スタンリ伯爵家の令嬢マリアーヌは、ある日うっかり街で財布を落としてしまった。
「ない、ない、ないわ!」
焦ってしまい、せっかく可愛く結ってもらったライトブラウンの髪がほどけてしまっている。
同じくライトブラウンの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
財布を馬車に置き忘れたわけではない。何度探しても鞄の中にもない。
いつもは、しっかり者のメイドが持ってくれていた。
でも今日は、学園に通いだしたマリアーヌが「私も一人で街に買い物くらいいけるわ」と張り切り、メイドを置いてきたのだ。
一人といっても、貴族令嬢なので護衛の騎士はつけられている。
マリアーヌが「どうしよう……。財布の中に銀行のカードも入っていたのに」と半泣きになっていると、見かねた護衛騎士が「急いで銀行に行ってカードを落としたことを伝えましょう!」と言ってくれる。
「そ、そうね!」
銀行のカードにはスタンリ伯爵家の紋章が彫られていて、それを見せると店で自由に買い物ができてしまう。カードを見せて買い物した物は、あとからスタンリ伯爵家へと銀行経由で請求がくる仕組みになっていた。
誰かに拾われて使われてしまうと大変だ。
馬車に飛び乗ったマリアーヌは、急いで銀行へと向かった。
銀行では、優しそうな女性銀行員が出迎えてくれる。
「本日はどのようなご用件で?」
「実は、銀行のカードが入った財布を落としてしまって……」
「それは大変ですね。すぐにカードを不正利用できないように、こちらで手続きします」
「よろしくお願いします」
ホッと胸を撫で下ろすマリアーヌ。
財布もないので買い物もできず、そのまま家に帰った。
帰ったとたんに、メイドがマリアーヌの元に駆けて来る。
「お嬢様、お財布を忘れていましたよ!」
「えっ、あっ! 無くしたんじゃなくて、忘れていたのね⁉」
そうとも知らず、銀行でカードを止めてしまった。
「明日から学園だから、また次のお休みの時に銀行に行かないと……」
マリアーヌは、自分のうっかりさに呆れながらも「無くしてなくて良かったわ」と微笑んだ。
*
一週間後。
止めていたカードをまた使えるようにするために、マリアーヌは銀行へと向かった。
今度は一人ではなく、メイドにも来てもらっている。でも、さすがに付きっきりでは恥ずかしいので、銀行内ではメイドと護衛騎士には離れてもらっていた。
銀行では、前の女性とは違う男性銀行員が対応してくれた。
マリアーヌが「先日、止めてもらったカードを、また使えるようにしてほしい」と伝えると、男性銀行員は「少々お待ちください」と席を立つ。
しばらくして戻って来た男性銀行員の顔は、なぜか強張っていた。
「あなたのカードですが、止められておりません」
「え? そんなわけありません」
マリアーヌは、銀行に来た日と大体の時間、そして、対応してくれた女性銀行員の名前を伝えて、再度調べるようにお願いする。
しかし、男性銀行員は「カードを止める申請はされていません」としか言わない。
「でしたら、そのときの女性をここに呼んでください」
「彼女は外出中です」
「いつごろ戻ってきますか?」
「それはお答えできません」
男性銀行員の頑なな態度を見て、マリアーヌはピンと来た。
(これは……なんらかのミスがあって、女性銀行員が私のカードを止めていなかったのね。そのミスを認めると問題になるから、この男性銀行員は無理やりなかったことにしようとしているのだわ)
マリアーヌの思った通り、この件を担当した女性銀行員は、手続きを完了させるのを忘れていた。そして、そのミスをした女性銀行員は、男性銀行員の部下だった。
申請があったのに、カードを止める手続きがされていなかった。
もし、その間にカードを不正利用されていたら、銀行側の責任になってしまう。
銀行の信用問題にも繋がるし、男性銀行員は、部下の責任を取らされることになる。
だから、この件をなかったことにしたかった。
都合が良いことに、相手は若くおっとりとしたお嬢さん。男性銀行員は、ニヤリと口端を上げた。
(華美な服装でもないし、貴族ではないな。小金持ちの商家のお嬢さんといったところか)
そう判断したので男性銀行員は、この場さえ誤魔化せば、なんとでもなると思っていた。
予想通りマリアーヌは、「もういいですわ」とため息をつく。
男性銀行員が『やった!』と思ったのも束の間。
