「葵、ちょっと来い」
「は? え?」
 トボトボとナースステーションに行けば、成宮先生が俺の腕を引いて人気のない処置室へと連れて行った。
 眉間に皺を寄せて、顔を引き攣らせている。昨夜のメールにも着信にも一切応答しなかった俺に、腹をたてているのかもしれない。


「おい、葵」
「……はい……」
「お前、昨日家に帰ったのか?」
「一応帰りました」
「一応?」
 俺の言葉に、ピクッと成宮先生が反応する。
「髪だってビショビショだし。誰かと一緒にいたんじゃねぇだろうな?」
「一緒に寝てくれた優しい人はいました」
 ふと、ゲームセンターで取ってきたフワフワのぬいぐるみを思い出す。柔らかくて温かくて……一緒に寝ていて気持ち良かった。


「お前、彼氏が当直の日に堂々と浮気かよ?」
「へ? 浮気?」
「違うのかよ? 最近何だかお前変だし。他に好きな奴でもできたんじゃねぇだろうな?」
 想像もしていなかった言葉に、俺は目を見開いた。
 俺が浮気、浮気……あまりにも突飛な発想に俺が呆然と成宮先生を見つめれば、大きな溜息をつかれてしまう。
「その反応じゃ、浮気はしてないみたいだな?」
「う、浮気なんて、する勇気はありません」
「あ、そ……」
 散々問いただしておいたくせに、興味なさそうに呟いた。


「ほら、葵」
「え?」
 成宮先生が不貞腐れた声をだしながら、俺に向かって両手を広げた。
 もしかして、成宮先生の胸に飛び込んで来いってことかよ……?
 ちょっと恥ずかしくなったけど、誰も傍にいなかったから素直に成宮先生に体を寄せて、その胸に顔を埋めた。
「あんまりフラフラすんなよ。心配になるだろうが」
「はい。ごめんなさい」
 そんな俺をギュッと抱きしめてくれて、耳元で優しく囁く。くすぐったくて仕方ない。
 自分は、この人に愛されているのかなって思う。


 でも、俺がここに来るまでずっと橘先生と二人きりだったんだって思うと面白くない。
 じゃあ、「少しだけでも二人きりでいたい」って素直に伝えればいいんだ。
 そしたら成宮先生は、きっと俺と二人きりの時間を作ってくれる。なのに、それを言い出せない天邪鬼の自分がいた。
 俺のこのモヤモヤした思いに気付いて、成宮先生の方から俺を引き寄せて欲しい。
 俺だって、たまには甘やかされたい。


「今日、橘先生は何時頃出勤されたんですか?」
 そっと問えば、
「ん? 橘? よく覚えてないけど、七時くらいじゃん?」
 あっけらかんと答える。やっぱり、俺のくだらないジレンマや葛藤なんて、成宮先生は気付いてもいない。
「そうですか……」
「なんで急に橘が出てくるんだよ?」
「別に……なんでもありません」
 俺は明らかに面白くなかったけど、何でもないフリをした。しなきゃいけないんだって、いつもの癖で思ってしまった。


「髪の濡れた葵を見たらムラムラしてきた」
 成宮先生が、俺を試すような、からかうような顔で髪に顔を埋めてくる。
「なぁ、どっか人がいねぇとこでイチャイチャするか?」
 悪戯っぽく笑う成宮先生を見ると、何だか切なくて仕方なかった。
「そうですね。俺もムラムラしてきました……」
「は?」
 俺の意外な返答に成宮先生が目を見開いた。自分から誘ったんだから、そんなに驚くことないだろうに……。可笑しくなってしまう。


「俺も……イチャイチャしたい……」
 いつもより甘い声を出して成宮先生の首に絡みつけば、
「じゃあ、中材(中央材料室)でも行くか?」
「はい」
 優しく微笑む成宮先生にそっと背中を押され、廊下まで歩いて行ったところで橘先生に声をかけられた。


「水瀬君、おはよう」
 橘先生は何も考えず、純粋に俺に声をかけてきたんだろうけど……俺は面白くなかった。
 たった数時間でも、成宮先生を独占していた橘先生に勝手に嫉妬してしまった。


「やっぱ嫌です」
 俺は、成宮先生の手を振り払い俯いた。
「葵?どうした?」
 心配そうに顔を覗き込む成宮先生を無視して背を向けた。


 あなたなんか、もっと困ればいい。もっと俺で困って傷つけばいい。
 独りよがりの嫉妬に、あまりにも身勝手な立ち振る舞い。
 なんて愚かなんだろうって思うけど、素直になれない自分がいた。

ワガママを言ったらいけない、困らせたらいけない。そんな感情が制御不能となって成宮先生を困らせている。
 そんなことはわかっているのに、俺はただ成宮先生から歩み寄って欲しかった。
 こんなワガママな俺を全部受け入れて欲しかった。
 ごめんなんさい、って心の中で思う。


「どうした?喧嘩か?」
「いや、何でもない」
 橘先生が近づいてきて、そっと成宮先生の肩に手を置いた。
 優しい橘先生は、きっと純粋に俺達のことを心配してくれてるんだろう。


 ねぇ……橘先生は、成宮先生のことが好きなんですか?


 心に引っ掛かって離れない疑問。
 橘先生にも聞いてみたいけど、怖くて聞けない。
 だって、もし『好きだ』って言われたら俺に勝ち目なんてないから。
「喧嘩なんかしてないから」
 成宮先生がいつも通り橘先生に笑いかけた。自分以外の人間に向けられた笑顔に、苛立ちを隠しきれない。
 

 俺の喉も、ゴロゴロ鳴ったらいいのになぁ……。


 あれ以来、曇り空のように心が晴れない俺は、成宮先生に迷惑をかけないよう距離をとるようにしていた。
 一緒にいると、つい子供のように駄々をこねたくなるし、困らせてやりたい衝動に駆られるから。


 きっといつか、
「橘先生に嫉妬せずに、今までみたいに成宮先生と仲良くできるよ」
 って自分に言い聞かせて、俺は病棟に向かったのだった。