「葵……」
「え?」
 それは回診が終わった午後。その日は患者さんの容態も落ち着いている穏やかな日だった。


 突然熱っぽい声で名前を呼ばれて薄暗い倉庫に連れ込まれてしまった。そこは埃っぽくて少しだけ顔を顰める。
ここに引っ張りこんだのがこの人じゃなかったら、一言文句を言ってやりたいくらいだ。
 でも俺がこの人を相手に文句など言えるはずなんてない。だって、今俺の目の前で薄笑いを浮かべているのは、天下の成宮千歳大先生だから。歯向かえるはずなんかない。今だって弱々しく睨み返すことしかできないんだから。
 それなのに当の本人は嬉しそうな顔で俺のことを見下ろしている。あっという間に壁に追い込まれて、身動きがとれなくなってしまった。


 ――嫌な予感しかしない……。


 心臓がうるさいくらい高鳴って、額にジットリと嫌な汗が滲む。逃げ出したいのに、次の展開を期待している自分もいる。
この見た目のいい恋人に見つめられてしまえば、俺はまるで魔法にかかってしまったかのように身動きが取れなくなってしまうんだ。


「葵……これ飲んでみて?」
「はい?」
「いい子だから『あーん』してごらん?」
「え? で、でも……」
「いいから。あーんして?」
 艶っぽい瞳が俺を捕らえて離さない。


 逃げられるはずなんてない……俺は大人しく口を開いた。その瞬間嬉しそうに目を細めた成宮先生の顔が近付いてくる。
頬に優しく添えられた手に、ギュッと抱き寄せられた腰。温かな吐息が頬にかかったから、俺は諦めて瞳を閉じた。
 チュッ。
 期待に睫毛を震わせていれば、期待通りの温もりが唇に触れた。その甘やかな感触に思わず薄く目を開ける。あまりも綺麗な顔が目の前にあったから、びっくりして再びギュッと目を閉じた。
そんな俺の反応が楽しむかのように好き勝手に熱い舌が口内を犯していって……俺の膝がカクカクと笑いだした。


 ――え?
 成宮先生のキスに夢中になっていた時、突然口の中に何かが押し込まれる感覚に思わず体に力が籠る。
突然口内に侵入していた異物を吐き出そうと成宮先生から離れようとしたけど、逆にギュッと抱き締められてしまう。
「んんッ! んん……!」
 顔を横に振って抵抗しても解放してもらうことなどできずに、苦しさのあまり二人の交じり合った唾液と共にその異物を飲み込んだ。
 食道を咀嚼されていない固形物が通る感覚に、思わず眉を顰める。


 ――一体俺は、何を飲まされたんだろう……。


 ようやく解放された俺は、恐る恐る成宮先生を見上げた。きっと毒物を飲まされることなんてないだろう。
そんな心配はしていないのだけれど、嫌な予感しかしない。この人のことだから、想像している右斜め上辺りをついてくるに違いない。
 まるで蛇に睨まれた蛙のように怯えていると、唾液で濡れぼそった形のいい唇が意地悪く吊り上げられた。


「葵、今のは媚薬だよ」
「び、やく……」
「そう、媚薬。今薬局に寄ってきたんだけど、香水臭いオバサンに『今度一緒にどうですか?』って貰ったんだよ。そんなオバサンと使う気なんてサラサラなかったけど、葵には飲ませたかったら、ありがたく頂戴したんだ」
「媚薬ってもしかして……」
「そう」
 切れ長の目がまるで三日月のように細められた。


「エロイ気分になる薬」
「……え?」
「さぁて、勤務が終わるまであと三時間。葵君は我慢できるかな?」


 この人は一体何を言ってるんだ? 
怒りで体が震えてきたけど、職場で上司を殴るわけにはいかない。拳を握り締めてグッと堪えた。
「あなたって人は……」
「もし我慢できなかったら、こっそり慰めてあげるからおいで」
 耳元で囁かれればゾクゾクッと甘い電流が背中を駆け抜けていく。全身から力が抜けて尻もちをつきそうになった。


「頑張ってな、葵」
 チュッと、俺の耳にキスをしてから、極上の笑みを残し立ち去っていく成宮先生。そんな彼を、弱々しく睨みつけることしか俺にはできなかった。