「今すぐ全額おろしてください。こちらの銀行口座を解約します」
強気な態度に面食らったものの、口座を確認すると中は100万ギル程度しか入っていない。
(これくらいなら問題ない)
男性銀行員は、マリアーヌに100万ギルを渡し、口座を解約してうまく解決できたと思った。
一方、馬車に乗り込んだマリアーヌが「もう!」と怒ろうとすると、一緒に馬車に乗っていたメイドのほうがブチ切れた。
「なんなんですか、あの無礼な銀行員は⁉ うちのお嬢様を舐め腐って!」
「そ、そうよね! 失礼よね!」
「失礼どころか、万死に値する愚行! すぐさま旦那様にご報告せねば!」
「えっ、お父様に?」
「もちろんですよ!」
伯爵邸に戻ると、マリアーヌに付き添っていたメイドと護衛騎士が、すごい勢いでマリアーヌの父、スタンリ伯爵に報告した。
報告を聞いたスタンリ伯爵は「そうか」と冷静に呟く。
「そんな対応をする銀行は信用できんな」
ベルを鳴らして執事を呼ぶと、スタンリ伯爵は「クレン銀行の口座を全て解約して、ウェイダン銀行に移す」と告げた。
数時間後に、その連絡を受けたクレン銀行は慌てることになる。
一番のお得意様であるスタンリ伯爵家が、なぜか一斉解約を言い出したからだ。
銀行に来たスタンリ伯爵に仕える執事に「どうしてでしょうか?」と尋ねても、「旦那様の指示ですので」以外、答えは返ってこない。
こうしてはいられないと、クレン銀行の支店長は、仕事ができる部下をつれてスタンリ伯爵邸に向かった。
なんとかスタンリ伯爵に会うことができたが、何を聞いてもスタンリ伯爵は「口座は全て解約する」の一点張り。
「何か不手際があったのでしょうか?」
銀行関係者は、とうとう床に両膝をついて頭を下げた。
「でしたら、大変申し訳ありません! どうか、どうか、一斉解約だけは!」
そこまでしても、スタンリ伯爵は一瞬たりとも考え直すことはなかった。
がっくりと肩を落として伯爵の執務室から出ると、支店長はため息をつく。
「一体、何が起こっているんだ」
「本当に……」
支店長に付いてきた部下は、ふと伯爵邸の庭園に目を向けた。
そこでは、庭園を散歩しているお嬢さんがいる。
ライトブラウンの髪に、派手過ぎないその姿はどこかで見覚えがあって……。
「あっ」
部下は今日、自分が対応したお嬢さんだと気がついた。
(あのお嬢さん、スタンリ伯爵令嬢だったのか⁉)
誤魔化して追い返したあのお嬢さんが、その話を父であるスタンリ伯爵にしたとしたら、この一斉解約にも納得ができる。
(くそっ! 貴族だと分かっていたら、あんな対応はしなかったのに! 貴族ならもっと貴族らしい恰好をしろ!)
心の中で悪態をつきつつ、部下は『このことがバレたら、自分は一体どうなってしまうのだろう』と震えあがる。
(だ、大丈夫だ。スタンリ伯爵は何も言わなかった。このままならバレないぞ)
そう、自分に言い聞かせた。
*
休みが明け、マリアーヌは馬車に乗って学園へと向かった。
教室に入ると、すぐに仲良しのグレンダがマリアーヌに手を振る。
グレンダは、うっかりしているマリアーヌとは違い、しっかりしていた。
波打つ美しい金髪を持ち、エメラルドのような緑色の瞳はキリッとしている。
正反対に見える二人だったが、グレンダとマリアーヌは、同じ伯爵家ということもあり気心が知れていた。
「お休みどうだった?」とグレンダが尋ねると、マリアーヌは「それがね……」とため息をつく。
銀行で不誠実な対応をされたこと。その結果、父がその銀行の口座を全て解約したことを話した。
「父が言うには、すぐにクレン銀行の偉い人が来て、頭を下げて謝ったけど許さなかったって。まぁ、信用できないものね」
「……」
「それにしても、私にはあんな態度を取っておきながら、父には頭を下げるのね。やっぱり世の中、お金なのね」
「……」
マリアーヌが話せば話すほど、なぜかグレンダの顔色が悪くなっていく。
「どうしたの、グレンダ?」
「……ごめんなさい、マリアーヌ」
「え?」
マリアーヌが『なんのこと?』と思っているうちに、教室に先生が入ってきて授業が始まってしまう。
(また、あとから聞けばいいわよね)
そう思ったマリアーヌだったが、それきりその話は忘れてしまった。
*
数日後。
マリアーヌは、グレンダの家に招かれていた。二人だけのお茶会と聞いていたのに、グレンダの隣には、彼女と同じ金髪の背の高い青年が立っている。
「あなたがマリアーヌ嬢ですか?」
「はい」
(誰かしら?)
