「水瀬くん。あれは良くないよ」
「え?」
「誰かに見つかったらどうすんの?」
今日は早く帰ろうと医局で帰り支度をしていた俺に、橘先生が声をかけてくる。
まるで、お人形のように整った顔立ちをした橘先生に見つめられると、その瞳に吸い込まれそうになる。
成宮先生とはまた違った綺麗さに、ドキドキせずにはいられなかった。
何とも言えない色香にクラクラと目眩がする。
それと同時に、自分の野暮ったさが悲しくなった。
「処置室でキスして、誰かに見つかったらどうするんだ?」
「え?」
その瞬間、バクンと心臓が大きく跳ねる。
見られてた……全身から血の気が引いて、体がカタカタと震え出した。手先が氷のように冷たくなる。
俺は、男のくせに泣きたくなった。
「ちょうど目撃したのが俺で良かったけど、看護師とかだったらどうするの? 君も成宮も終わりだぞ」
「…………」
「それとも、君は当直明けの恋人に拗ねた芝居をして、キスをねだるような淫乱な男なわけ?」
宝石のように綺麗な瞳に睨まれた俺は、まるで金縛りにあったかのように体が動かなくなってしまった。
「これからは、TPOを考えて行動しなよ? 成宮を困らせることだけは、絶対にしないで欲しい」
俺が何も言い返せず黙って俯いていれば、そっと橘先生が近付いてきて俺の顎に指をかける。
「なっ……!?」
そのままクイッと顔を上げられれば、橘先生と至近距離で視線が絡み合った。
「ねぇ、いいこと教えてあげる」
ふふっと悪戯っ子みたいに笑いながら、橘先生が俺の耳元で囁く。その甘い声にゾクゾクッと背中を甘い電流が流れた。
「エロいことするなら、この病棟の一番端にあるリネン庫がいいよ?」
「え……?」
「あそこは誰も来ないから」
橘先生が俺の顔を覗き込みながら楽しそうに笑う。
「あそこで俺と成宮も、よくイチャイチャしてたんだ……」
「…………」
「見つかるかも知れないっていうスリルで、あいつめちゃくちゃ興奮するから。是非試して見てね」
泣きそうな顔をしながら橘先生を見上げれば、つい先程の表情と違い、怖いくらい真剣な顔をしていた。
知りたくなかった、こんな話……。
涙が溢れ出しそうになったから、俺は慌ててリュックサックを掴み橘先生から体を離した。
「す、すみません。これからは気をつけます!」
軽く頭を下げて慌てて医局を飛び出した。
やっぱり、成宮先生と橘先生は……。
堪えきれなかった涙が頬を伝ったから、俺は必死に白衣の袖で拭う。
心が張り裂けんばかりに痛んで悲鳴を上げた。
悲しくて悔しくて、涙が次から次へと溢れてくる。
それなのに成宮先生が好きという思いだけは、消し去ることができなかった。
マンションに帰る途中、近くの公園に立ち寄る。
ここには野良猫が何匹かいて、餌こそあげないけど写真を撮ったり、一緒に遊んだりしていた。
「今日は猫の集会がないのかな……」
野良猫がいつも溜まっている場所を覗けば、二匹の成猫を見つける。
茶トラの猫と、黒猫。
可愛いから思わず近寄って、「おいで」と声をかけた。
すると、茶トラの猫は近づいてきて喉をゴロゴロ鳴らしながら腹を見せて寝転んだ。
その人懐こさに、嬉しくてつい微笑んでしまう。
頭を撫でてやれば、満足そうに目を細めた。
「お前は得な猫だなぁ……」
見ず知らずの俺に腹まで見せる警戒心のなさは、呆れるけれど、本当に可愛い。
逆に黒猫は、俺が近寄ると一目散に逃げて、草むらからこっちをの様子を窺っている。
俺が嫌なら遠くまで逃げればいいのに、わざわざ近くの草むらに隠れるなんて……。
本当は「おいで」って迎えに来て欲しいのかなって思う。でも、素直になれなくて。
僕はここだよ、ここにいるんだよ、ってアピールしてるのかもしれない。
「天邪鬼だな」
俺は黒猫を見て苦笑いする。
まるで今の自分みたいだな……って。
素直に思いを伝えれば、きっと優しくしてもらえるはずだよ?
本当に損な性格だよな……。
ポツンと頭に雫が落ちる。
「雨だ…」
俺は急いでマンションに向かった。
どんな顔して成宮先生に会えばいいかなんてわかんなかったけど、あの温もりが恋しくて仕方なかった。
「成宮先生、会いたい」
俺の呟きは、雨音に掻き消されて水溜まりに消えていった。



