『俺をこんな体にして……もう女の子なんか抱けません。千歳さん、本気で責任とってください』


 顔を真っ赤にして、泣きそうな顔をしらながら震える俺を見て、「あぁ、一生大切にしよう」って思ったって……凄く愛しかったって…。


「あの時、ずっとずっと自分の腕の中で守って行こうと心に決めたんだ。それは、何年も経った今も変わってはないよ」
 話の内容とは裏腹に、不貞腐れた顔をしている成宮先生があの当時は少しだけ怖かった。


 俺の前ではいつも不機嫌で、俺はやっぱり召使いなんだろうな……って感じてしまうから。何も言い返せないし、その体に触れるだけでもいちいち緊張してしまう。
「なんで恋人の体に触れるだけで、そんなにビクビクしてんの? ほら、触ればいいじゃん」
 手を握られてそっと温かな頬に押し当てられる。
 俺はやっぱり怖くてギュッと目を瞑って、全身に力を込めてしまった。


「あー、懐かしい……」
 そっと呟いてから時計を見上げれば、もうすぐ午後の三時……回診の時間だ。
「さて、行くか……」
 大きく伸びをしながら、パソコンに記録を入力していた手を止める。
 今日は寒さが厳しい上に空気も乾燥していて、非常に不快指数が高い。
 俺も成宮先生も寒いのが大の苦手だ。


『回診に行ってきます』
『あぁ。寒いから風邪をひかないように気をつけてな』
 きっと今まで眠っていたであろう、眠り姫にメールを送る。
『千歳さん、愛してます』
 そう愛の言葉を送ったところで、成宮先生から愛しい言葉が返ってくることなんて、まずない。
 ただ、スマホの画面を見て、顔を真っ赤にさせながら不貞腐れた顔をしている恋人を想像するだけで、幸せな気持ちになれるのだ。
 ピコン。
 メールの着信音にスマホを見れば、『頑張れ』という色気も可愛げも全くないスタンプが送られてくる。こんなの想定内だけど、やっぱり可笑しくなってしまった。


『だから、本気で愛してるんですよ』
 更に追い打ちをかければ、
『バァカ。早く仕事に戻りなさい』
 なんて、こんな時だけ上司丸出しの返信がくる。きっと今頃、顔を真っ赤にしながら不貞腐れた顔をしているはずだ。
 それを思うだけで、愛しくて、胸が温かくなった。


 先日、完全無敵であり非の打ち所もない、神のような成宮千歳様が体調を崩された。


 今年の冬休みは例年と同じく、目が回るほど忙しくて……。
「この人はいつ休んでるんだろう」って心配してしまうくらい、休みなく成宮先生は働いていた。
 後ろからギュッと抱き締めれば、少し痩せたな……って感じる。表には出さないけど、疲れていることがよくわかった。
 ううん。多分表に出したところで、俺は成宮先生の代わりにはなれない。だから、頼ってすらもらえなかったのかもしれない。


 そんな彼に追い打ちをかけた出来事があった。
 三崎崇《みさきたかし》君。三歳。
 崇は生まれた時から障害を持っていて、出生直後に「長くは生きられないでしょう」と両親に告げられた。
 そんな崇君の主治医に成宮先生がなって、成宮先生は決して諦めることなく一生懸命に小さな命と向き合い続けた。
 その甲斐あってか、奇跡的に崇君は成宮先生の顔を見るとうっすら笑みを浮かべるようになる。
「崇君、頑張れ」
 愛しそうに崇君を撫でる成宮先生は、嘘偽りもないスーパードクターそのものだった。


 それでも、崇君の新生児みたいに小さな体にも限界は訪れる。
 崇君はご両親と成宮先生が見守る中、お空に旅立ってしまったのだ。
 ご両親は本当に感謝してくれていたけど、成宮先生の落ち込みようは想像以上だった。
 顔は真っ青で呼吸がいやに浅い。その場にグズグズと座り込んでしまう体を必死に支えながら、何とか家まで連れ帰った。


「すまん、葵。疲れた……」
 初めて聞く成宮先生の弱音に、胸がギュッと締め付けらる。
 部下として、恋人として……止めてあげればよかったのだろうか。前しか向いていない、猪突猛進で猪みたいなこの人を……。
 少し休んで、って制御してあげればよかったのかな。
 脱力しきった体を抱き締めながら思う。きっとこの人は恋人だろうが親だろうが、誰にも止められはしないだろう。だから、こうやって疲れた時には抱き締めてやりたい。
 これは俺だけにできる特権だから。


 その後、成宮先生は全く手付かずだった有給と療養を兼ねて、長期の休みを取得した。周りの医者に休みを取らせるために、自分は夏休みなく働いていたようだ。
 それからというもの、成宮先生はまるで冬眠した熊のように眠り続けた。
 例え目を覚ましていてもボーッとしてして……まるで『燃え尽き症候群(バーンアウト)』になってしまったようにも感じる。
 今の成宮先生の心は、空っぽに見えた。


「千歳さん、仕事に行ってきます。ご飯、用意しといたから食べてくださいね」
「行っちゃうのか……」
「できるだけ早く帰ってきますから」
「んん……」
 それでも「行っちゃ嫌だ」と、言わんばかりに不貞腐れてしまう。そんな姿は子供みたいに可愛くて……。つい置いていくことに後ろ髪を引かれた。
「千歳さん、ゆっくり休んでくださいね」
「うん」
 安心したように体を預けてくる成宮先生を、両腕で優しく包み込んだ。


 成宮先生が長期休暇をとることは珍しいことらしく、看護師さんや入院中の子供に着きそう母親達がとてもガッカリしていた。
 そんな小児科病棟では小山部長や橘先生が、成宮先生の分まで頑張っていてくれたから、俺も身が引き締まる思いがする。
 俺は、小児科病棟に開いてしまった大きな穴を埋めるために、無我夢中で働いた。
 

 仕事が終わればまっすぐ家に帰って成宮先生の世話をして……。
『ヨーグルトが食いたい。あの桃のやつ』
 子供みたいに甘えたメールがくる度に、つい頬が緩んでしまう。
 どんなに疲れていても、俺は足取りも軽くスーパーへ向かったのだった。


 成宮先生の為に俺にもできることがある。
 それが、たまらなく嬉しかった。