智彰が寂しそうに笑った瞬間、俺は力強い物に押し倒された。いつの間にか床に横になっていた俺は、何が起こったのかもわからずに、ただ茫然と天井を見つめる。
 自分が床に押し倒されたということに気づくまで、かなりの時間を要してしまった。


「なら、抱かせて」
「え?」
「俺、ずっとずっと葵さんを抱いてみたかったんだ」
「ちょ、ちょっと、智彰……」
 待ってよ、と言い終わる前に智彰の唇が自分の唇と重なる。
「ち、智彰、待って……ふぁ……んん」
 俺が口を開いた瞬間に、智彰の熱い舌が口内に侵入してくる。それに抵抗することさえできない俺は、呆気なく舌を絡め取られてしまった。
「はぅ……あ、あぁ……やぁ……」
「やばッ。葵さん、キスだけでそんな声出すの? エロ過ぎでしょ?」
 智彰がそんな俺を見て、舌なめずりをする。


 その時俺は思った。
「智彰も、成宮先生と同じ男だったんだ」
 いつもの可愛い智彰は影を潜め、俺の目の前には、成宮先生と同じ獣の目をした智彰がいる。


「葵さん。もっと、もっとキスしよう」
「ふぁ、あ、あぅ……」
 顎を捕らえられて、俺はなすがまま、唇と舌を智彰に差し出すことしかできない。
 卑猥な水音をたてながら深いキスを続ければ、俺の下半身に徐々に熱が籠っていくのを感じる。お腹の奥がジンジン疼いて、俺の口から溢れ出る声には、どんどん欲が混じっていった。


 智彰に、キスだけでこんな風になってるのがバレちゃう……。


 俺は、必死に智彰の腕から逃れようとしているのに、兄弟そろって馬鹿力らしく、それは叶わなかった。
「葵さん……キス、気持ちいいね」
 耳元でねっとりと囁かれれば、ゾクゾクッと快感が背中を駆け抜けて行く。
「このまま抱いていい?」
「……ち、あき……」
「いい?」
「…………」
 俺は、なんて流されやすくて、淫乱なんだろう……って自分自身が情けなくなってくる。


「千歳さん……」


 俺の体は、成宮先生が喜ぶように、成宮先生に抱かれる為に変化していった。
 そう、俺の体は……成宮先生の為にあったんだ。
 いつも、あの人は俺を大切に抱いてくれた。そりゃ、医局とか、ナースステーションの隣の部屋とか、所かまわず発情してしまうのは、俺に取ったら悩みの種だった。
 それでも、いつも冷静沈着なあの『成宮千歳』が、その冷静さを失う程に、自分を求めてくれることが嬉しくもあった。
それだけ、自分はこの人に愛されていると感じられたから。


「千歳さん、ごめんなさい」


 俺の頬を、涙が伝った。
 あの人は、いつでもどこでも、お猿さんみたいに俺を求めてきたけど、俺はそんな千歳さんが…。
「ごめんなさい。千歳さんが大切にしてくれてたこの唇を、俺……汚しちゃった」
 涙が次から次へと溢れてきたから、俺は慌てて洋服の袖でそれを拭った。
「ごめんなさい」
 頭の中に成宮先生の顔が浮かんできて、俺の胸は締め付けられる。
 胸が痛くて、苦しくて……千切れそうだ。


「ごめんなさい……でも、大好き」 


 そんな俺を見て、智彰がそっと笑う。
「大丈夫。葵さんの答えなんかわかりきってるから。ねぇ、葵さん。いい子だから……帰ろう? 兄貴の所に。明日送ってくよ」
 智彰まで泣きそうな顔をしながら、そっと俺から体を離す。そんな顔をする智彰を見ているのが辛かった。
「わかった」
 俺が小さく頷く。


 あまりにも素直に成宮先生の所に帰ろうと思えた俺は、もしかしたら本当は帰りたかったのかもしれない。ただ、きっかけがなかったんだ。
 それに、何よりこんな風に素直になれなかった。
 意地を張って、色々なことから目を背けて……結局、成宮先生だけでなくて、智彰や柏木にまで迷惑をかけてしまったんだ。


「あーあ、楽しくて幸せな魔法が解けちゃった」
 もう一度、俺を抱き締めながらクスクスと笑う智彰の優しさに、俺はもう甘えてなんていられない。
 俺は、成宮先生の所に戻る決心がついた。


「最後にさ……ずっと泊めてあげてたお礼を貰ってもいい?」
「あ、そうだよね。ごめんね、気が利かなくて……」
「ううん、大丈夫」
 次の瞬間、智彰の顔が近付いてきたと思ったら、首筋にフワリと柔らかい感触を感じる。なんだ……と思う暇もなく、いきなり強く吸い上げられた。
「痛ッ!」
「ふふっ。ありがとう。これで十分だから」
 智彰がいつもみたいに、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


 結局最後の日まで、一組の布団に毎日くっついて寝ていた。小さな布団なのに、二人で寝ると本当に温かかった。
 ついさっき智彰にキスをされたから、ベッドでも何かされるのではないか……と俺は一人でドキドキしていたのに、智彰が俺に手を出してくることはなかった。
 ホッとした俺は、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 智彰の話声が、夢現《ゆめうつつ》の中聞こえてくる。
「葵さん、楽しかったね」
 寝ている俺の頬をそっと撫でてくれる。
「可愛い……俺だけのものになったら、どんなによかったろうな」
 そう囁いてから、また寂しそうに笑った。

◇◆◇◆

 暗闇に、智彰のスマホのライトが青白く光る。
 どうやら智彰が誰かに電話をかけているようだ。
 数回の呼び出し音の後に聞き慣れた声が聞こえてくる。電話越しの声は、酷く焦った声をしていた。
「もしもし、兄貴? あぁ、うん、うん」
 その通話相手のあまりの慌てぶりに、智彰が苦笑いを浮かべている。
「あんたも、葵さんのことになると、必死になるんだな」


 俺は、ほんの数日間だったけど、智彰に大切にしてもらった。
 成宮先生が、ガタガタの整備されていない山道だとしたら、智彰は高速道路のような性格だ。
 高速道を走っていれば快適だし、目的の場所に簡単に到着することだろう。それでも、俺は険しい山道を登りながらでも成宮先生と一緒にいたいと思った。
 その山道には、蛇が出るかもしれないし、熊が襲ってくるかもしれない。それでも俺は、成宮先生がいいんだ。 


 本当に、あまりの自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
 それでも、成宮先生の元に戻ることを怖がる自分もいる。だって、どう仲直りしたらいいのかが、わからないから。 
 あの、神さえ恐れぬ『成宮千歳』が勝手に自分の元を去って行った俺を、そう簡単に 許してくれるのだろうか。


 もう、このまま本当に終わってしまうかもしれない。
 そう思えば、俺はあの家に帰ることがすごく怖かった。


 三日月が、寂しそうに空に浮かんでいる。
「今夜は眠れそうにないなぁ」
 智彰の溜息が、静かな夜の世界に吸い込まれていった。