭い眼差しは昔から変わっていない。

 私は小さく息を吸い込んで、そいつに向けて言葉を発する。

「だ」

 言葉に詰まって、情けない自分に苛立った。どうせ私たちにはわずかな可能性しか残されていないのに。

「大丈夫……? お兄ちゃん」

 私の意思を察したであろう父親と母親は、兄に駆け寄る。少しのやり取りの後で私が自分の名前を告げると、不気味なことに兄は心底うれしそうだった。

「実は、記憶をなくしてしまったみたいなんだ。けど、よかった。俺の家族にこうして会えるなんて」

 面食らって、繕った表情が歪んだのを慌てて直す。

 どうやら私が考えていたのとは別の可能性が生まれたようだった。兄は記憶を失っている。だったらこのまま、絶対に気づかせなければいい。

 ──私たちは家族だ。兄の理想とする家族。

 この部屋に四人で閉じ込められている理由も目的も不明のままだ。けれど一番の不安要素はとりあえず排除できたようだ。

 つかの間の安心を嘲笑うかのように電子音が鳴ったかと思うと、扉の上に掛けられていた看板の文章が変わった。どうやらあれは電子モニターだったようだ。

『唯一の犠牲であれ』

 犠牲、とは不穏な単語だ。元からろくでもないシチュエーションだとは思っていたが、いよいよ悪夢が現実味を帯びてきた。

 全員が呆気にとられていると、プシュと空気の抜けるような音が聞こえた。出どころは例の金属製の箱だ。自動で蓋が開いたようだ。

 気づいているくせに、誰も動かない。心の中で舌打ちをして、私が箱の中を見ることにした。

 そして、思わず息をのんだ。

「おい、どうしたんだ」

 箱の中の物を取り出すことも説明もしない私に痺れを切らしたのか、父親がどかどかと下品な足取りで傍に寄る。

 それからは、私と似たような反応だった。

 母親はその場から動かずに、気だるげにこちらを見つめている。兄は「大丈夫か」と心配そうに駆け寄ってきた。

 ピストルだった。

 箱の中には四丁のピストルが、乱雑に詰められていたのだ。

 兄は眉一つ動かさずに、私と父親を押し退けると箱の蓋を閉めた。

「こんな危険な物、近づいてはいけない」

 箱を私たちから遠ざけた後で、兄は全員を見回して言った。

「それで、ここはどこなんだ?」



 私は率先して、兄に説明をした。もちろんそれは善意なんかではない。父親も母親も信用できない。だったら私が話すのが最善だと判断したからだ。

 扉のこと、看板のこと、箱のこと、誰もこうなっている理由がわからないこと。一通りは説明したが、兄が見ていないであろう看板の一文は言わなかった。

『英雄たるものが希望の扉を開くでしょう』

 そこには兄が確実に過剰反応するであろう単語が含まれているからだ。

 それにしても、兄に説明したことで自分の置かれている状況を嫌でも理解してしまう。

 密室。家族四人きり。ピストル。モニターの不穏な一文。

『唯一の犠牲であれ』

 つまり、〔英雄たるもの〕がピストルで一人を殺し、その人物を〔唯一の犠牲〕とし、〔希望の扉を開く〕──ここから脱出できるということではないだろうか。

 要するにデスゲームだ。フィクションじゃ飽きるほどよくある話だけれど、まさか身をもって体験することになるなんて。

 見るのは面白いが、当人からしたらたまったものではない。そんなの社会の常ではあるけれど、改めて実感した。

「なるほど、今はここから出られないということなんだな。でも大丈夫だ。家族が一緒なんだから。どうにかなるさ」

 そう言うと兄は、箱の傍で横になった。

「え、ちょっと……寝るつもり?」
「とにかく今はどうしようもできないだろ? 体力は温存した方がいい」

 それにしたって、どうしてわざわざそんなところで。まるで箱の番人のようだ。兄は私の視線に気づいたのか、ああ、と声を漏らした。

「この危険物は、俺が管理する。家族に何かあったら俺は正気じゃいられないからな。みんなは安全なところにいてくれ」

 そう言うと兄は、本当に寝だした。記憶がないのも関係しているのかもしれないが、病的にも思える。

「ねぇ、どうする」

 私は兄から離れたところで父親と母親を呼び、小声で議論を始めることにした。議題はもちろん、〔これからどうするのか〕だ。

「一人殺せばいいんだろう?」
「だったらあなたがいいんじゃないの」
「なんだと……お前、力の差を考えて物を言え。俺はいつでも殺せるんだぞ」
「うるさいってば。いい加減にして。二人とももう少しやる気出して演技できないの? あいつが思い出したらどうすんの」