青年をよく見てみれば、グレンダと同じようなキリッとした雰囲気がある。
「私はカッセルと申します。この度は、不誠実な対応、申し訳ありませんでした」
「不誠実?」
戸惑う私の手をグレンダが握りしめる。
「クレン銀行は、私の伯父の銀行なの」
「えっ、でもクレン銀行は、クレン侯爵家が経営している銀行よね?」
「そう。だから、クレン侯爵が私の伯父なの」
「ええっ⁉」
グレンダの父は伯爵位なのに、伯父は侯爵位だった。でも、クレン侯爵家が持っていた伯爵位をグレンダの父が継いだと考えたら不思議ではない。
「あなたがクレン侯爵様の親戚だったなんて、知らなかったわ。学園の人達も知らないんじゃない?」
マリアーヌの言葉に、グレンダは気まずそうな顔をする。
「わざわざ自分から言いふらすことではないでしょう?」
「それはそうだけど」
(学園でその話をしていれば、私じゃなくて、もっと高位貴族の方々とお友達になれるのに……)
そんなマリアーヌの心を読んだかのように、「今さら私と友達をやめるなんて言わないでよ?」とグレンダ。
「そんなことは言わないわ」
「なら良かった。あなたの話は、全て伯父に伝えたわ。本当なら直接謝りたいって言っていたけど、忙しくて……」
カッセルが「息子の私が代わりに来ました」と頭を下げる。
(ということは、この方は侯爵家の方‼)
とんでもないことになってしまったとマリアーヌは冷や汗をかいた。
「いえ、あの……」
しどろもどろになっているマリアーヌに、カッセルは微笑みかける。
「あなたの対応をした銀行員は、見つけ出しそれぞれ適切な罰を与えました」
「そ、そうなのですね」
「はい、我が銀行の信頼を地に落とす行為ですからね。それはもう適切な罰を」
カッセルの笑みに何か黒いものを感じてしまい、マリアーヌは一歩後ずさる。それなのに下がった分だけ、すぐさまカッセルに距離を詰められてしまい、マリアーヌの口から「ひっ」と小さな悲鳴が漏れた。
「今回のことを教訓とするために、クレン銀行の全支店に伝えました」
「えっ、そこまでしなくても……」
「いいえ、このようなことは二度と起きてはいけません。今後は、より誠実な銀行を目指します」
「は、はい」
真剣な眼差しの青年に見つめられながら、マリアーヌは内心泣きそうになっていた。
(少し友達に愚痴を言っただけなのに、どうしてこんなに大事になっているの⁉ このことがきっかけで、侯爵家に目をつけられたら私はどうしたらいいの⁉)
助けを求めてグレンダを見ると、彼女もニコニコしている。
「マリアーヌ。今日のお茶会、カッセル兄様も一緒でもいいかしら?」
(良くないわよ! でもそれって、私に拒否権あるの?)
マリアーヌがチラッとカッセルを見ると優雅な笑みを浮かべていた。だが、貴族の笑みほど信じられないものはない。
(断ったらどうなるのかしら……?)
想像できずにマリアーヌは作り笑いをした。
「も、もちろんです。ほ、ほほほ」
三人が席につくと、すぐさまお茶が運ばれてくる。
グレンダはお茶に口をつけることなく、話し出した。
「ねぇ、マリアーヌ。カッセル兄様って素敵だと思わない?」
(本人の前でその質問するのどうなの⁉ 同意しかできないじゃない!)
