風呂に交代で入り終わる頃には、日付が変わろうとしていた。


「おいで、葵さん。寝よう?」
 まだまだ立ち直れない俺に向かって、智彰が優しく手招きをしてくれている。
「やっぱり俺、今日はソファーで寝るよ」
「なんで? いいじゃん、今日も一緒に寝れば」
「でも……」
「大丈夫だよ。俺は葵さんのことを軽蔑なんてしていないし、嫌いにもなってないから」
 こんな俺にも優しくしてくれる智彰。嬉しくて涙が出そうになる。
 俺は、智彰に本当に救われたんだ。
「ほら、おいで」
 ベッドに恐る恐る近付けば、突然智彰に腕を掴まれてベッドに引きずり込まれる。そのままギュッと抱き締められた。
 智彰の腕の中は温かくて、お風呂上がりのいい香りがする。
 相変わらず距離が近くて戸惑ってしまうけど、今はその距離感さえも心地いい。


「ねぇ、葵さん。柏木さんに見られた時って、馬鹿兄貴に無理矢理押し倒されたの?」
「最初、は……」
「マジで!?」
 智彰が声を荒げたから、俺は顔を上げて必死に釈明をした。
「はじめはね……でも、途中からは俺も気持ち良くなっちゃって……俺から『もっと』ってねだっちゃった」
「え? そうなの?」
「うん。俺、どうしても千歳さんに流されちゃうから」
 その言葉に、一瞬智彰が泣きそうな顔をする。それから、今度はもっと力を籠めて俺を抱き締めてくれた。


「ねぇ、葵さん。やっぱりお嫁さんに来てよ」
「……俺も、智彰のお嫁さんになりたいな。智彰なら、大事にしてくれそうだし」
「それ、めちゃくちゃいいですね。俺、兄貴と刺し違えてでも、葵さんが欲しい」
「ん? 何?」
「ううん。なんでもない」


 また寂しそうに智彰が笑う。その顔を見る度に、俺の胸がキュッと締めつられる。
 智彰と一緒に暮らすようになってから、度々目にするこの表情。
 それは、とても寂しそうで、今にも泣き出しそうに見える。今まで俺が見たことのない智彰だった。
「智彰、なんでそんな寂しそうな顔をするの?」
「なんでって……本当に葵さんは鈍感だなぁ。本当に残酷なくらい純粋で、素直なんだね」
「もしかして俺のせい?」
 慌てて智彰から体を離せば、やっぱり寂しそうな顔をしている。


 嫌だ、そんな顔しないでよ……。
「葵さんの馬鹿」
「ご、ごめんね」
 甘えたように体を摺り寄せてくる智彰を、今度は俺が抱き締めた。

◇◆◇◆

 俺が眠ってしまった後、智彰はそっとベッドを抜け出し、柏木に電話していた。
数回のコールの後、俺と智彰の共通の友人でもある柏木の声が、智彰の耳に届く。
「あっ、柏木さん。お久しぶりです」
「あー、智彰! 久しぶりじゃん。元気してたか? って、急にどうした?」
「あ、いや、葵さんのことなんですけど……」
「葵!? 智彰、水瀬のことなんか知ってるのか!?」
 柏木のあまりの取り乱しぶりに、驚いた顔をする智彰。その後苦笑いをした。


「水瀬、ずっと音信不通なんだよ。成宮先生なんて暇さえあれば、探し回ってて……実家には連絡入れてるみたいだから、元気は元気みたいなんだけど」
「……音信不通、ですか?」
「そう、ちょっと色々あって……」
 その言葉に、智彰がピクンと反応する。
「色々って……柏木さんが、兄貴と葵さんがエッチしてるとこを見ちゃった……とか?」
「お前、なんでそれ……」
 今度は柏木が言葉を失う番だった。


「葵さんなら、俺の家《うち》にいますよ?」
「はぁ!?」
「ずっとここにいますよ。奥さんみたいに家事をしてくれて助かってます」
「まさか……成宮先生の弟の所にいたなんて……。灯台下暗しだな」
 柏木がホッとしたように、大きく息を吐いた。
「俺も見ちゃった手前、めちゃくちゃ責任感じちゃってさ……。ずっと心配してたんだ。でも良かった……居場所がわかって」
 柏木が心底、安堵しているのが伝わってくる


「ねぇ、柏木さん」
「ん? なんだ?」
「あの、その……どんな感じでした? 兄貴と葵さんがやってるとこ……」
 智彰は口に出そうか悩んだ素振りを見せたけれど、ずっと頭に引っ掛かっていた疑問を、思いきって柏木にぶつけてみる。
 知りたいけど知るのは怖い。でも知らないのは、もっともっと怖い。そんな複雑な心境が垣間見えた。


「あっ、あぁ……それがさぁ」
「な、なんなんですか? もったいぶらないでくださいよ」
 そう言葉を濁されると、余計知りたくなってしまうものだ。
 智彰は黙り込んでしまった柏木の言葉を、固唾をのんで待った。
「それがさ、医局に入った瞬間、二人がいたわけなんだけど……どういう訳だか、俺、水瀬しか目に入らなくて……」
 電話越しにも、柏木が照れているのが伝わってくる。
「成宮先生に抱かれてる水瀬が、あんまりにも可愛くて、色っぽくて……ただそれだけだった。それしか感じる余裕がなかった。あいつ、あんな風に成宮先生に抱かれてるんだな」
「そうですか……チッ。やっぱ、聞かなきゃよかったな」
 智彰が小さく舌打ちをしてから、ガシガシと乱暴に頭を掻き毟る。


「でも柏木さん。俺、今葵さんを手放す気なんてないですよ?」
「はぁ? 智彰お前……」
「俺、正直葵さんが俺の所に避難してきてくれたことが、本当に嬉しかったんです。それだけ、俺を信用してるってことですよね?」
「そりゃあそうだけど……」
「だから、手放す気なんてありませんから」
 そう言って、智彰は電話を切る。
 その顔は、酷く傷ついているようにも見えた。でも、俺はそんな二人のやり取りなんて知る術もない。


 ただ、現実から目を背けて、優しい智彰に甘え切っていた。
 ずっと智彰のところにいたい……そんなことを思いながら。