ずっと昔、成宮先生が教えてくれた屋上。
成宮先生は嫌なことがあったときに、いつもここに来るって教えてくれた。
そして、俺もいつしか壁にぶつかった時や、辛いことがあった時に屋上を訪れるようになっていた。


「あぁ、涼しい……」
 もうすぐ日付が変わろうとしている今は、肌がピリピリするくらい寒い。それでも屋上を吹き抜けていく風が、火照った俺の体を冷やしてくれる。
 結局、パラパラと少し雨が降っただけで、雪は降らなかった。


 一日中病院の中にいると、外の気温さえもわからなくなってくることがある。
きっと、もうすぐ冬休みが始まるんだろうな……って頭の片隅で思った。


 緊急手術のため手術室に入った成宮先生と橘先生は、二十一時を過ぎても医局に戻っては来なかった。
 先に帰ってろと言われても、帰るのはさすがに気が引ける。
「成宮先生まだかな……」
 屋上の策に寄り掛かりポツリ呟く。
 一秒でも早く、成宮先生に会いたかった。


 その時、屋上に向かってくる足音と話声が聞こえてくる。
「ヤバい……ここ、立ち入り禁止だ……どうしよう!?」
 サッと血の気が引いた俺は、咄嗟に屋上に置かれているベンチの傍に蹲って身を隠した。
「バレたら怒られる……」
 息を押し殺して、体を小さく小さくした。


 屋上に来た足音は二人。
「あれ? もしかして……」
 俺が恐る恐る声がする方を覗けば、そこには成宮先生と橘先生がいた。
「なんでこんな所に二人がいるんだ……?」
 いけないことだとわかっていながら、俺は二人の会話を耳をダンボにして盗み聞きしてしまう。
「成宮先生、ごめんなさい。俺、どうしても二人の会話が知りたいです」
 心の中で謝罪をした。


「橘、悪かったな? こんな遅くまで付き合わせて」
「ふふっ。別にいいよ。結局、お前は俺がいないと駄目なんだからさ」
「そうかもな……」
 親しそうに話す二人は、絵に描いたような美青年達で思わず溜息が漏れるようだった。
 長時間の手術で疲れたのだろうか。お互いに気怠そうな顔をしていて、涼しい夜風に目を細めている。
そんな二人を、大都会の夜景が優しく包み込んで。
この世界は、この人達の為にある……そう思えるくらいだった。


「なぁ、成宮」
「ん?」
「昔さ、こうやってよくここに二人来たよな」
「あぁ、そうだな。ここが俺たちの避難場所になってた」
 懐かしそうに笑う成宮先生を、切なそうに橘先生が見つめている。
「成宮、お前さ……今、付き合ってる人とかいるの?」
「あ?」
「恋人はいるかって聞いてんだよ」
「何だよ、突然」
「いいから答えろよ」
 いつも穏やかな橘先生を前に、さすがの成宮先生も目を見開いている。答えを急かすかのように、橘先生が成宮先生の手をそっと握った。


「恋人は、いるの?」
「うん。いるよ」
「その人のことが、お前は好きなの?」
「……あぁ。好きだ。息もできないくらい、な」
 

 その言葉を聞いた瞬間、心臓がバクンと跳ね上がる。
 嬉しくて成宮先生に飛びつきたくなる衝動を必死に堪えた。


「そっか……。でも、俺はまだお前のことが好きだよ」
「は? 橘、何言ってんだよ。俺たちはもう終わったはずだろう?」
「お前にしてみたら、俺たちの関係なんて過去の出来事かもしれない。でも俺は……あの時間を思い出なんかにできないよ」
「橘……」
「俺は今でも……お前が……」
「馬鹿が……」
 そっと目を伏せた橘先生の頭を、成宮先生がそっと撫でてやる。その手付きは、ひどく手慣れたものに見えた。


「千歳……」
 橘先生がそっと成宮先生に抱き付けば、戸惑いの表情を浮かべたものの、そっとその体に腕を回した。
 まるで、泣く子供をあやすかのように、「よしよし」なんて背中を擦ってやっている。


 その光景を目の辺りにしてしまえば、俺の心の奥底でグツグツと汚い感情が煮えたぎり出してしまう。
 それはヤキモチ、なんて可愛いものではない。
もっともっと醜くて、ドロドロしていて……そんな感情を抱いてしまう自分が怖かった。


「千歳、キスして……」
「おい、調子に乗るなよ。俺は付き合ってる奴がいるって言ってんだろう?」
「千歳、お願い……お願い……」
 成宮先生に甘える橘先生を見て、素直に可愛いなって思う。
 普段はあんなにしっかりしていて、クールに見えるからこそ、そのギャップが更に彼の弱さ故の魅力を引き立てていた。
「千歳……」
「橘……ん……ッ」
 成宮先生が何か言おうと口を開いた瞬間……。


「え……?」
 俺の中の時が止まる。
 目の前で二人の唇がフワリと重なった。


 その瞬間、俺の心臓が爆発しそうなくらい高鳴って、呼吸さえできなくなる。過呼吸になりそうになるのを、必死に耐えた。
 呼吸、呼吸をしなきゃ……。


 啄むように数秒続いたキスが、俺にはとんでもなく長い時間に感じられる。
 目の前で繰り広げられている熱い口付けを、情けないことに俺はハムスターみたいに震えながら見ていることしかできない。
 チュウッというリップ音を響かせながら、名残惜しそうに唇が離された。


「好きだ、千歳……」
「橘……」


 ガタンッ。
 俺は咄嗟にその場から立ち上がり、逃げるように走り出す。
「葵……?」
 成宮先生が目を見開いて俺を見つめていたのを感じた。
 きっとここに俺がいるなんて思ってもいなかっただろうから、さぞやびっくりしたことだろう。
「葵!? 待て、葵!?」
 成宮先生の声を振り切るように俺は走った。
 振り返りたいけど、振り返ることが怖かった。


 追いかけて来てほしいのに、放っておいてほしい。
 いや、本当にお似合いの二人だから……だから、俺がこのまま身を引いたほうがいいのかもしれない……。