「そ、そうね。素敵ね……」
確かにカッセルの外見は整っている。でも、マリアーヌは『いや、絶対に腹黒だから! 怖いわよ!』という言葉を呑み込んだ。
グレンダは意味ありげな視線をカッセルに向けながら、「カッセル兄様と結婚できる人は幸せよねぇ」と呟いている。
そんなグレンダを見てマリアーヌはピンときた。
(そっか、グレンダとカッセル様は従兄妹! 従兄妹は結婚ができるわ! きっとグレンダはカッセル様のことが好きなのね)
そういうことならと、マリアーヌもカッセルを褒めて、グレンダを後押しする。
「本当にカッセル様は素敵だわ」
「そうでしょ、そうでしょ!」
「カッセル様と結婚できる方は幸せね」
「マリアーヌがそう言ってくれて嬉しいわ」
瞳をキラキラと輝かせるグレンダはまさに恋する乙女。
マリアーヌは、優雅にお茶を飲みながら『ふふっ、結婚式には呼んでね。グレンダ』と微笑ましい気持ちになった。
*
そんなお茶会を過ごした数日後。
なぜかクレン侯爵家からマリアーヌの父スタンリ伯爵に手紙が届いた。そのことを父から聞いたマリアーヌの顔は青ざめる。
「ひぃっ! も、もしかして、私が愚痴ったせいで銀行に損害があったから、何かしらの罰を⁉」
怯えるマリアーヌを見た、スタンリ伯爵は「何を言っているんだ?」と不思議そうな顔をする。
「クレン侯爵家のカッセル卿が、お前に婚約を申し込んできた」
「婚約⁉ どうしてですか?」
「先日のお茶会でお前のことが気に入ったらしい」
「いやいや、カッセル様はグレンダと……」
「嫌なのか?」
「えっ?」
「お前はこの婚約が嫌なのか? 侯爵夫人になれるのだぞ?」
「お父様は、私が侯爵夫人なんてできると思いますか? 嫌ですよ」
スタンリ伯爵は「うーん」と唸ったあとに、ため息をついた。
「そうか、良い縁談だと思ったが、そこまで嫌なら仕方ない。断っておこう」
「ありがとうございます」
ホッと胸を撫で下ろしたマリアーヌは、学園ですごい顔のグレンダに捕まった。
「どうしてカッセル兄様との婚約を断ったの⁉」
「えっ? だって、グレンダはカッセル様のことが好きなんでしょう? 私、二人のことを応援しているわ」
「どうしてそうなるのよ⁉ 私はあなたとカッセル兄様が結婚してくれたら、親戚になれて嬉しいから、二人の婚約を応援していたの!」
「ええっ⁉ で、でも、カッセル様のお気持ちは?」
「今まで女性にまったく興味がなかったカッセル兄様が、マリアーヌのことを聞いて自分からあなたに『会ってみたい』って言いだしたの。侯爵家では大騒ぎになっていたんだから!」
「そ、そんな……。でも、私はもう断ったし、そもそも侯爵夫人なんてできないわ!」
ここまではっきりとマリアーヌが断ってもグレンダは諦めなかった。
「じゃあ、顔は?」
「顔?」
「カッセル兄様の顔はどうだった?」
「そんなことを言われても……」
「しっかり思い出して!」
「う、うーん」
必死に記憶を手繰り寄せると、整った顔をぼんやりと思い出す。
「素敵だった……と思うわ」
「じゃあ、声は?」
「声? 覚えてないわよ。そうね、素敵だったような気がするわ」
「じゃあ、良いじゃない!」
「そういう問題じゃないでしょう? 性格が合うとか合わないとかのほうが大切よ」
「ですってよ。兄様」
グレンダが振り返った柱の後ろからカッセルが姿を現したので、マリアーヌは小さな悲鳴を上げた。
「ど、ど、どうしてここに⁉ 学園は、関係者以外立ち入り禁止――」
マリアーヌの言葉をさえぎったカッセルは「私は卒業生だからね。グレンダの親戚でもあるから申請すれば入れるよ」と微笑む。
「さっきの話の続きだけど、ようするに、マリアーヌ嬢と私の性格が合うと分かればいいんだね?」
カッセルはマリアーヌの手を優しく取った。
「君は人を見る目がある。私は他人に興味がないから、君のような女性に憧れてしまうようだ」
(そういう冷静な分析が怖いのよ! 恋する男性の目つきじゃないもの……たぶん)
マリアーヌがどうこの場を乗り切ろうかと頭を抱えていると、カッセルはクスッと笑う。
「ほらね? 私の顔や家柄だけを見て、寄ってくる女性とは違い、あなたはすでに私の問題点にも気がついている。そんなあなたに、惹かれないわけがない」
(これ、どう断ればいいの⁉)
その場では泣きそうになっていたマリアーヌだったが、その後、想像以上にカッセルに尽くされ絆されてしまい、最終的にはこの言葉で落ちた。
「マリアーヌ。君は少しうっかりしているところがあるから、しっかりしている私とすごく相性がいいんだよ。ほら、グレンダと君も相性バッチリだろう?」
「そ、そっか、言われてみればそうですね? 私達、相性いいのかもしれない……」