 まともな議論はできそうにない。うんざりしていると、またモニターの一文が変わった。

『邪悪には死の救済を』

 私たちをこんな目にあわせている犯人に心当たりはないが、狙いが少しだけわかった気がする。

 何であれ私は死にたくない。そのためには演技も協力も惜しまない。ただ父親と母親が、私の邪魔をしないかが心配なだけだ。

 父親が言った通り、誰か一人を殺せばここから出られるのかもしれない。けれど私は父親に比べれば非力だし、丸腰で殺人なんてできると思えない。ピストルは兄が見張っている。

 そうだ、一番の問題は兄の存在だ。誰かを襲っているところを兄に見られたりしたら、一巻の終わりだ。

 つまり、今の私にできることはない。

 どのくらい時間が経ったのかわからない。徐々に睡魔に襲われる。こんな状況で眠れる兄は普通じゃないと思ったけれど、生物としての本能には抗えないようだ。



 いつの間にか眠っていたようだ。目を覚ますと、モニターの一文が変わっていた。

『やがて真実は暴かれる』

 犯人はやはり、そういうつもりだ。兄には隠し通さなければならない。

 前の一文、『邪悪には死の救済を』だって、本当に兄に見てほしくなかった。兄は真面目で、言葉を言葉通り信じるようなバカなのだから。

 父親は忙しなく歩き回り、母は壁に寄りかかって虚空を見つめている。肝心の兄はまだ寝ていた。

 やがて真実は暴かれる。真実というのが私の想像と同じであれば、きっと私たちに待つのは死だ。

 やられる前にやるしかない。きっとそれが唯一の正解だ。

 私は忍び足で兄に近づき、箱に手を伸ばす。そうっと蓋を開けて──愕然とした。

 箱の中は空だった。四丁もあったピストルが、影も形もなくなっている。

「えっ……なんで──」

 思わず声を出してしまうと、兄が目を覚ます。

「ちょ、ちょっと、ピストルは?」

 兄は目を擦りながら、部屋の隅を指差した。そっちにあるのは床の穴だ。

「す、捨てたの?」
「そうだ。あんなものがあったら危ないだろう。あの穴、おそらくトイレだと思うが、どれほど深いかわからなかったな」

 当然のことをしたと言わんばかりの態度だ。これで私は相変わらず無力なことが確定した。

 父親と母親に何故止めなかったか聞くと、二人とも私と同じく仮眠をとっていたそうだ。だから信用できないんだ。少しは気を使って兄を見張るくらいしたらどうだ。

 言いたいことをぐっと飲み込む。私たちは仲のいい理想の家族だ。人殺しの道具の行き先についてとか、責任の所在とか、そんなことで怒鳴りあったりするわけにはいかない。

 人は水と食糧無しでどのくらい生きられるのだろう。このまま誰も殺さなかったら、餓死を待つだけになるのだろうか。

 残酷に過ぎる時は、残された時間と共に思考力も奪っていく。

 私はどうしようもできないまま、考えることも難しくなってしまった。夢と現実の境目が曖昧になって、微睡む時間が増えていく。

 このまま何もせずに死ぬのを待つくらいならいっそ、やられる覚悟で動いてみようか。

 そんな考えをよぎらせながら落ちた眠りの後の目覚めは、今まで生きてきた中で最悪のものだった。

 ──死んでいる。確認するまでもなく。

 父親と母親の、頭の潰れた死体が無様に転がっていたのだ。

 呆然とする私の背後に兄が迫る気配を感じた。恐る恐る振り返ると、兄は悲痛な表情を浮かべていた。

「こ、殺すの……私も……?」

 私が言うと、兄は泣き崩れた。

「大丈夫だ。俺が、犠牲になるからな」

 兄の後ろにあるモニターの表示が変わっていることに気がつく。そこには、〔真実〕が羅列されていて、それはやはり私の思っていたのと同じだった。

『唯一の犠牲であれ』
『邪悪には死の救済を』
『やがて真実は暴かれる』

 そして真実は今、暴かれた。わかっていたのに。もっとどうにかしようとすればよかった。もっと足掻けばよかったんだ。

