その日は、ようやく病棟が落ち着きを取り戻した日だった。
入院していた子供たちも元気になって「バイバイ!」と手を振りながら退院していく。
「ママの言うことを聞いて、風邪をひかないようにね」
「うん、わかった! 水瀬先生、ありがとう」
母親に手を引かれて退院していく、そんな光景が嬉しかった。
代わりに、病棟のベッドには空きがたくさんあって、あんなに騒がしかった病棟が、急に静かになってしまう。
「ようやく落ち着いたぁ!」
当直明けの俺は、大きく大きく伸びをする。
「あー、気持ちいい」
冬を感じる頼りない日差し。廊下を吹き抜ける冷たい風が火照った体を冷やしてくれる。
目を細めて辺りを見渡した。
ガラガラの病室が寂しくもあったけど、元気になった子供達の姿は俺からしてみたら、本当に宝物なんだ。
医者になって良かった……。
そう思える瞬間でもある。
「葵の臍、久しぶりに見た」
「えっ!? 成宮先生」
俺は、今みたいにあんまり深く考えないで無防備に臍や尻を晒してしまい、その都度誰かにからかわれてしまう。
勿論、成宮先生はそれを良くは思っていないから、決まって怒られてしまうのだけど……。
「葵の臍だ」
誰もいない廊下で、背中からそっと抱き締められると、胸が甘く締め付けられる。
自分のお腹で組まれた成宮先生の指を、そっと撫でた。
トクントクン。
久し振りに会う成宮先生に、俺の鼓動はどんどん高まって……不覚にも、泣いてしまいそうになった。
会いたかった。
その言葉が俺の心から止めどなく溢れ出して……心が壊れてしまいそうに痛んだ。
「え、ちょ、ちょっと……」
成宮先生が俺のシャツの中に手を差し込んで、脇腹を撫で始める。そんな些細な刺激に、ピクンと体が歓喜に打ち震えた。
お願い……少しだけ。時間よ、止まって。二人だけの時間をください。
「成宮先生! 水瀬先生! いらっしゃいますか?」
そんな二人を引き裂くかのように、遠くから、俺達を呼ぶ看護師さんの声が聞こえてくる。
「水瀬、行くぞ」
少しだけ寂しそうに笑う成宮先生を見れば、咄嗟に「離れてかないで」と言ってしまいそうになる。俺はその言葉を呑み込んだ。
「はい。行きましょう」
無理矢理笑顔を作って、俺達はまた上司と部下に戻ったのだった。
◇◆◇◆
「今日も疲れたぁ!」
俺は、スキップをしながら医局を後にする。
今日は、成宮先生と久しぶりに一緒の日勤だった。しかも、明日は二人共休み。
「今日は成宮先生と一緒に帰れる!ぞ」
そうウキウキしていた俺のスマホに、目を疑うようなメールが届いた。
『佐久間、西田と飲んでくる。先に寝てろ』
「え?嘘でしょ……」
俺の頭の中が真っ白になる。
佐久間先生と西田先生は、成宮先生と同じ大学の同級生だ。
佐久間先生は整形外科、西田先生は泌尿器科。今でも同じ病院で働いている。
そして、この二人は成宮先生の大親友で、俺と成宮先生が付き合っていることを知っている、数少ない人物なのだ。
知ってると言っても、俺たちの態度が露骨過ぎて、成宮先生に近しい友人からしてみたら、隠していることがバレバレらしい。
分かりやすいくらい、俺たちは相思相愛とのことだ。
「あーあ。今日こそイチャイチャできると思ったのに」
俺の体が、一瞬でシュンと萎えていくのを感じる。
「はぁぁぁ…………」
想像していた甘い時間とは程遠い現実に、心の底からガッカリしてしまう。
ピコピコッ。
「はぁ?なんなんだよ」
再び成宮先生からきたメールに、俺は思わず眉を顰める。一体あの才人は何を考えているのだろうか。全く理解できない。
『やっぱり、いつもの店にいるから葵も来い。佐久間達がお前に会いたいんだとさ』
この短いメッセージに、今度は奈落の底に突き落とされてしまった。
「嫌だ、行きたくない……」
俺は頭を抱える。
大体、成宮先生が仲良くしているくらいの人物なのだから、その人達もハイスペックなのだ。でなければ、あの成宮千歳様の友人に選ばれるはずもない。
あの人の『友人』というカテゴリーに入れてもらえるということは、ギネス記録に載るのと同じくらい光栄なことなのだから。
加えて、そのハイスペック軍団が行く店も、所謂チェーン店などではない。
こんなパーカーにスニーカーの俺が、リュックを背負って行く場所ではないのだ。
「なんで俺まで……」
昔から、佐久間先生と西田先生は俺を可愛がってはくれていた。まるで、出来の悪い犬を可愛がるかのように、だけど……。
ただ、俺が成宮先生に逆らうことなどできるはずもないから、
『わかりました。すぐに向かいます』
手短に返信をして、成宮先生達の待つ店に向かったのだった。