その言葉を聞いたカッセルは勢いよく顔をそむけた。
手で覆ったその顔は、真っ赤に染まり嬉しくて仕方ないと言ったように口元が緩んでいたことを、マリアーヌはまだ知らない。
こうして少し愚痴ったマリアーヌは、なぜか侯爵夫人になってしまった。
ときどきそのときのことを思い出しては「友達に少し愚痴っただけなのに……」と呟き、「こんなに幸せになれると思わなかったわ」と夫カッセルに微笑みかけるのだった。
おわり
「ない、ない、ないわ!」
焦ってしまい、せっかく可愛く結ってもらったライトブラウンの髪がほどけてしまっている。
同じくライトブラウンの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
財布を馬車に置き忘れたわけではない。何度探しても鞄の中にもない。
いつもは、しっかり者のメイドが持ってくれていた。
でも今日は、学園に通いだしたマリアーヌが「私も一人で街に買い物くらいいけるわ」と張り切り、メイドを置いてきたのだ。
一人といっても、貴族令嬢なので護衛の騎士はつけられている。
マリアーヌが「どうしよう……。財布の中に銀行のカードも入っていたのに」と半泣きになっていると、見かねた護衛騎士が「急いで銀行に行ってカードを落としたことを伝えましょう!」と言ってくれる。
「そ、そうね!」
銀行のカードにはスタンリ伯爵家の紋章が彫られていて、それを見せると店で自由に買い物ができてしまう。カードを見せて買い物した物は、あとからスタンリ伯爵家へと銀行経由で請求がくる仕組みになっていた。
誰かに拾われて使われてしまうと大変だ。
馬車に飛び乗ったマリアーヌは、急いで銀行へと向かった。
銀行では、優しそうな女性銀行員が出迎えてくれる。
「本日はどのようなご用件で?」
「実は、銀行のカードが入った財布を落としてしまって……」
「それは大変ですね。すぐにカードを不正利用できないように、こちらで手続きします」
「よろしくお願いします」
ホッと胸を撫で下ろすマリアーヌ。
財布もないので買い物もできず、そのまま家に帰った。
帰ったとたんに、メイドがマリアーヌの元に駆けて来る。
「お嬢様、お財布を忘れていましたよ!」
「えっ、あっ! 無くしたんじゃなくて、忘れていたのね⁉」
そうとも知らず、銀行でカードを止めてしまった。
「明日から学園だから、また次のお休みの時に銀行に行かないと……」
マリアーヌは、自分のうっかりさに呆れながらも「無くしてなくて良かったわ」と微笑んだ。
*
一週間後。
止めていたカードをまた使えるようにするために、マリアーヌは銀行へと向かった。
今度は一人ではなく、メイドにも来てもらっている。でも、さすがに付きっきりでは恥ずかしいので、銀行内ではメイドと護衛騎士には離れてもらっていた。
銀行では、前の女性とは違う男性銀行員が対応してくれた。
マリアーヌが「先日、止めてもらったカードを、また使えるようにしてほしい」と伝えると、男性銀行員は「少々お待ちください」と席を立つ。
しばらくして戻って来た男性銀行員の顔は、なぜか強張っていた。
「あなたのカードですが、止められておりません」
「え? そんなわけありません」
マリアーヌは、銀行に来た日と大体の時間、そして、対応してくれた女性銀行員の名前を伝えて、再度調べるようにお願いする。
しかし、男性銀行員は「カードを止める申請はされていません」としか言わない。
「でしたら、そのときの女性をここに呼んでください」
「彼女は外出中です」
「いつごろ戻ってきますか?」
「それはお答えできません」
男性銀行員の頑なな態度を見て、マリアーヌはピンと来た。
(これは……なんらかのミスがあって、女性銀行員が私のカードを止めていなかったのね。そのミスを認めると問題になるから、この男性銀行員は無理やりなかったことにしようとしているのだわ)
マリアーヌの思った通り、この件を担当した女性銀行員は、手続きを完了させるのを忘れていた。そして、そのミスをした女性銀行員は、男性銀行員の部下だった。
申請があったのに、カードを止める手続きがされていなかった。
もし、その間にカードを不正利用されていたら、銀行側の責任になってしまう。
銀行の信用問題にも繋がるし、男性銀行員は、部下の責任を取らされることになる。
だから、この件をなかったことにしたかった。
都合が良いことに、相手は若くおっとりとしたお嬢さん。男性銀行員は、ニヤリと口端を上げた。
(華美な服装でもないし、貴族ではないな。小金持ちの商家のお嬢さんといったところか)
