「はぁはぁはぁ……」
 息はどんどん上がり、目の前が涙で滲んでいく。
 俺はエレベーターも使わず、必死に階段を駆け降り続ける。呼吸が苦しくて、胸がはち切れんばかりに痛くて……涙がボロボロと溢れ出した。


 成宮先生と橘先生がキスをしているシーンがあまりにも綺麗で……自分がひどく醜く感じた。
「適うはずなんかない……」


 俺は溢れ出る涙を拭いながら夢中で走る。
 階段を降り切って廊下の角を曲がった瞬間……。


「わ! おっと……!」
 俺は誰かと物凄い勢いで衝突する。その衝撃で俺は吹っ飛ばされてしまった。
「だ、大丈夫ですか!? あれ? 葵さん……?」
 転びそうになるのを受け止めてくれたのは、成宮先生の弟である智彰だった。心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。


「え? 葵さん、泣いてるの? 何かあった?」
「ち、あき……」
 成宮先生によく似た顔で優しい言葉をかけられてしまえば、俺の心をかろうじて支えていた最後の柱が、ガラガラと音をたてながら崩れていくのを感じる。


「智彰、智彰……!」
 俺は智彰に抱き付いた。


「智彰! 智彰!」


 俺は無我夢中で智彰にしがみつく。
 もう誰でも良かった。こんな爆発してしまいそうな感情を、誰かに受け止めて欲しかった。
 例え、あの人の弟でも……。


「何があったんだよ、葵さん」
「智彰ぃ。ふぇ……」
 泣きべそをかきながら、優しく自分を抱き留めてくれる智彰の腕に全ての体重を預けた。
 もう最悪だ……。
 アラサーにもなって泣きながら誰かに縋り付くなんて……。情けないにも程がある。
 それでも、智彰の胸の中は温かくて、ホッと息をつくことができた。
 俺はそっと目を閉じて息を整える。
 良かった……智彰に会えて……。


「どうしたの? 葵さん」
 俺の涙を手で拭ってくれながら、顔を覗き込んでくる。その優しい眼差しにひどく安堵する。
 涙でグチャグチャになった俺の頬を優しく撫でてくれるその大きな手に、思わず体の力が抜けていくのを感じた。


「もしかして……兄貴と何かあったのか?」
「え……?」
 無意識にピクンと体が跳ね上がる。
「やっぱり……」
 そんな俺を見た智彰が、整った顔を顰めた。
 智彰を見ていると成宮先生にとてもよく似ている。ただ、成宮先生は綺麗だけど智彰はかっこいい。何にせよ美形な兄弟だ。
「葵さんを泣かすなんて、俺は許せない。前は大人しく身を引いたけど今回は……」
「違う、違うんだよ、智彰。千歳さんは悪くない。でも……」
「でも?」
「本当に千歳さんに相応しいのは、橘先生なのかもしれない」
「橘さん……?」
 その名前を聞いた瞬間、智彰は目を見開いた。


「橘さんが小児科病棟に戻ってきてる、って噂は本当だったんだ」
「うん」
「そっか…… 」
 その反応を見れば、智彰は成宮先生と橘先生が付き合っていたことを知っていたみたいだ。


 そっか、知らなかったのは俺だけだったんだな。
 そう思えばまた泣きたくなってくる。
 結局、俺はあの人の何も知らないんだ……。
「めちゃくちゃ惨めじゃん」
 そう思えば、また目頭が熱くなった。


「葵さん、また俺ん家来る?」
「智彰の家?」
「うん。だって見てらんねぇもん」
 もう一度ギュッと抱き締められれば、胸が締め付けられる。


 あぁ……成宮先生は智彰より少し背が低いのかもしれない。
 髪も智彰のが硬いし、手も成宮先生より大きい。柔軟剤の香りも違うし、智彰のが筋肉質だし……。
 そっか……この人は成宮先生じゃないんだ……。


「俺は、成宮先生に抱き締められたいんだ」


 パチンと頭の中でパズルのピースがハマった気がした。


「ごめんね、智彰。こんなみっともないとこを見せて……」
 慌てて涙を拭いてから、無理矢理笑顔を作る。
「俺さ、やっぱり……」
 俺が口を開いたその時……。
「葵!」
「え……?」
 静かな廊下に、成宮先生の声が響き渡った。
 成宮先生が普段大きな声を出すことなんてないものだから、俺の体がビクンと跳ね上がある。
 俺は、めちゃくちゃ成宮先生に会いたかったのに、会うことが怖かった。


「嫌だ……ごめんね、智彰」
 咄嗟に智彰の体を押しのけて俺は再び走り出す。
 ただ、成宮先生と顔を合わせることが怖くて仕方ない。現実から目を背けたかったから。
「あ、葵!」
 突然逃げ出した俺の後を、成宮先生が追いかけてくるのがわかる。その声を振り切るように俺は走り続けた。


「待て、葵! そっちは……!?」
「へ?」
「危ない!」
「わぁぁぁぁぁ!」


 ガンッという物凄い衝撃音と共に、俺は吹き飛ばされる。
 そのまま廊下に投げ出された瞬間、目の前を火花が散った。
「ウッ……グハッ!」
 あまりの衝撃に俺はその場に蹲る。
 薄れゆく意識の中、俺は自分が衝突したであろう物体を見上げた。視点はなかなか定まらなかったけど、ようやくその物体の正体が発覚する。
「あ……ホスピッチュ……」
 それは、つい最近発表になったばかりの病院のイメージキャラクターのホスピッチュ。
 ハムスターくせに、やたら大きなオブジェだった。
 何で作られているのかはわからないけど、めちゃくちゃ硬い。


「マジ、か……」
「葵!? 大丈夫か!?」
 薄れゆく意識の中で、青ざめた成宮先生を見つけた。