 そんなことを考えても、もう遅い。目の前では兄が私に拳を振り下ろそうとしていて、その後ろではモニター上で〔真実〕の羅列の後で初めに見た一文が表示されていた。

『英雄たるものが希望の扉を開くでしょう』

 兄は見てしまったのだ。一番見てほしくない一文を。

 最初から犯人の狙いはそうだったのだ。

 つまりこの結果は、何もかも犯人の思惑通り。心底腹が立つ。私は命を手放す瞬間に、ふたつの中指を立てた。





 重たい扉を難なくこじ開けたヒロトは、憔悴しきっていた。

 愛する家族をその手で葬り去った直後だ。当然だろう。

 しかし乗り越えてもらわねばならない。そうすることでしか彼が存在する理由は生まれない。

「おめでとうございます。あなたは英雄たりえます」

 教祖様がヒロトへ賛辞を送ったのを合図に、私たちは拍手をした。

「あなたたち一族は、どういうわけか邪悪を生まれ持つのです。その中で唯一正しくあったのがあなたでした」

 私たちはヒロトがどう生きてきたかを知っている。あらゆる手段を使って、邪悪の芽を監視してきたのだ。

「邪悪の中から生まれた正義は、誰よりも正しいと思いませんか」

 ヒロトは正しい行いをできない家族から離れ、精神と身体を鍛え上げ、幼い頃から英雄(ヒーロー)に憧れ続けた。悪を許さない彼が家族と再会すればどうなるだろうか。その答えを見るのは記憶喪失のせいで少しばかり遅れてしまったが、予想通りの素晴らしい展開だった。

 ヒロトは視線を伏せたまま、ぼそりと言った。

「……俺は英雄なんかじゃない。人殺しだ。それも家族を殺したんだ」
「しかし記憶をなくしていたあなたも真実を改めて知ったはずです。あなたの家族は邪悪な性質を持っていました。父親は主に会社で脅迫や暴行。母親は暇さえあれば詐欺。妹はネットや学校で強要や名誉毀損に窃盗、器物破損。犯罪行為を日常的に行って、さらには家族全員が自分をきっかけに死人も出しています」

 何を考えているのか、ヒロトは顔色を変えないままだ。

「伝えたはずですよ。邪悪には死の救済を。あなたは人殺しという罪を被る犠牲となりながらも邪悪な家族に救済を与え、英雄となったのです」

 ヒロトは両手で顔を覆う。泣いているのだろうか。英雄だと認められたのだから、歓喜に打ち震えたっていい場面なのに。

「……一人殺せば、人殺しだ……」
「それはそうですとも。けれどあなたがやったのは、正しいことなのですよ?」
「十人殺せば、どうなる」
「え?」
「見たことがあるんだ。古い映画の台詞だったか、それを引用した漫画の台詞だったか、ネットで使い古された言い回しだったか忘れたが、俺は英雄になりたかったから覚えている」

 何を言い出すのだろうか。教祖様は疑惑の色を浮かべた視線でヒロトを見つめている。

「十人殺せば殺人鬼で、百人殺せばテロリストだとか。それで、何人殺せば英雄だろうか」

 ヒロトは、顔を上げた──かと思うと、人間離れした速さで教祖様に近づいて──首を、ねじ切った。

 悲鳴が上がる。私だってそうしたいが、喉で詰まって声にならない。

 邪悪の定義とは何であるのだろう。ヒロトの血筋はどういうわけか邪悪であった。あの家族たちの犯罪行為の末、何人もの被害者が自死をした。

 では、私たちは。私たちは邪悪を憎み、英雄を待ち望んできた同志の集いだ。その結果、まともじゃない世界からヒロトという英雄を見つけ出したのだ。素晴らしいことではないか。

 しかし、その過程はどうだったのだろう。素晴らしかったと胸を張って言えるだろうか。

 何人も見殺しにした。それはどうしようもなく真実であるだろう。

 ヒロトの視線に射抜かれたとき、私は悔いた。英雄になるべく生きた彼はすべての邪悪を許さない。そうすることで彼は生き続けるのだろう。

 選ばれし英雄が、真の英雄となるために。私は目を閉じて、その礎となることを受け入れた。