そう判断したので男性銀行員は、この場さえ誤魔化せば、なんとでもなると思っていた。
予想通りマリアーヌは、「もういいですわ」とため息をつく。
男性銀行員が『やった!』と思ったのも束の間。
「今すぐ全額おろしてください。こちらの銀行口座を解約します」
強気な態度に面食らったものの、口座を確認すると中は100万ギル程度しか入っていない。
(これくらいなら問題ない)
男性銀行員は、マリアーヌに100万ギルを渡し、口座を解約してうまく解決できたと思った。
一方、馬車に乗り込んだマリアーヌが「もう!」と怒ろうとすると、一緒に馬車に乗っていたメイドのほうがブチ切れた。
「なんなんですか、あの無礼な銀行員は⁉ うちのお嬢様を舐め腐って!」
「そ、そうよね! 失礼よね!」
「失礼どころか、万死に値する愚行! すぐさま旦那様にご報告せねば!」
「えっ、お父様に?」
「もちろんですよ!」
伯爵邸に戻ると、マリアーヌに付き添っていたメイドと護衛騎士が、すごい勢いでマリアーヌの父、スタンリ伯爵に報告した。
報告を聞いたスタンリ伯爵は「そうか」と冷静に呟く。
「そんな対応をする銀行は信用できんな」
ベルを鳴らして執事を呼ぶと、スタンリ伯爵は「クレン銀行の口座を全て解約して、ウェイダン銀行に移す」と告げた。
数時間後に、その連絡を受けたクレン銀行は慌てることになる。
一番のお得意様であるスタンリ伯爵家が、なぜか一斉解約を言い出したからだ。
銀行に来たスタンリ伯爵に仕える執事に「どうしてでしょうか?」と尋ねても、「旦那様の指示ですので」以外、答えは返ってこない。
こうしてはいられないと、クレン銀行の支店長は、仕事ができる部下をつれてスタンリ伯爵邸に向かった。
なんとかスタンリ伯爵に会うことができたが、何を聞いてもスタンリ伯爵は「口座は全て解約する」の一点張り。
「何か不手際があったのでしょうか?」
銀行関係者は、とうとう床に両膝をついて頭を下げた。
「でしたら、大変申し訳ありません! どうか、どうか、一斉解約だけは!」
そこまでしても、スタンリ伯爵は一瞬たりとも考え直すことはなかった。
がっくりと肩を落として伯爵の執務室から出ると、支店長はため息をつく。
「一体、何が起こっているんだ」
「本当に……」
支店長に付いてきた部下は、ふと伯爵邸の庭園に目を向けた。
そこでは、庭園を散歩しているお嬢さんがいる。
ライトブラウンの髪に、派手過ぎないその姿はどこかで見覚えがあって……。
「あっ」
部下は今日、自分が対応したお嬢さんだと気がついた。
(あのお嬢さん、スタンリ伯爵令嬢だったのか⁉)
誤魔化して追い返したあのお嬢さんが、その話を父であるスタンリ伯爵にしたとしたら、この一斉解約にも納得ができる。
(くそっ! 貴族だと分かっていたら、あんな対応はしなかったのに! 貴族ならもっと貴族らしい恰好をしろ!)
心の中で悪態をつきつつ、部下は『このことがバレたら、自分は一体どうなってしまうのだろう』と震えあがる。
(だ、大丈夫だ。スタンリ伯爵は何も言わなかった。このままならバレないぞ)
そう、自分に言い聞かせた。
*
休みが明け、マリアーヌは馬車に乗って学園へと向かった。
教室に入ると、すぐに仲良しのグレンダがマリアーヌに手を振る。
グレンダは、うっかりしているマリアーヌとは違い、しっかりしていた。
波打つ美しい金髪を持ち、エメラルドのような緑色の瞳はキリッとしている。
正反対に見える二人だったが、グレンダとマリアーヌは、同じ伯爵家ということもあり気心が知れていた。
「お休みどうだった?」とグレンダが尋ねると、マリアーヌは「それがね……」とため息をつく。
銀行で不誠実な対応をされたこと。その結果、父がその銀行の口座を全て解約したことを話した。
「父が言うには、すぐにクレン銀行の偉い人が来て、頭を下げて謝ったけど許さなかったって。まぁ、信用できないものね」
「……」
「それにしても、私にはあんな態度を取っておきながら、父には頭を下げるのね。やっぱり世の中、お金なのね」
「……」
マリアーヌが話せば話すほど、なぜかグレンダの顔色が悪くなっていく。
「どうしたの、グレンダ?」
「……ごめんなさい、マリアーヌ」
「え?」
マリアーヌが『なんのこと?』と思っているうちに、教室に先生が入ってきて授業が始まってしまう。
(また、あとから聞けばいいわよね)
そう思ったマリアーヌだったが、それきりその話は忘れてしまった。
*
数日後。
マリアーヌは、グレンダの家に招かれていた。二人だけのお茶会と聞いていたのに、グレンダの隣には、彼女と同じ金髪の背の高い青年が立っている。
「あなたがマリアーヌ嬢ですか?」
「はい」
(誰かしら?)
