「マジであいつウケるよなぁ……」
 久しぶりに成宮先生が俺の隣で笑ってる。
 本当に他愛のない話なのに本当に楽しそうで。何がそんなに楽しいんだろう? って疑問に思う。
 俺は採血データを眺めていた手を止めて、そんな成宮先生の話に耳を傾けた。子供みたいに笑う姿に、やっぱり胸が締め付けられる。
 忙しい勤務の中、こうやって成宮先生と処置室で過ごす時間が、今の俺にはとても大切に感じられた。


「なぁ橘、聞いてんのか?」
「……え?」
 一瞬、俺の中の時が止まった。
「あっ、ごめん葵だった」
 成宮先生は悪びれる様子もなく俺に謝る。
 本当に俺の気持ちなんてわかってないんだな……って改めて感じた瞬間だった。


「なぁ葵……なんかあったのか? 最近お前おかしいぞ?」
 完全に動きがフリーズしている俺の頬に、成宮先生がそっと手を当てる。
 本当に心配してくれている表情。
 きっと成宮先生は、本当に無意識に、悪気もなく俺と橘先生を呼び間違えたのかしれない。


 けど、恋人と友達の名前を間違ることなんてあるのか?
 そうも思うけど、それだけ二人でいる時間が長いのだろう。
 俺との時間より、橘先生との時間の方が濃厚で印象に残ってるのかもしれない。
 悔しいなって思う。


 もっと自分のことだけを一生懸命見てて欲しいって、満たされない俺が子猫みたいに鳴いている。
 俺は人懐こい猫のように喉をゴロゴロ鳴らすことなんてできない。
 でも本当は撫でて欲しくて、草むらでこっそり人間の様子を窺ってる。まるで野良猫のように……。
 だから、あなたから近づいてきて草むらから引っ張り出してよ。


 あたなに、頭を撫でて欲しいんです。
 大きくて温かな手でこの体に触れて、柔らかくて甘い唇でキスして欲しい。
「可愛いな」って囁いて欲しい。
 成宮先生の全てが欲しい。
 心も体も。過去も未来も……。
 全部が欲しくて堪らない。


「ねぇ、キスして?」
 成宮先生だけに聞こえるように囁く。
 でも、この人がどう出るかなんて想像もつかない。「馬鹿」って、軽く叩かれて怒られるかもしれない。呆れられて無視されるかもしれない。
 だって、今この部屋の近くにはナースステーションがあって、たくさんのスタッフがいる。もちろん橘先生もいるだろう。
 先程から、橘先生が楽しそうに看護師さんと話す声が聞こえてきた。


 こんなくだらないワガママ、叶うはずなんかない。わかりきってるけど、なんとなく言いたかった。
 とにかくワガママを言いたかったんだ。そうやって自分の存在を主張したかったから。
「今、ここでか?」
 成宮先生の切れ長の目が見開かれた。
「はい、今ここで……」
 そんな戸惑いで揺れる成宮先生の視線を、俺は真正面から受け止めた。
「駄目ですか?」
 更に追い打ちをかけて、成宮先生の心を揺さぶる。
「成宮先生、お願いですから……」
 みんながいたって構わない。俺は成宮先生に抱き着いた。


 その瞬間、成宮先生の体が強張る。
「何があったんだ? お前、この前からおかしいぞ?」
「何もないです。ただ成宮先生にキスして欲しいだけ」
「みんながいるんだけど……?」
 困ったように成宮先生が笑う。
 遠くから、成宮先生の名前を呼ぶ看護師さんの声が聞こえてくる。もしかしたら、PHSで呼び出されるかもしれない。
「嫌ならいいです」
 俺がイジケた様子で成宮先生から離れれば、グッと体を引き寄せられた。
「嫌じゃないよ。ちょっとびっくりしただけ」
 耳元で成宮先生の声が聞こえた後、唇と唇がフワリと重なった。


「エロい子は大好きだ」
 力一杯引き寄せられたから、想像以上に唇が深く重なってしまい……自分でねだっといてなんだけど、びっくりしてしまった。
「……ん、んん……ッ……」
 舌を絡める音がやけにはっきり聞こえて、息もできないくらい濃厚な口付けに翻弄される。
 パタパタと廊下を走る看護師さんの足音に、異常に興奮してしまう自分がいた。


 ここ、ナースステーションの隣の部屋だったんだ……。
 ヤバイ、見つかっちゃうかも……。


「もっとするか?」
 チュッと唇に吸い付いて名残惜しそうに離れていった成宮先生が、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んだから、
「も、もう、大丈夫です……」
 俺は恥ずかしくなって俯いてしまった。自分から言っておいてなんだけど、もう恥ずかしくて顔なんか上げられない。


 近くにあった検査結果を忙しくかき集め、処置室を後にする。
 自分のあまりの軽率さに、心底ガッカリしてしまった。


「おっと……」
「す、すみません」
「どうしたの? やけに急いでそうだけど」
「なんでもありません。失礼します」
 部屋を出る瞬間、偶然処置室に入ってこようとした橘先生とすれ違う。
 勢いよく飛び出してきた俺に、驚いたような顔をしていた。


「何やってんだよ……」
 廊下まで走って、俺は顔を覆ってその場に崩れるように座り込んだ。腰が抜けてしまったかのように、体に力が入らない。
「本当に、馬鹿過ぎるだろう」
 成宮先生が追いかけて来なかったことに、ひどく安堵した。