「あー今日も疲れたぁ!」
 俺は外来が終わった診察室で大きく伸びをする。
「腹減ったな……」
 冬休み真っ盛りの今、小児科病棟は大盛況だ。出掛け先で怪我をしたり、感染症に罹ったり……。
 世間が冬休みモードに突入すればする程、俺達は冬休みからどんどん遠ざかっていく。それこそ、盆暮れ正月なんて関係ない。


 目まぐるしい業務の中、ふと白衣のっポケットに手を入れるとカサッという小さな音がする。
「なんだ?」
 ポケットから音の正体を取り出すと、可愛らしい紙に包まれた苺のキャンディーだった。
 どこにでも売っていそうな、ありきたりなキャンディーだけど、俺からしたらとても思入れのあるもので……思わず口角が上がってしまう。
 懐かしい……。


「あーん」
 大きな口を開けて口に放り込めば、一瞬で甘酸っぱい味が広がっていく。
「うまぁい」
 思わずニコニコしてしまう。それだけで、俺は懐かしい思い出への世界へ連れ去られてしまった。


◇◆◇◆


 それはまだ、俺が研修医時代だった頃の話。
 当時の俺はそれは駄目駄目で(多分今もだけど……)そこれこそ一日中、指導医の成宮先生に怒られてばかりいた。
 相変わらず、成宮先生は俺以外の人には仏のように優しいのに……俺には塩対応もいいところだ。いつも誰もいない所に逃亡しては泣きべそをかく毎日。
 それなのに、家に帰れば恋人としての成宮先生がいて……逃げ場なんて、ありゃしない。
 あの頃は、医者を辞めることしか考えられなかった。


「しんどいな……」
 窓の外を眺めれば、先程まで夕立が来そうな空模様で雷まで鳴っていたのに、今は綺麗な夕焼けが空一面に広がっている。
「翼があればな……」
 最終的には、非現実な妄想の世界へ逃げ出そうとしてしまう始末で。
「それか辞めて、実家に帰ろうかな」
 俺の精神状態は本当にギリギリだった。


「おい、葵。退院カンファレンスに行くぞ」
「あ、はい」
 遠くから成宮先生の声が聞こえてくる。
「よし、行くか……」
 大きな溜息をつきながら、重い体に鞭打って
走り出す。
「ほら、もう少し頑張れ」
 そんな俺を見て、仏頂面しながら頭を撫でてくれる成宮先生に、悔しいけど結局は癒されてしまうんだ。


「帰ったら、いっぱいキスしてください」
「ふふっ。いいよ。だから頑張れ」
「はい」
 向日葵みたいに優しい笑顔で、成宮先生が笑ってくれた。


 そんな俺に救世主が現れる。
「今日から小児科病棟で研修をさせていただきます、菊池尊(きくちたける)です。よろしくお願いします」
「あ、俺、水瀬葵って言います。よろしくお願いします」
 違う病院から、研修医が期限付きで実習に来たのだ。他施設で研修を受けて、新しい知識を身に着けることを目的としているようだが、病棟にまた違った風が吹くようで楽しいなって感じる。
 それに、わざわざこの病院を指名してきてくれたっていうことが、凄く嬉しい。


 何より……。
「菊池君の指導医を務めます、成宮です。よろしくお願いします」
 成宮先生が菊池と自己紹介した青年に、営業スマイルを向けている。
「はい、よろしくお願いします」
 そんな見た目のいい成宮先生を見て、菊池は目を輝かせてた。
この人の本性を知らないなんて、気の毒な人だ……。
 菊池は瘦せ型で、少年のような見た目をしている 、可愛らしい雰囲気を持った男だった。それにとても優しそう。
 仲良くなれそうだな、俺は直感的にそう感じた。


「よっしゃ!」
 俺は心の中でガッツポーズを作る。
 今小児科にいる研修医は俺だけだ。ということは、嫌でも俺が目立ってしまうのだ。でも二人いれば怒られるのも半分になるかもしれない。木の葉を隠すなら山に隠せ……これで俺は目立たなくなることだろう。
 ホッと胸を撫で下ろしていると、成宮先生がニヤニヤしながら近付いてくる。この顔をしている時は、俺を虐めたくて仕方ない……っていう時なのだ。
 嫌な予感しかしない。


「仲間ができたからって楽になると思うなよ?」
「え、そ、そんなこと……」
 この人は透視能力があるのだろうか……そう思える位考えを見透かされてしまった俺は、わかりやすく狼狽えてしまった。
「もし、あの菊池って奴が凄い優秀だったら……」
「あ……」
「お前は余計駄目に見えるかもな?」
「そんな……」
 そうだ、考えもしなかった……そういうパターンもあるのか……。
 俺は言葉を失ってしまった。


「でもな。例え何人研修医がいても、俺には葵しか目に映らないけどな」
「……え?」
「俺には、お前しか見えないって言ってんの! ばぁか!」
 クシャクシャと頭を乱暴に撫でてから、成宮先生は行ってしまう。
 その場には、俺と菊池だけが残された。