青年をよく見てみれば、グレンダと同じようなキリッとした雰囲気がある。
「私はカッセルと申します。この度は、不誠実な対応、申し訳ありませんでした」
「不誠実?」
戸惑う私の手をグレンダが握りしめる。
「クレン銀行は、私の伯父の銀行なの」
「えっ、でもクレン銀行は、クレン侯爵家が経営している銀行よね?」
「そう。だから、クレン侯爵が私の伯父なの」
「ええっ⁉」
グレンダの父は伯爵位なのに、伯父は侯爵位だった。でも、クレン侯爵家が持っていた伯爵位をグレンダの父が継いだと考えたら不思議ではない。
「あなたがクレン侯爵様の親戚だったなんて、知らなかったわ。学園の人達も知らないんじゃない?」
マリアーヌの言葉に、グレンダは気まずそうな顔をする。
「わざわざ自分から言いふらすことではないでしょう?」
「それはそうだけど」
(学園でその話をしていれば、私じゃなくて、もっと高位貴族の方々とお友達になれるのに……)
そんなマリアーヌの心を読んだかのように、「今さら私と友達をやめるなんて言わないでよ?」とグレンダ。
「そんなことは言わないわ」
「なら良かった。あなたの話は、全て伯父に伝えたわ。本当なら直接謝りたいって言っていたけど、忙しくて……」
カッセルが「息子の私が代わりに来ました」と頭を下げる。
(ということは、この方は侯爵家の方‼)
とんでもないことになってしまったとマリアーヌは冷や汗をかいた。
「いえ、あの……」
しどろもどろになっているマリアーヌに、カッセルは微笑みかける。
「あなたの対応をした銀行員は、見つけ出しそれぞれ適切な罰を与えました」
「そ、そうなのですね」
「はい、我が銀行の信頼を地に落とす行為ですからね。それはもう適切な罰を」
カッセルの笑みに何か黒いものを感じてしまい、マリアーヌは一歩後ずさる。それなのに下がった分だけ、すぐさまカッセルに距離を詰められてしまい、マリアーヌの口から「ひっ」と小さな悲鳴が漏れた。
「今回のことを教訓とするために、クレン銀行の全支店に伝えました」
「えっ、そこまでしなくても……」
「いいえ、このようなことは二度と起きてはいけません。今後は、より誠実な銀行を目指します」
「は、はい」
真剣な眼差しの青年に見つめられながら、マリアーヌは内心泣きそうになっていた。
(少し友達に愚痴を言っただけなのに、どうしてこんなに大事になっているの⁉ このことがきっかけで、侯爵家に目をつけられたら私はどうしたらいいの⁉)
助けを求めてグレンダを見ると、彼女もニコニコしている。
「マリアーヌ。今日のお茶会、カッセル兄様も一緒でもいいかしら?」
(良くないわよ! でもそれって、私に拒否権あるの?)
マリアーヌがチラッとカッセルを見ると優雅な笑みを浮かべていた。だが、貴族の笑みほど信じられないものはない。
(断ったらどうなるのかしら……?)
想像できずにマリアーヌは作り笑いをした。
「も、もちろんです。ほ、ほほほ」
三人が席につくと、すぐさまお茶が運ばれてくる。
グレンダはお茶に口をつけることなく、話し出した。
「ねぇ、マリアーヌ。カッセル兄様って素敵だと思わない?」
(本人の前でその質問するのどうなの⁉ 同意しかできないじゃない!)
