「成宮先生……俺たち別れた方がよくないですか? 俺、あなたに迷惑かけてばっかだ……」
 泣きたくなった。ここ最近、ずっとずっと本気で考えてきたこと。
 こんな情けない俺となんか、一緒にいないほうがいい。
 俺は、あなたの傍にいる価値なんてないから……。あの人のほうが、きっとあなたには相応しい。


「ふーーーん……」
 成宮先生が少し冷めた目で俺を見つめた。
 突然俺は組み敷かれ、両手を顔の横で強く掴まれてしまう。
これじゃもう、逃げられない。


「じゃあさ、聞くけどさ」
 成宮先生の切れ長の瞳が、俺を捕まえて離してくれない。
「お前は忘れられんの? 俺の腕を。俺の体温を。俺のキスを。俺に愛された記憶を……。なぁ葵……忘れられんのか?」


 俺は一瞬息を呑んだ。だって……。 
 忘れられない。 
 忘れられるはずなんかない……。

 
「忘れられません。千歳さん、ごめんなさい」
 俺の瞳から一粒、涙が零れた。
「苦しいよ、辛いよ、千歳さん……助けて……」


 ようやく言えた本音。
 草むらに隠れていた野良猫は、ようやくそこから出る決心がついたんだ。
 やっぱり一人で隠れているのは辛くて、そして寂しいから。
 成宮先生は無理に俺を引っ張り出そうとはしなかった。俺が自分の意志で出てくるのを待っててくれた。
 だからこそ出てこれたんだって思う。


 寂しくて一人で鳴いていた野良猫。
 本当はかまって欲しくて、でも怖がりだし天邪鬼だから、誰かが迎えに来てくれるをずっと待ってたんだ。
 

 出て行ってもいいの?
 そしたら頭を撫でてくれる?
 怖くて仕方ないけど、俺はあなたの腕の中に向かって歩き出したい。


「俺と橘がキスしてるとこ、見てたんだろう?」
「……は、はい……」
「なぁ葵……」
 成宮先生が不安そうな顔をしながら、俺の髪をそっと撫でる。
「俺の過去の話……聞いてくれるか?」
 いつも揺るぐことなんてない綺麗な瞳が、ユラユラと揺れているのを見て、胸が締め付けられる思いがした。


◇◆◇◆ 


「お前が勘ぐってるように、俺と橘は昔付き合ってた」
「……や、やっぱり……」
 俺が一瞬泣きそうな顔をしたらしく、そっと髪を撫でてくれる。
「当時の俺はアホみたいに盛ってて、見た目さえ良ければ特定の相手なんて作らずに適当に遊んでた。橘と付き合いだしのは軽い気持ちからだったんだけど……生まれて初めて真剣に恋をした」
 俺をできるだけ傷つけないようにって、言葉を選んでくれているのがわかる。
それでも、俺の心はナイフで抉られたように痛んだ。


「付き合うきっかけは、向こうが告ってきたからだった。橘は見た目が良かったからすぐにOKして……あいつは色恋沙汰には慣れてるようだったけど、付き合いそのものにはすごく真面目だった」
 あやすように俺の髪を撫でながら、そっと様子を伺ってくれる。その気遣いが嬉しかった。


「初めて本気で人を好きになって……橘も俺を大切にしてくれた。幸せな時間がずっと続くように感じられた。でも……」
「でも?」
「医師になって二年目くらいから、俺たちの関係に亀裂が入りはじめた。喧嘩も増えて、一緒にいることも苦痛になって……」
 成宮先生が唇を噛み締める。
「仕事とプライベートを上手く分けられなかった俺たちは、食事中の会話も仕事のことばかりになった。橘は仕事も飛び抜けてできたから、奴の頭の中は仕事でいっぱいで……勿論、俺もそうだった。プライベートでまで、仕事のことで口論するようになったんだ」
「そんな……」
「それからは、坂道を転げ落ちるかのように俺たちの関係は崩れていった。いつしか会話もなくなって、心も冷めていって……」
 それを聞いた俺は咄嗟に思う。


『じゃあ俺も、あなたに冷められる日が来るんですか?』


 そう問おうと開いた唇をチュッと奪われてしまう。昨晩キスをし過ぎた唇は、熱を持っていてヒリヒリと痛かった。
「葵を見るとホッとするんだ」
「え?」
「お前はトロいからさ……仕事のことで口論になることなんてないだろう?」
「そ、そんな、ひどい…… 」
「ふふっ」
 成宮先生がクスクス笑いながら俺を抱き締めてくれた。


「いっつも一生懸命なのに、不思議と周りがギスギスしない。めちゃくちゃ頑張ってるから応援したくなるし、失敗しても諦めない。誰にでも優しくて、誰からも好かれて……本当に不思議だよな……」
「なにが不思議ですか?」
「あぁん? なんつーか、お前を見てると励まされるんだよ。仕事が辛いんじゃなくて、楽しくて仕方なくなってくる。プライベートでも、いっつもマイペースだから癒されるしさ」
 成宮先生がもっと腕に力を込めて、ギュッと抱き締めてくれるんだけど……俺は少しだけ苦しくて顔を顰める。


「だから葵が好き」
「え?」
「俺には、お前みたいにポヤポヤしてる奴がいいみたいだ」
 その言葉を聞いた瞬間、キュンッと胸が締め付けられた。むせ返りそうな幸せに泣きたくなる。


「橘とキスしたことについてはすまない。油断したわ。まさか、キスしてくるとは思わなかった」
 心底すまなそうな顔をされれば、彼もどれだけ辛い思いをしたのかが伝わってきた。
「お前が望むなら……。橘とキスしたこの唇が汚いっていうのであれば……メスで切り落とすから」
「な、何を言ってるんですか!?」
「だって、もしあのとき、お前が智彰にキスされてたら……って考えただけで俺は腸《はらわた》が煮えくり返りそうになる」
 自分のことを苦しそうな顔で見つめてくるから、そっと髪を撫でてやる。柔らかくてサラサラした髪……気持ちいい。


「俺は葵が可愛くて仕方ない。大好きで仕方ない」
 伸びた前髪を掻き上げて、額にキスをくれた。