「葵、葵……」
「ん?」
「久しぶりだね。あたし、今日からこの病院で働くことになったんだ。またよろしくね!」
「……え? 美優《みゆ》?」
 俺の目の前で笑う女の子は、俺より一つ年下の木下美優《きのしたみゆ》 。
 美優はまだ医大生だった頃、同じ大学の薬剤部に所属していて、今では立派な薬剤師だ。
「へぇ、懐かしいなぁ。お前、全然変わってないな」
「何それ? 褒めてんの? 貶してんの?」
「馬鹿! 褒めてるに決まってんじゃん!」
「ふふっ。なら良かった」
 大学時代と変わらない、その屈託のない笑顔に正直癒される自分がいる。本当に、変わってないなぁ。


「葵がこの病院にいるって聞いたから、薬局から飛んできたんだ」
「……そうなんだ。ありがとう」
「あたしね、ずっと葵に会いたかったよ」
「え?」
「あたし、葵と別れたこと、ずっとずっと後悔してたから」
「美優……」
「だからずっとね、葵に会いたいって思ってたんだよ」


 ガタン。
 突然ドアが開いた音がしたから、慌てて音のした方を向いた。
「水瀬、回診行くぞ」
「あ、はい」
 そこには白衣を着た成宮先生が立っていて、俺達を見下ろしている。
俺が女の子と話をすることを嫌がる成宮先生が少しだけ不機嫌そうな顔をしていたから、俺は内心焦ってしまったけど……それは取り越し苦労だった。


「君は新人さんかな? はじめまして。小児科医の成宮です」
 いつものようにフワリと微笑めば、その場が一気にお花畑になったかのようだ。
 優しい風が吹き抜けて、薔薇の花の馨《かぐわ》しい香りまで漂ってくる……そんな錯覚に襲われた。
「あ、きょ、今日から薬剤師としてお世話になります、木下です! よろしくお願いします!」
 突然のイケメンの登場に、美優が目を輝かせている。そんな美優に、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 成宮先生は、礼儀正しくお辞儀をしたのだった。

◇◆◇◆

「なぁ、今の女誰?」
「え? だから、薬剤師の木下……」
「そうじゃねぇよ、何者かって聞いてんの」
「はい?」
 小児科病棟まで行くには、長い廊下を歩かなくてはならない。
朝の眩しい日差しが差し込む廊下は、白くキラキラと輝いている。暑い夏が終わって、季節は一気に冬へと向かっているように感じられた。


「普通に考えて、ただの薬剤師が、わざわざ小児科まで挨拶に来るわけねぇだろうが……」
 先程まで美優に向けていた笑顔はすっかり影を潜め、明らかに不満そうな表情を浮かべる成宮先生がいる。
その全てを悟ったかのような言動に、「さすがに食えない人だな……」って感じた。


「あいつと付き合ってたのか?」
「…………」
 普段、俺のことなんかお構い無しにスタスタと先を歩く成宮先生が、今日は俺の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれているのがわかる。
「付き合ってたんだろ? あいつと」
 クルリと俺を振り返る成宮先生は、やっぱり拗ねたような、寂しそうな顔をしている。
「答えろ、葵」
 普段は絶対に見せることなんてない苦しそうな表情に、俺の胸がギュッと締め付けられた。
「答えろよ……」
 成宮千歳とは思えない程のか細い声に、俺は誤魔化すことも、嘘をつくこともできなかった。


「先生のおっしゃる通り、美優とは、大学時代付き合ってました」
「そっか……」
 小さくそう呟いた後、俯く成宮先生。
 長い睫毛が影を落として、それが彼の整った顔立ちを更に引き立てて見せた。大人の色気とは、きっとこういうことを言うんだろう。
「じゃあお前は、あいつを抱いたんだな……」
「え?」
「お前は、男として、あいつを抱いてたんだろう?」
 今にも泣きそうな顔をしながら微笑まれれば、俺まで泣きたくなった。初めて見る、そんな弱々しい表情を俺は見たくなんかない。
 俺が見たかった先生の笑顔は、そんなんじゃないから。


「あんなブスの、どこがいいんだよ? 趣味悪過ぎんだろ……」
 まるで子供のように不貞腐れた成宮先生は、凄く可愛らしいけど、それ以上に痛々しかった。


「先生、こっちに来てください」
「ちょ、ちょっと水瀬……」
「いいから、来て!」
 俺は力任せに、成宮先生を近くにあったリネン室に引きずり込んだ。普段ならこの部屋に立ち込めるカビ臭さが気になるのに、夢中になっていた俺は、そんな事を感じる余裕さえなかった。
 窓が一つもないリネン室は、照明をつけなければ昼間でも薄暗い。そんな埃臭い部屋の壁に、勢い良く成宮先生を押し付けた。


「確かに、俺は美優と昔付き合ってました。でも、今俺が付き合っているのはあなただ。だから、美優は関係ない」
「お前には関係ないかもしれないけど、俺には関係ある」
「関係ない!」
「ある」
「なんで!?」
 俺が普段成宮先生に大声を出すことなんてないけど、今日は何だかイライラしてしまった。
 だって、昨日あなたは、あんなに激しく俺を抱いたじゃないか。
 羞恥心も、男としてのプライドも全て投げ打って抱かれたのに……それが全然伝わっていないことが、悲しくて仕方がなかった。


「だって、俺は男だけど……あの子は女だ……」
「成宮先生……」
「それに、俺はゲイだけど、お前はノンケだ」
「…………」
「俺は、あの子に勝てないだろう?」
 苦しそうに俺を見つめる成宮先生の視線が痛くて、目を逸らしたい衝動に駆られる。
「ただそれだけだ。ほら、回診に行くぞ」
 成宮先生がリネン室の扉を開けば、眩しい光が一瞬で目に飛び込んできて……普段は大きくて頼もしいその背中が、一瞬見えなくなった。