「葵、久しぶりにご飯行かない?」
「あ、でも……俺さ……」
「ん? なんかあんの?」
 更衣室に向かう途中、美優に呼び止められる。


 今日はいつも通りのサービス残業を終えて、成宮先生と一緒に帰ろうと思っていた。だって、今日の成宮先生はいつもと様子が違ったから、放ってなんかおけない。
「美優、俺さ……」
「行ってきたらいいだろ?」
「え?」
 突然聞こえてきた声に、俺は思わず振り返る。
「あ、成宮先生」
「久しぶりの再会なら、ご飯くらい行ってきたらいいよ」
 俺の横を通りかかった成宮先生に、軽く肩を叩かれる。
「水瀬、親睦は大切なことだよ?」
 普段見せることなんてない、他人行儀な笑顔を向けられた俺は、悲しくなってしまう。


 俺は、いつも成宮先生に叱られて、謝ってばかりいる。
 それが凄くストレスだったけど、作り物の笑顔を向けられほうがよっぽど辛いんだ……って、その時知った。


「行っておいで?」
 俺の頭をクシャクシャと優しく撫でてから、先生は更衣室へと消えて行ってしまう。バタンと更衣室の扉が閉まる無機質な音が、やけに鮮明に鼓膜に響いた。
「じゃあ、行こうか?」
 それを見届けた美優が、嬉しそうに笑いながら俺の腕に飛びついてきた。

 ◇◆◇◆

 結局、美優に付き合わされた俺が帰路についたのは、もうすぐ日付が変わる頃だった。
 あれだけのワガママ、束縛男が、元カノとご飯に行けなんて……余程の覚悟があったんだろう。


 今日美優と一緒にいて、色々感じたし思い出しもした。
 女の子は、俺が守ってあげなきゃだし、抱き締めてあげなきゃいけない。
 もし、付き合ったとしたらキスは自分からしなればならないし、エッチだって自分が奉仕しなければならない。
 それは、成宮先生と一緒にいる時とは真逆の世界。
 俺はいつも成宮先生から色々な物を与えられているし、キスだって待っていればしてもらえる。
 抱き締めてだってもらえるし、何より違うのは、俺は成宮先生に抱かれている。


 先生と一緒にいる時とは全く違う世界に、俺は酷く戸惑ってしまった。
 それに、女の子は柔らかいしムニムニした胸もある。ニコニコ笑えば可愛いし、か弱くて守ってあげたくもなる。
 自分がエスコートして、彼女をウットリさせて……そのまま甘く誘惑してベッドへと誘うんだ。


「そっか……俺は男だったんだ」
 今更だけど、先生と付き合い出した時のことを、あまり覚えていない。
 思い出そうとしても、記憶の糸を掴もうとした瞬間、まるでタンポポの綿毛のように空高くへと舞い上がって行ってしまうのだ。
 きっと、ちゃんと覚えてなきゃいけないはずなのに……。


「寒っ!」
 最寄り駅を出れば、あまりの寒さにびっくりしてしまった。
 あんなに昼間は日差しが差し込んで暖かかったのに。厚手のパーカーを羽織ってきて良かったって、心底思う。
 帰ったらすぐにお風呂に入ろう。
 あ……すぐそこのコンビニで、先生の好きなおでんを買って帰ろうかな……。そう思ってコンビニを覗いてみたけれど、俺は先を急ぐことにした。
 だって、一秒でも早く先生に会いたかったから。


 女の子は確かにフワフワしていて、可愛らしい。
 でも俺は、成宮先生のゴツゴツした指に触れられるのが好きだし、逞しい腕に抱き締められるのも好きだ。
 成宮先生は女の子みたいに華奢じゃないし、可愛げなんかない。
 でも、何となく俺の顔色を伺って頭を撫でてくれるし、甘いキスもくれる。
 女の子みたいに抱かれることにも慣れたし、多分俺は、今更誰かを抱くことなんてできないだろう。


 そう……俺は、成宮先生の色にすっかり染まってしまったんだ。
 でも、それでいい。
 ううん、それがいい。


 俺は急いで走り出した。早く、早く成宮先生に会いたくて仕方ない。
 息を切らして走って、マンションに辿り着いた時、俺はエントランスの階段に蹲っている黒い物影を見つけた。
「誰だろう」
 少しだけ恐怖を感じながら目を凝らせば……。
「千歳さん……」
 俺の声に弾かれたように、その人物は顔を上げた。


「もしかして、ずっとそこで待ってて……」
 拗ねたような顔で俺を見上げているくせに、何も言ってはこない。俺はそっと成宮先生に近付いて、その体を抱き締めた。
 そんな成宮先生の体は氷みたいに冷えきっていて、少しだけ震えている。その冷たい頬を両手で包んで、優しく口付けた。
「千歳さん、ずっとずっと俺を待っててくれたんですか?」
「あぁ?」
 俺の腕の中にいる成宮先生の体が、ピクンと反応する。天ノ弱が牙を向いた瞬間だった。


「俺は別にお前なんか待ってねぇよ。ただ、夜風が気持ちいいからここにいただけ」
「そうですか……俺はてっきり、美優と出掛けた事が心配、で待っててくれたものかと……」
「はぁ?そんな訳ねぇだろ? あんなブスに、俺がヤキモチ妬く訳……ねぇよ……」
 最後の方は小声になって、良く聞き取れなかった。それでも甘えたいのか、クスンと鼻を鳴らしながら、俺の首筋に顔を埋めてくる。


「ヤキモチなんか妬かねぇ。だって、葵は俺の物なんだろう?」
 少しだけ不安そうな顔をしながら俺を見上げてくる成宮先生。
 あのいつも自信満々で傲慢な人が、こんな怯えた顔をするんだって驚いてしまった。
 何の取り柄もない俺が、あなたの心をこんなにも揺さぶる事ができるなんて……ごめんなさい。俺、凄く嬉しいです。
「そうですよ。俺はあなたの物です」
「当たり前だろ」
「はい。あなたのお気に召すままに……」
 綺麗な瞳を覗き込みながら笑って見せれば、いつもの成宮千歳が不敵な笑みを浮かべた。
「わかってんじゃん」


 そう、これでいい。あなたはこうでなくちゃいけない。


「寒い……」
 甘えたような声を出して、俺をギュッと抱き締めてくれる。あ、やっぱり寒かったんだ……って思わず笑ってしまった。
「葵であったまりてぇ」
「いいですよ。俺であったまってください」
「何? 誘ってんの?」
「さぁ? どうかな……」
「へぇ、言うじゃん」
 その自信に満ち溢れた笑みに、クラクラしてしまう。珍しく俺からキスをすれば、その柔らかくて甘い感触に心がポカポカと温かかくなった。


 俺、馬鹿だから良くわかんないけど、メチャクチャ幸せなのかもしれない……。
 そのまま、成宮先生と飽きるまでキスを交わした。


「おでん食いてぇな……」
「あ、やっぱり帰りに買って来れば良かったですね? 今からコンビニ行きますか?」
「うん、行く」
「ふふっ。じゃあ行きましょう」


 俺と成宮先生はそっと手を繋いで、夜のコンビニに向かって歩き出したのだった。