「そ、そうね。素敵ね……」
確かにカッセルの外見は整っている。でも、マリアーヌは『いや、絶対に腹黒だから! 怖いわよ!』という言葉を呑み込んだ。
グレンダは意味ありげな視線をカッセルに向けながら、「カッセル兄様と結婚できる人は幸せよねぇ」と呟いている。
そんなグレンダを見てマリアーヌはピンときた。
(そっか、グレンダとカッセル様は従兄妹! 従兄妹は結婚ができるわ! きっとグレンダはカッセル様のことが好きなのね)
そういうことならと、マリアーヌもカッセルを褒めて、グレンダを後押しする。
「本当にカッセル様は素敵だわ」
「そうでしょ、そうでしょ!」
「カッセル様と結婚できる方は幸せね」
「マリアーヌがそう言ってくれて嬉しいわ」
瞳をキラキラと輝かせるグレンダはまさに恋する乙女。
マリアーヌは、優雅にお茶を飲みながら『ふふっ、結婚式には呼んでね。グレンダ』と微笑ましい気持ちになった。
*
そんなお茶会を過ごした数日後。
なぜかクレン侯爵家からマリアーヌの父スタンリ伯爵に手紙が届いた。そのことを父から聞いたマリアーヌの顔は青ざめる。
「ひぃっ! も、もしかして、私が愚痴ったせいで銀行に損害があったから、何かしらの罰を⁉」
怯えるマリアーヌを見た、スタンリ伯爵は「何を言っているんだ?」と不思議そうな顔をする。
「クレン侯爵家のカッセル卿が、お前に婚約を申し込んできた」
「婚約⁉ どうしてですか?」
「先日のお茶会でお前のことが気に入ったらしい」
「いやいや、カッセル様はグレンダと……」
「嫌なのか?」
「えっ?」
「お前はこの婚約が嫌なのか? 侯爵夫人になれるのだぞ?」
「お父様は、私が侯爵夫人なんてできると思いますか? 嫌ですよ」
スタンリ伯爵は「うーん」と唸ったあとに、ため息をついた。
「そうか、良い縁談だと思ったが、そこまで嫌なら仕方ない。断っておこう」
「ありがとうございます」
ホッと胸を撫で下ろしたマリアーヌは、学園ですごい顔のグレンダに捕まった。
「どうしてカッセル兄様との婚約を断ったの⁉」
「えっ? だって、グレンダはカッセル様のことが好きなんでしょう? 私、二人のことを応援しているわ」
「どうしてそうなるのよ⁉ 私はあなたとカッセル兄様が結婚してくれたら、親戚になれて嬉しいから、二人の婚約を応援していたの!」
「ええっ⁉ で、でも、カッセル様のお気持ちは?」
「今まで女性にまったく興味がなかったカッセル兄様が、マリアーヌのことを聞いて自分からあなたに『会ってみたい』って言いだしたの。侯爵家では大騒ぎになっていたんだから!」
「そ、そんな……。でも、私はもう断ったし、そもそも侯爵夫人なんてできないわ!」
ここまではっきりとマリアーヌが断ってもグレンダは諦めなかった。
「じゃあ、顔は?」
「顔?」
「カッセル兄様の顔はどうだった?」
「そんなことを言われても……」
「しっかり思い出して!」
「う、うーん」
必死に記憶を手繰り寄せると、整った顔をぼんやりと思い出す。
「素敵だった……と思うわ」
「じゃあ、声は?」
「声? 覚えてないわよ。そうね、素敵だったような気がするわ」
「じゃあ、良いじゃない!」
「そういう問題じゃないでしょう? 性格が合うとか合わないとかのほうが大切よ」
「ですってよ。兄様」
グレンダが振り返った柱の後ろからカッセルが姿を現したので、マリアーヌは小さな悲鳴を上げた。
「ど、ど、どうしてここに⁉ 学園は、関係者以外立ち入り禁止――」
マリアーヌの言葉をさえぎったカッセルは「私は卒業生だからね。グレンダの親戚でもあるから申請すれば入れるよ」と微笑む。
「さっきの話の続きだけど、ようするに、マリアーヌ嬢と私の性格が合うと分かればいいんだね?」
カッセルはマリアーヌの手を優しく取った。
「君は人を見る目がある。私は他人に興味がないから、君のような女性に憧れてしまうようだ」
(そういう冷静な分析が怖いのよ! 恋する男性の目つきじゃないもの……たぶん)
マリアーヌがどうこの場を乗り切ろうかと頭を抱えていると、カッセルはクスッと笑う。
「ほらね? 私の顔や家柄だけを見て、寄ってくる女性とは違い、あなたはすでに私の問題点にも気がついている。そんなあなたに、惹かれないわけがない」
(これ、どう断ればいいの⁉)
その場では泣きそうになっていたマリアーヌだったが、その後、想像以上にカッセルに尽くされ絆されてしまい、最終的にはこの言葉で落ちた。
「マリアーヌ。君は少しうっかりしているところがあるから、しっかりしている私とすごく相性がいいんだよ。ほら、グレンダと君も相性バッチリだろう?」
「そ、そっか、言われてみればそうですね? 私達、相性いいのかもしれない……」
その言葉を聞いたカッセルは勢いよく顔をそむけた。
手で覆ったその顔は、真っ赤に染まり嬉しくて仕方ないと言ったように口元が緩んでいたことを、マリアーヌはまだ知らない。
こうして少し愚痴ったマリアーヌは、なぜか侯爵夫人になってしまった。
ときどきそのときのことを思い出しては「友達に少し愚痴っただけなのに……」と呟き、「こんなに幸せになれると思わなかったわ」と夫カッセルに微笑みかけるのだった。
おわり