「どうか、平和な夜になりますように……!!」


 夕飯のカップラーメンにお湯を注いで三分待つ間、俺は神頼みに余念が無い。
 今日は俺が当直の日なのだが、新米医師にとって、当直というものはプレッシャーとストレスでしかない。ただでさえ未熟なのに、夜間に救急外来を訪れるありとあらゆる症状を抱えた子供達を、一人でさばかなければならないのだ。


 ちょっとお腹が痛いとか、指を切ったとかなら何とかなるけど、明らかに重症な患者さんが来てしまったときには、パニックになりそうになる。
 今の俺にできることは、とにかく平和に朝を迎えられるよう祈るだけ。


「いただきます」
 いつ、緊急の連絡がきてもいいよう急いでラーメンを食べてしまおうとしたとき、無情にも呼び出しのDr callが、静かな室内に響き渡った。
「あー、来たか……」
 俺は盛大に溜息をつきながら、カップラーメンの蓋を閉じた。


「これは、マズイ……」


 たった今救急車で運ばれてきたのは、まだ二歳になったばかり男の子。
 全身がチアノーゼと言われる紫色に変色し、呼びかけても全く反応がない。
「窒息……いや、心不全……もしかして全然違うことが原因か……」
 背中を冷たい汗が流れて行く。呼吸が浅くなり、目眩がした。立っているのもやっとで、発狂したくなる衝動を何とか堪える。


 駄目だ、俺一人で手に負える状態じゃない。でも、それでも自分は医師だ。迷ってる暇なんかない、何とかしなければこの子は死んでしまうかもしれない……。


 助けなきゃ……!


 俺は拳を握り締めた。


 咄嗟に脳裏を横切る、意地の悪い笑顔。
 あの人なら、成宮先生ならこんな場合どうするだろうか。成宮先生なら……。
 俺は震える指先で、PHSのボタンを押す。その番号は、もうかけ慣れた番号だ。
 プルルル……。
 その呼び出し音が長く長く感じられた。


 成宮先生、お願い……出てください。お願いだから……!


「もしもし?」
 PHSの向こう側から聞こえてくる、ぶっきらぼうな声。やっぱり看護師さん達と話してる時の声とは全然違う。それでも、俺からしてみたら誰よりも頼れる声なのだ。
「成宮先生……」
「ん? どうしたよ?」
 あまりの俺の慌てぶりに、成宮先生も困惑しているのがわかる。でも、成宮先生の声、メチャクチャ安心する。


「今、救急搬送されてきた二歳の男の子なんですが、全身チアノーゼで意識レベルはⅢ-300。目立った外傷はありません。でも呼吸がいやに浅くて、脈は微弱です。それから、それから……」
 目の前にいる男の子の症状を、ノンブレスで報告した。
「わかった。わかったから、まず落ち着け。俺がついてるから」
「え……」
 その言葉に、心臓がトクンと甘く跳ねる。それと同時に「あ、大丈夫なんだ。何とかなる」と全身の力が抜けて行くのを感じた。


「血圧とサチュレーションは?」
「血圧は78/40。サチュレーションは86%です」
「そうか……。いいか、葵。今から俺が指示する通りに動け。大丈夫だ、慌てるなよ。わかったか?」
「はい」
「よし、いい子だ。じゃあ、まず……」
 俺は成宮先生からの指示を必死にメモをする。ペンを持つ手がカタカタと震えた。


 その瞬間、男の子に装着されている心電図モニターのアラーム音が鳴り響く。


「先生……血圧と心拍数がどんどん下がってます」
「大丈夫だ。とにかく点滴をフルオープンで落とせ」
「死んじゃう。死んじゃうかもしれない……どうしよう……」
 俺は、パニック状態だった。
 せっかく成宮先生が色々指示を出してくれたのに、果たして自分はそれができるだろうか。俺に、この男の子を救えるだろうか。


「先生……成宮先生……」


 全身がガタガタ震え、呼吸がどんどん浅くなる。全身の体温がスッと引いていくのを感じた。それと同時に、その場から逃げ出したいと思う自分もいる。怖くて仕方ない。結局、俺は出来損ないの医師なんだ。
 俯いて唇を噛み締める。もう、声を出して泣きたかった。


「葵……」


 そんな俺の鼓膜に、優しくて低い成宮先生の声が響く。俺が大好きな成宮先生の声だった。


「大丈夫だよ、葵。葵ならできる」
「先生……」
「行け、葵。俺がついてる」
「…………」
「頑張ってこい」


 その声に、背中を押された気がした。大丈夫だ、自分には、こんなに優しい恋人がついているんだから。


「はい。やってみます」
「よし、いい子だ」



 電話を切った俺は、深く深呼吸してから、不安そうに自分を眺めていた看護師さん達と向き合った。


「点滴を開始します。24Gゲージのサーフロー針ください。それから、至急でCTを撮影するので連絡入れてください。酸素もマスクで三ℓから開始しましょう」
「はい!」
 一斉に看護師さん達が散って行く。
 その姿に、俺は心強さを感じた。
 それから、自分で目の前で苦しそうな呼吸を繰り返す男の子に、俺はそっと声をかける。


「大丈夫だよ、俺が……ううん。俺と成宮先生が、絶対に君を助けてあげるから」


 それから「よしっ!」と気合いを入れて邪魔な白衣を脱ぎ捨てた。