「何やってんだよ?」
「……え……?」
突然不機嫌そうな声が、頭上から聞こえてきた。
俺はその声に、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受ける。
「チッ。もう来たのかよ……いいとこだったのに……」
智彰が舌打ちをしながら声がしたほうを向けば、眉間に皺を寄せ、怒りを露にした成宮先生が立っていた。
「もっとゆっくり会議してろよな……」
「うっせぇよ。葵が心配だから急いで帰ってきたら案の定……お前がいる病棟に葵を置いてくんじゃなかった」
そう言いながら、ズカズカと処置室へと入ってくる成宮先生。診察台にちょこんと座っている俺を睨みつける。
「…………」
その視線に恐怖を感じた俺は、声すら出せなくなってしまった。
「彼氏がいない間に、他のDomの誘惑にホイホイ乗りやがって。お前はイケないSubだ。最低だぞ」
「な、なるみやせんせ……」
「最低だよ」
俺は何も言い返せないまま、黙って俯いた。
まるで、肌を切り裂くようなピリピリと張り詰めた空気が部屋の中を包み込む。その雰囲気に耐えきれずに、俺はギュッと目を閉じた。
怖い……怖い……!
その沈黙を、成宮先生の鋭い声が切り裂いた。
「葵、Kneel!」
「え?」
「Kneelだって言ってんだよ! 葵!」
成宮先生の怒りを含んだ声が、ビリビリとその場の空気を振動させるかのように低く響き渡る。
もうそこにいるのは、いつもの優しい成宮先生ではなく、怒りに我を見失ったDomだった。
「来い。Kneelだ」
「…………」
「おいで、葵。お前の飼い主は俺だ」
俺はそっと診察台を降りると、静かに成宮先生の足元にしゃがみ込んだ。まるで、叱られて耳と尻尾を垂らした犬のように。
サラッと伸びた髪が顔にかかり、成宮先生が見えなくなってしまった。
「Good boy。良くできたな」
成宮先生は未だに納得いかないといった表情ではあるが、優しく俺の頭を撫でてくれる。
「いい子だ、葵」
「千歳さん……」
「良くできました」
その言葉に、俺の顔が一瞬で笑顔になる。それはまるで、大輪の向日葵が咲いた瞬間のようだった。
Domに褒められ、認められたSubは、心が幸せで満たされていく。嬉しくて嬉しくて……強い愛情を感じるのだ。
「何て幸せそうな顔をしてんだよ……」
智彰が悔しそうに唇を噛み締めている。
「ただな……」
「痛いッ!」
突然近くにしゃがみ込んできた成宮先生に、強引に唇を奪われる。まるで噛み付くかのような口付けに、俺は小さな悲鳴を上げた。
「俺以外のDomに簡単に体を触らせた愚かなSubには、お仕置きが必要だよ?」
「ごめんなさい……許して……」
「もう遅いよ。お前の彼氏がどんなにヤキモチ妬きで、どんだけお前に惚れてるかなんて、葵が一番わかってるよな?」
まるで蛇のように、ねっとりとした視線に捉えられてしまえば、俺の背中をゾクゾクっと甘い電流が駆け抜けて行った。
期待と不安……相反する感情に心の中が掻き乱されていく。
目の前のDomが恐ろしくて仕方ないのに、それ以上に『お仕置き』をされたくて仕方ないのだ。
こんなにも立派なDomに叱られたい、虐められたい。本能がそれを求めてしまっている。強い強い衝動が全身を突き抜けて行った。
自然と体は火照り、呼吸が浅くなる。興奮からか、目には生理的な涙が浮かんだ。
「俺……千歳さんに、お仕置きされたい」
「だろうな? お前は俺に虐められるのが大好きだから」
そのまま床にしゃがみ込んでいた俺を、ふわりと横抱きで抱え上げた。
「そういう訳だからさ、智彰。俺ら帰るから」
「はいはい。分かりました」
「それからさ……」
「まだ何かあんのかよ?」
智彰がクルリと椅子の向きを変えて、成宮先生に背を向けようとした瞬間……。
ゾクッと俺の背筋を冷たい汗が流れて行くのを感じた。
体中の血液が一気に凍り付いて、体温がスッときえていく……そんな感覚。
心臓が止まってしまうのではないか? そんな恐怖に襲われた。
な、なんだ……これ……。
まるで、狼に崖っぷちまで追い詰められたかのような、威圧感と絶望感。
俺の体は凍り付いてしまったかのように、指一本動かせなくなってしまった。
そんな気配を智彰も感じたのか、思わず成宮先生を振り返る。
その場が異様な空気に包まれた。
「なッ……⁉ 兄貴……」
智彰が言葉を失い、無意識にだろう。成宮先生と距離をとる。
「ちと、せ、さん……」
俺が恐る恐る顔を上げると、そこには、静かに怒りを称えた成宮先生が智彰を睨みつけていた。
その眼光だけで、智彰の体はまるで鎖で雁字搦めにされてしまったかのように、動かなくなってしまう。
俺はあまりの威圧感に、成宮先生に抱えられたまま全身に力を込めた。
体がガタガタと音をたてて震え、もう一度顔を上げることもできない。
これがGlare……。
Glareとは、自分以外のDomに対して、威嚇、牽制のためにDomが行う行為……。簡単に言えば、Dom同士の力の競り合いだ。
でも、成宮先生のGlareに太刀打ちすることができるDomが、そうそういるはずなんてない。
智彰は、成宮先生のあまりにも強いGlareに言葉を発すことさえできないでいる。
「もう、葵にはちょっかい出すんじゃねぇぞ?」
地を這うような低い声に、智彰の顔が引きつっている。
こんなGlareを食らっておきながら、俺に手を出すなんて……余程の馬鹿でない限り出来るはずがないだろう。
「こいつは俺のものだから」
「……わ、わかった」
智彰がなんとか声を絞り出せば、成宮先生がいつものように不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあまたな、智彰。お疲れ」
「……あぁ。お疲れ」
智彰は顔を強張らせながらも、俺と成宮先生にヒラヒラと手を振っていた。



