「葵……ただいま」
 先に帰宅していた俺が夕食を作っていると、突然背中にぬくもりを感じる。
 嗅ぎ慣れた体臭が鼻腔をくすぐって、つい口元が緩むのを感じた。


「おかえりなさい、千歳さん。今日は早く帰って来られたんですね」
「あー、今日は疲れたから早く上がってきた」
「そうですか。それはお疲れ様でした」
 振り向けば、優しい笑みを浮かべた成宮先生がいた。本当に甘えん坊で子供みたいで……つい甘やかしてしまう。
 その結果、どうにもならないワガママ怪獣を生み出してしまったのだけれど……。


「葵……ムラムラするからさせてよ?」
 耳元で悪魔の誘惑が聞こえる。
 いや、待ってよ。昨日したばっかじゃん!? 俺は全身に力を込めた。
「待って成宮先生。昨日したばっかですよね? それに、今夕飯作ってるから無理です」
 俺にしがみついてくる成宮先生を、力任せに引き離す。負けずと成宮先生も俺から離れまいと、必死にしがみついてきて……大乱闘となった。
「仕方ねーじゃん! したいんだから」
「あなたはお猿さんですか!? そんな毎日毎日やってられませんよ!?」
「可愛すぎる葵が悪い。昨日みたいに可愛く感じられたら、毎日したくなったって仕方ないだろう!?」


 あー、また始まったって思う。
 葵、可愛い可愛いビームが炸裂した。俺は女の子じゃないから、やってる時可愛くなんかないし。
 そもそも、そんなに気持ち良くなんかないし(これは強がり)。
 俺は可愛くなんかない。


「もう一生成宮先生とエッチなんかしません! だって俺は可愛くなんかないから……!」
 思い切り成宮先生を振り払えば、さすがの成宮先生もよろける。俺はそのまま何事もなかったように、夕飯作りを再開した。
 本当は、死ぬ程動揺しているくせに……。


 本当にやめて欲しいんだ。二十六歳にもなるオッサンを捕まえて『可愛い』だなんて。
 もう俺の中の可愛いっていう賞味期限が、確実に迫ってきているのを感じた。
 可愛いっていうのは日下部先生みたいな、若くて華奢な人の為にある言葉だと思う。
 俺は可愛くなんてないから……。
 成宮先生に可愛いって言われるのが嫌で、それから、何となく成宮先生を避けて生活をしていた。


 可愛いって言われることに、強い抵抗を感じるようになった頃から、病棟はある人物の話題で持ち切りとなる。
 それは、日下部先生だった。
 容姿端麗なのにそれを鼻にかけることもなく、黙々と仕事をこなしていく。その姿は、見ていて好感が持てた。
 何よりも、純粋に俺の事を先輩として頼ってきてくれることが本当に嬉しかった。こんな駄目駄目な先輩なのに……。


 そんな日下部先生を特別扱いするのが、俺の彼氏だった。
 日下部先生は体が俺みたいに頑丈じゃないし、体の作り自体が華奢だ。見た目も中性的で、天然爆発だから守ってあげたい……っていう感情が湧く気持ちもよくわかる。
 ただ、あからさまに、「日下部先生、大丈夫ですか?何か困ったことがあったら言ってくださいね?」と、猫を被って特別扱いしてるところを見れば、やっぱり面白くなくて……。
 真っ黒な感情が心を覆い尽くしていく。


 それでも、
「水瀬先生は、もう一人で大丈夫ですよね?」
 そう成宮先生に言われてしまえば、「はい、大丈夫です」としか、返事のしようがなかった。


 いいな、日下部先生は……。
 成宮先生に大切にしてもらえて。
 でも物わかりのいい俺は、そんな事全然気にしてませんよ、って顔をして成宮先生の傍で笑ってた。
 ワガママを言って、スーパードクターで超多忙な恋人を困らせることが、何より嫌だったから。


 可愛いってなんだろう。
 俺のどこが可愛いんだろう。
 お願いだから、可愛いなんて言わないで。俺は、日下部先生みたいに可愛くなんてないんだから……。
 成宮先生を意識的に避けるようになって、早くも一週間がたとうとしていた。
 頭のいい成宮先生はもう気付いてる。俺が自分を避けてるって。抱き合うどころか、キスさえしてない。
 このまま、自然消滅しちゃうのかな……って他人事のようにも思った。
 成宮先生にフラれるのなんて絶対に嫌だけど、どうしても『葵、可愛い』って言われることに、強い抵抗があった。


 もうすぐ訪れるであろう、『可愛い』の賞味期限に、俺は怯えていた。俺のいいとこって、可愛いだけなのかな……。
 病院の非常階段で蹲る。ここは誰も来ないし、暗いし落ち着く。俺の避難場所だった。
 そっと目を伏せて俯けば、誰かがポンポンと頭を撫でてくれる。
「…………!?」
 びっくり顔を上げれば、そこには寂しそうに笑う成宮先生が立っていて……俺の心がズキッと痛む。
 何も言えずに呆然としていたら、俺の前髪を優しく掻き分けた後、何も言わず離れて行ってしまった。


 ◇◆◇◆


 ある日の回診の後、ナースステーションに向かう途中。
 ふと何気ない成宮先生と日下部先生の会話の中で……成宮先生が満面の笑顔を見せた。
 恋人の俺ですら、普段あまり見ないその表情に体が強ばるのを感じる。
 二人で顔を見合わせて笑ってから、
「君は可愛いなぁ」
 成宮先生が、日下部先生の頭をそっと撫でた。
「……え? なんで……」
 それを見た瞬間、全身の毛が逆立つくらい心が掻き乱される。
 この感情ってなんだろう。残された冷静な自分が、自身の心を分析し始める。
 そして、最もピッタリな言葉を見つけ出してくれた。


 千歳さん、俺以外の奴を可愛いなんて言わないで。
 あなたが一番可愛いって思うのは、俺でなきゃ嫌なんだ。


 そう、明らかに俺は日下部先生に嫉妬している。
 あんなに言われたくないと思っていた『可愛い』という言葉。最近は成宮先生に言われなくなって、俺は内心ホッとしていた。
 なのに、なのに……。
 自分のあまりの身勝手さに、乾いた笑みが溢れる。
 成宮先生に可愛いって言われた日下部先生が、羨ましくて仕方ない。自分も、成宮先生に『可愛い』って言われたいんだ。


 平静を装ったまま、何とか一日の業務を終えた頃には、クタクタに疲れきっていた。
 医局では成宮先生と日下部先生が楽しそうに話をしている。
「あーあ、やっぱり日下部先生は可愛いな……」
 心底自分に嫌気がさした俺は、逃げるように職場を後にした。